2月 182008
 

十日ほど前の記事「一燈照隅・萬燈遍照: 足下を見つめ直す」に,「年を取ってきたためか,焦燥感と無力感だけが募る昨今である.」と書いた.この「一燈照隅・萬燈遍照」という言葉は,安岡正篤氏の「青年の大成―青年は是の如く」(致知出版社,2002)の中に出てきた言葉である.今日(と言ってももう昨日になるが),その安岡正篤氏の「論語に学ぶ」(PHP研究所,2002)を読んだ.そこで,自身の焦燥感に追い打ちを掛けるような言葉に接し,我が身を省みつつ,この文章を書いているところだ.いずれも論語に記された孔子の言葉である.

『子曰く,年四十にして悪まるるは,其れ終らんのみ.』

孔子が言われた,「人間,年の四十にもなって,人から見切りをつけられるようでは,もうお終いである」と.

『子曰く,後生畏るべし.焉ぞ来者の今に如かざるを知らんや.四十五十にして聞こゆること無くんば,斯れ亦畏るるに足らざるのみ.』

孔子が言われた,「後輩・後進というものは大いに畏敬しなければならない.後から来る者がどうして今の先輩に及ばないということがわかろうか.しかし如何に有望な後生でも,四十五十になって世間の評判にならぬようならば,これは畏敬するに足らない」と.

なんとも痛烈だ.あと数年で私も四十となる.「其れ終らんのみ」なんて言われたら,もう,どうしようもない.若い頃には,自分が「後生」として畏敬される立場だとふんぞり返ってきたものだが,もう,そんな馬鹿なことは言っていられなくなってしまった.「畏敬するに足らない」と見切られてしまわないように,藻掻くことにしよう.

もう1つ.

『子日く,如し周公の才の美有りとも,驕且つ吝ならしめば,其の余は観るに足らざるのみ.』

孔子が言われた,「たとい周公のような才能の美があっても,人に驕り且つ吝嗇(りんしょく)であったならば,その外のことは観るまでもない」.

驕且つ吝であるということは,つまり徳がないということです.だから徳がないような人間は,外のことがいくらよくできても,論ずるに足らないということになるわけであります.

これは心に深く刻んでおかなければならない.この年になって今更ではあるが,徳を身に付けるよう精進しなければならない.

学生には,四十に届くような年齢になってから後悔せずにすむように,早くから自覚してもらいたい.まあ,私如きが言っても説得力がないというのが最大の問題だが...私の言うことなんて聞かなくて良いから,まともな本を読むだけでもして欲しいと切に願う.

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