1月 232009
 

自動車の社会的費用
宇沢弘文,岩波書店,1974

社会的費用というのは,受益者負担の原則が貫かれていないために,社会全体が被っている損失のことである.「自動車の社会的費用」とは,つまり,自動車を利用している人達がその社会的責任を全うせず,社会全体に押し付けているコストということになる.本書は,その社会的費用を算出しようという企てである.

では,自動車によってもたらされている社会全体の損失とは何であろうか.それは,交通事故や環境破壊であると宇沢氏は指摘する.

自動車のもたらす社会的費用は,具体的には,交通事故,犯罪,公害,環境破壊というかたちをとってあらわれるが,いずれも,健康,安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し,しかも人々に不可逆的な損失を与えるものが多い.このように大きな社会的費用の発生に対して,自動車の便益を享受する人々は,わずかしかその費用を負担していない.逆にいうならば,自動車の普及は,自動車利用者がこのような社会的費用を負担しないでもよかったからこそはじめて可能になったともいえるのである.

ここで,「不可逆的な損失」という概念が宇沢氏の主張の鍵となる.損失が可逆的であるなら,元に戻すのに必要な費用を計算すれば,それで社会的費用を見積もることができる.ところが,損失が不可逆的である場合,一体,どれだけの費用が妥当とされるのだろうか.

交通事故による死傷の被害額を算出する際には,ホフマン方式が用いられる.ホフマン方式では,ある人が死傷しなければ稼ぐことができたはずの所得を被害額とする.実に明快だが,被害者側の立場に立てば,これほどヒトとして許せない算出方法もないだろう.

ホフマン方式によって交通事故にともなう死亡・負傷の経済的損失額を算出することは,人間を労働を提供して報酬を得る生産要素とみなして,交通事故によってどれだけその資本としての価値が減少したかを算定することによって,交通事故の社会的費用をはかろうとするものである.

このホフマン方式によるならば,もし仮に,所得を得る能力を現在ももたず,また将来もまったくもたないであろうと推定される人が交通事故にあって死亡しても,その被害額はゼロと評価されることになる.また,高所得者はその死亡の評価額が高く,低所得者は低くなることも当然である.

仮に,重い病を患い,所得を得ることができない上に,高額な医療費を保険で賄っている人がいるとしよう.その人が事故死した場合の被害額はマイナスなのか,つまり死亡して良かったねということなのか,という深刻な問題が生じる.自動車の社会的費用を算出する際に,交通事故に伴う損失をホフマン方式のような方法を用いるのは適切ではない.

同様のことは,環境破壊についても指摘できる.公共投資の優劣を判断する根拠として,社会的便益と社会的費用の差を指標とするコスト・ベネフィット分析が用いられる.この分析では,社会的便益から社会的費用を引いた差が大きければ大きいほど素晴らしい公共投資だという結論になる.それが,どれほど環境に致命的な損傷を与えるとしても.

コスト・ベネフィット的な考え方にしたがうとき,たとえどのように大きな社会的費用を発生したとしても,社会的便益がそれを大きく上回るときには,望ましい公共投資として採択されることになり,実質的所得配分はさらにいっそう不平等化するという結果をもたらす.

「実質的所得配分はさらにいっそう不平等化する」というのは,低所得者層ほど環境破壊などの影響を深刻に受けるためである.例えば,公害が発生した場合,高所得者層はその土地から離れることができても,低所得者層にそのような選択をする余裕はない.原子力発電所は都会に設置されないし,みなが受け入れたくない施設が高級住宅街に建設されることもない.そして,ホフマン方式が示すとおり,低所得者が被る損害は少額にしかなりえない.

人命・健康,さらには自然環境の破壊は不可逆的な現象であって,ここで考えられているような社会的費用の概念をもってしては,もともと計測することができないものである

この点を宇沢氏は強調する.

では,なぜ,これまで,不適切な社会的費用の計算方法がまかり通ってきたのだろうか.それは,社会的費用の計算根拠を,新古典派経済理論に求めてきたことに原因がある.宇沢氏は新古典派経済理論の問題点を2つ指摘している.1つは,生産手段の私有制が基本的な前提条件となっていること.つまり,共有される社会的資本に対する思慮が欠落しているという問題.もう1つは,人間をたんに労働を提供する生産要素として捉えるという面が強調され,社会的・文化的・歴史的な存在であるという面が捨象されていること.つまり,基本的人権や市民的権利など眼中にないという問題.このため,学者が好む新古典派経済理論は,都市問題や環境問題など現代社会においてもっとも深刻な社会的・経済的問題を引き起こしている現象を解明するための理論的フレームワークを提供していない.

では,どうすればよいのか.自動車について,宇沢氏はこう考える.

自動車を所有し,運転する人々は,他の人々の市民的権利を侵害しないような構造をもつ道路について運転を許されるべきであって,そのような構造に道路を変えるための費用と,自動車の公害防止装置のための費用とを負担することが,社会的な公正性と安定性という観点から要請されてくる.

いま,歩行,健康,住居などにかんする市民の基本的権利の内容について,ある社会的合意が成立しているとしよう.自動車の通行をこのような市民的権利を侵害しないようにおこなおうとすれば,道路の建設・維持にどれだけの追加的な費用を必要とし,自動車の無公害化のためにどれだけの投資をしなければならないか,ということを計算する.

市民的権利を金銭換算して評価関数に組み込むのではなく,市民的権利を守ることを制約条件とする.この考えに基づいて,自動車の社会的費用を算出してみようというわけである.

宇沢氏が試算した自動車の社会的費用は,1台あたり200万円.運輸省の7万円,自動車工業会の7千円をはじめ,野村総研の18万円という試算とも大きく異なっている.まさに,オーダーが違う.これが,人の死や環境破壊など不可逆的な市民的権利の侵害を認めるか認めないかの違いである.

宇沢氏は,こう締めくくっている.

この投資基準は,たんに自動車通行のための道路だけでなく,一般に社会的共通資本の建設にさいして適用することができる.このような基準にもとづいて,公共投資をさまざまな用途,たとえば代替的な公共交通機関や道路に配分するとき,社会的な観点から望ましい配分をもたらすものである.この基準を適用するとき,どのような地域に住む人々も,またどのような所得階層に属する人々も,社会的な合意をえて決定された市民の基本的権利を侵害されることがない.また,他人の基本的権利を侵害するような行動は社会的に許されないという原則が貫かれる.そして,すべての経済活動に対して,その社会的費用は内部化され,福祉経済社会への転換が可能となり,わたくしたち人間にとって住みやすい,安定的な社会を実現することができるといえよう.

ポスト資本主義について考えてみるときに,この思想は大いに参考になるのではないだろうか.資本主義後の世界と言えば,「1995→2010世界大恐慌―資本主義は爆発的に崩壊する」(ラビ・バトラ,総合法令,1994)なども参考になるかもしれない.

研究者や技術者が技術を評価する場合にも,コスト・ベネフィット的な考え方しかしてこなかったのではないだろうか.新しい時代の要請に応える評価方法を模索する必要があるのではないか.

目次

序章

  • 自動車の問題性
  • 市民的権利の侵害

自動車の普及

  • 現代文明の象徴としての自動車
  • 自動車と資本主義
  • アメリカにおける自動車の普及
  • 公共的交通機関の衰退と公害の発生
  • 1973年の新交通法

日本における自動車

  • 急速な普及と道路の整備
  • 都市と農村の変化
  • 非人間的な日本の道路
  • 異常な自動車交通

自動車の社会的費用

  • 社会的費用の概念
  • 三つの計測例
  • 新古典派の経済理論
  • 社会的共通資本の捉え方
  • 社会的コンセンサスと経済的安定性
  • 市民的自由と効率性
  • 社会的資本としての道路
  • 自動車の社会的費用とその内部化

おわりに