9月 222007
 

金曜日に,高校3年の同級生が集まった.前日の木曜日に集まろうという話になって,同級生とその彼女(嫁さん)含めて8名が集合した.私が「集まれ!」という話を聞いたのは金曜日の午後.「これからみんな集まるんだけど,来れる?」と.こんな突然の号令で,8名が集まるというのは大したものだ.しかも,京都在住者ばかりではない,滋賀や大阪からも集まった.

高校卒業後もうすぐ20年になる.数年前,正式にクラスの同窓会を開催したときにも,30名以上が集まった.凄い出席率だと思う.非常に居心地の良い高校で,高校生活を存分に楽しんだ仲間なので,このように集まるのだろう.

京都駅に集合して,駅ビル内のイタリアンレストランに行ったのだが,「ところで,まだ携帯電話持ってないの?連絡できなくて困るから,携帯電話持ってよ!」と指摘された.大学のメールアドレス宛に連絡してもらったのだが,なぜか拒否されたとのこと.申し訳ない.

確かに,まだ携帯電話を持っていない.これまで携帯電話を持とうとしてこなかった理由は,これまでに書いたとおりだ.

携帯電話の電磁波は危険!?」(2006年12月)

なぜ携帯電話を持たないのか」(2003年10月)

やっぱり携帯電話は持たない」(2003年7月)

携帯電話は持たない」(2001年4月)

携帯電話を持たない最大の理由は,貴重な時間をこれ以上奪われるのは許せないということになる.

街中や,バスや電車の中で,ずっと携帯電話と睨めっこしている人達を見ると,私がとやかく言う立場ではないが,次のセネカの言葉が頭を巡る.

人生の短さについて,セネカ

人生は十分に長く,その全体が有効に費やされるならば,最も偉大なことを完成できるほど豊富に与えられている.けれども放蕩や怠惰の中に消えてなくなるとか,どんな良いことのためにも使われないならば,結局最後になって否応なしに気付かされることは,今まで消え去っているとは思わなかった人生が既に過ぎ去っていることである.

自分の銭を分けてやりたがる者は見当たらないが,生活となると誰も彼もが,なんと多くの人々に分け与えていることか.財産を守ることはケチであっても,時間を投げ捨てる段になると,貪欲であることが唯一の美徳である場合なのに,たちまちにして,最大の浪費家と変わる.

多忙な人間には何事も十分に成し遂げることは不可能である.実際多忙な人に限って,良く生きることが最も稀である.また,生きることを学ぶことほど難しいものはない.生きることは生涯を掛けて学ぶべきことである.そして,恐らくそれ以上に不思議に思われるだろうが,生涯を掛けて学ぶべきことは死ぬことである.

偉大な人物,つまり人間の犯すもろもろの過失を超絶した人物は,自己の時間から何一つ取り去られることを許さない.

ところが,子供ができてからというもの,携帯電話を持たないことが許されなくなりつつある.そういう家庭の事情に加えて,現在使用中のPDA(SONY CLIE)がボロボロになってきており,代替機を探さないといけないのだが,もはや世の中にはPDAが存在しなくなりつつあるという事情もあり,遂に携帯電話を持つことを検討しようかなという状況に追い込まれている.

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