1月 252009
 

初孫である私を大層可愛がってくれた祖母が90歳で永眠した.亡くなる数日前に会えたことに慰められるものの,其の折に「暖かくなったら子らを連れて来てね」と言われ,「うん.連れてくるよ」と答えたにもかかわらず,その約束を果たせなくなったことが悔やまれる.誹風柳多留に「孝行のしたい時分に親はなし」とあるが,親に限らず,その通りだと痛感した.

早一週間が過ぎようとしているが,久々に,死について想いを馳せる機会となった.

死を免れぬものとすれば,その確実に訪れる転機までに何を為すべきか.

今死んだら,自分の人生に満足できるだろうか.

明日死ぬとしたら,自分は何をするだろうか.

1年後に死ぬとしたら,自分は何をするだろうか.

10年後に死ぬとしたら,自分は何をするだろうか.

100年後に死ぬとしたら,自分は何をするだろうか.

いつ死ぬとしても,自分は同じことをするだろうか.もし同じことをしないとすれば,その行動に普遍的な価値はあるのだろうか.それは,本当に為すべきことなのだろうか.

余命数ヶ月と宣告されたような場合,「残り少ない人生は勝手気ままに好きなことをして生きる」という考え方もある.では,残りが長ければ勝手気ままに好きなことをできないのは,なぜか.好きなことをするだけの経済的余裕がないからか.お金さえあれば,勝手気ままに好きなことをするのか.それはお金に支配された人生ではないか.人生=Function(お金).あるいは,人様に顔向けできないようなことだから,すぐに死ぬことが確定していないとできないということか.いずれにせよ,為すべき価値はないだろう.

あと何日なら残り少ないのか.たかだか数十年の人生は,生まれたときから残り少ないのではないのか.

人生は十分に長く,その全体が有効に費やされるならば,最も偉大なことを完成できるほど豊富に与えられている.けれども放蕩や怠惰の中に消えてなくなるとか,どんな良いことのためにも使われないならば,結局最後になって否応なしに気付かされることは,今まで消え去っているとは思わなかった人生が既に過ぎ去っていることである.

このように指摘したセネカ(「人生の短さについて」)は,生きることと死ぬことを次のように表現している.

多忙な人間には何事も十分に成し遂げることは不可能である.実際多忙な人に限って,良く生きることが最も稀である.また,生きることを学ぶことほど難しいものはない.生きることは生涯を掛けて学ぶべきことである.そして,恐らくそれ以上に不思議に思われるだろうが,生涯を掛けて学ぶべきことは死ぬことである.

「いかに生きるか」に答えることは難しい.

マザー・テレサは,いつ死ぬとしても同じことをしたのではないだろうか.キリストや釈迦も同様ではないだろうか.人間としての本質的価値が高い人々は,そういう生き方をしているのだろう.

私は大学で教育と研究に携わることを選択した.以前,その理由を書いたことがある(「就職活動をする学生諸君,働くことについて改めて考えては?」).

私は,より良い社会を作り出していくためにも教育は不可欠であり,教育は社会の根幹をなすと考えている.それほど重要な教育に携われるというのが大学教員の魅力の一つだ.教育という点だけなら,なにも大学である必要はない.しかし,自分の頭で考えて,新しいものを生み出すという作業が楽しく感じるので,研究も魅力的に感じる.また,研究成果を社会に還元するという方法で,教育とは異なる社会貢献もできる.教育と研究の二兎を追うものにとっては,大学というのは,なかなか素晴らしいところだ.まあ,実態は,本当に為すべき教育と研究以外に労力の半分以上を割いているような気はするが...

ともかく,私にとっては,教育こそが,1)自分の能力を活かす,2)社会に貢献する,3)使命感を持って取り組む,という条件を満たすことができる仕事なのだ.そういう意味では,教職が天職だと思っている.だからこそ,この道に進むように導いてくれた様々な「縁」に感謝している.とりわけ,両親とかつてのボスの影響は大きい.

いまでも考えは変わらないが,祖母の死に接し,生きることについて,改めて考えてみることにしよう.

南無阿弥陀仏

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