2月 122009
 

先に紹介した「日本の教育を考える」(宇沢弘文,岩波書店,1998)では,大学に関する考察にかなりの紙面が割かれている.これは,宇沢氏が東京大学名誉教授であると共に,スタンフォードやケンブリッジなど世界のトップ校で教鞭を執った経験が影響しているのだろう.

いくつかを紹介しておきたい.

大学の大衆化,平準化にともなって,一つ一つの大学のもっていた威信はともに低下し,それとともに,大学の自由を守り,大学における研究,教育の水準を高い地位に維持するということがますます困難となってきました.

差し当たって取らなければならない政策は,主導的な役割を果たすいくつかの大学について,その機構,制度を改革して,大学の自由が完全に保障されるようなものとし,最高水準の研究,教育をおこなうことができるような予算的措置を準備することでしょう.

私も以前から,真のエリート教育を実施し,日本の未来に責任を持てる人材を育成するために,少数の大学を抜本的に改革することが必要と考えている.エリート教育というと頭ごなしに嫌悪する人がいるかもしれないが,本来のエリートとはそういうものではないだろう.「アメリカ 最強のエリート教育」(釣島平三郎,講談社,2004)へのコメントの中で,私がイメージするエリートについて以下のように書いている.

「エリート」という言葉に対して,否定的な感情を抱く人も少なくないだろう.日本では,東京大学に代表される有名大学を卒業し,中央官庁や大企業に就職する人達がエリートであるという暗黙の了解がある.そういう捉え方,つまり「日本の有名大学卒業者=エリート」という考え方をすれば,当然,エリートなんて社会の役に立たないという否定的な意見にもなるだろう.しかし,真のエリートというのは,そんなに安っぽいものだろうか.ペーパーテストで高得点を取れるという条件が,エリートの条件だろうか.そんなわけはないだろうと,私は思う.では,エリートの条件とは何か.1つだけ挙げろと言われれば,ノーブレス・オブリージ(noblesse oblige)を身に付けていることだと,私は答えたい.

一流の大学とは本来,真のエリート教育を行う場だと思う.理想主義だと揶揄されようが,理想ももたない奴が大学教員になるなと言いたい.しかし,残念なことに,文部科学省はお金を餌にして,全国の大学をコントロールしようとするばかりで,当の大学も背に腹はかえられぬという態度だ.まともな効果があるのかどうか検証もされないまま,資金獲得のために様々なプロジェクトが動き,その申請と事務処理に教員が振り回されている.この点について,宇沢氏は次のように指摘している.

大学における学問の研究,教育の自由が確保され,そのアカデミック・エクセレンスが維持されるためには,大学の運営にかんする独立,自律性が保証されることが緊要であって,決して,外部からの介入があってはなりません.とくに,監督者である文部省は決して,各大学における学問の研究,教育のアカデミックな内容に対する関与,介入はしてはなりません.たとえば,大学のアカデミックなパフォーマンスに関連づけて,私学助成金の額を増減するようなことは,文部省に対する社会的信任に違反するものです.

私学助成金の額を増減するどころか,国立大学は独立法人化され,「国立大学倒産に向けて」に書いたとおり,その運営交付金は年々減額され,言いなりにならないなら潰すぞと脅されているような有様だ.独立も自律性もあったものではない.

さらに近年は,産業に役立つ研究をやれという圧力が非常に強い.まあ,私自身はそういう研究が大好きなので個人レベルでは構わないのだが,近視眼的な産業界の役に立つ研究をやれと大学に要求するのは筋違いではないか.

高度成長期における日本の大学教育のきわ立った特徴は産業社会の要請に応じた研究,教育をおこなうことでした.ヴェブレンが主張した,本来の意味での学問研究をおこなう場,あるいはデューイのいう人格的形成の場としての大学ではなく,もっぱら卒業してから,どのような企業に就職するかということに大学教育の焦点が当てられていったわけです.また,企業の立場からも,一人一人の学生の人間的資質なり,専門的知識についてくわしく調べて,新入社員を選ぶより,偏差値による大学の序列を重んじた方がずっと手間もかからず,またリスクも小さいと考えたわけです.

日本の大学が抱える深刻な問題は他にもある.その1つが,博士後期課程学生の待遇だ.「大学院博士課程学生の処遇」に書いたとおり,諸外国と比較して,大学院生に対する制度的な待遇は劣悪だ.実際には,公式には制度化されていない仕組みによって,授業料免除かつ奨学金支給は実現されているため,優雅な生活とまではいかなくても,生活できる程度の支援は得られる.しかし,その程度の制度がないというのはおかしい.この点について,宇沢氏は次のように指摘している.理系と文系では事情が全く異なると思われるので,この指摘が普遍的とは捉えないで欲しいが.

大学院の学生として,経済的な裏付けもないまま,苦しい勉学と研究に従事し,しかも将来の職業的保障もまったくない不安定な状態で,大学を卒業してから五年間という長い年月を若者たちに強制するという,この新制大学院の制度ほど非人間的なものはないように思われます.しかも,一般的にいって,大学院のために充分な予算もつけないまま,専任の教員も用意しないで,極めて粗雑なカリキュラムのもとで,このような非人間的,反社会的な制度がつづけられ,日本の学問研究の発展に対して大きな阻害要因となってきたのです.現行の大学院制度は,できるだけ早い機会に根本的な改革を必要としています.

以上のように共感できる点が多々あった.ただ,大学の役割について,教育は副次的なものではなくて,もっと重要なものではないだろうか.

大学はこのように,一つの文明社会において,その象徴的な存在として,エソテリックな知識の蓄積を,自由な知識欲と職人気質という二つの人間的本能にもとづいて追求する場であるというヴェブレンの規定に異論を唱える人はいないと思います.しかし,大学はいわゆる高等教育の一部分を形成するにすぎません.高等教育というとき,二つのまったく異質な行為から構成されています.一つは,学問の研究,科学の探究であり,もう一つは,学生の教育です.第一の,学問の研究ということが大学にとって第一義的な意味をもつことはいうまでもないことです.第二の,学生の教育は,副次的な意味をもつにすぎませんが,大学の活動において不可欠なものであることはいうまでもありません.それは,学生の教育を通じて,研究の質と成果が大きく影響されるからですが,ヴェブレンにとって,学生の教育ということは,あくまでも副次的な重要性しかもたなかったということは改めて強調しておきたいと思います.

2月 122009
 

「自動車の社会的費用」(宇沢弘文,岩波書店,1974)において,社会的共通資本という概念が重要な役割を果たしている.この社会的共通資本という考え方が生まれた背景が,「日本の教育を考える」(宇沢弘文,岩波書店,1998)に書かれていたのでメモしておく.

水俣病を始めとして,全国の公害問題にかかわることによって,私は,それまで専門としていた近代経済学の理論的枠組みの理論的矛盾,倫理的欠陥をつよく感ずるようになっていきました.そして,水俣病を始めとする数多くの公害問題の原因を解明し,その人間的被害の実態を分析し,その根源的解決の途を探ることができるような理論的枠組みとして,社会的共通資本の考え方に到達したのでした.

社会的共通資本の重要な構成要因である医療,教育,公害,地球環境などの問題はいずれも,これから二十一世紀にかけて,私たちが直面するもっとも重要な問題です.しかし,これまでの経済学の理論的な枠組みのなかでは必ずしも満足しうる考察,分析ができませんでした.社会的共通資本という新しい概念を導入することによって,医療,教育,公害,地球環境などの問題を経済学的に分析することが可能になり,また,その制度的,政策的意味を明確にすることが可能になります.

アメリカ万歳みたいな,金儲けにしか興味がないような経済学者とは一線を画しており,市民生活に深く根差した活動から,社会的共通資本という考え方が生まれてきたことがわかる.

2月 122009
 

日本の教育を考える
宇沢弘文,岩波書店,1998

途中は回顧録であり,個人的な付き合いの話題などは,あまり興味を惹かれなかったので,辛気臭いと感じた.しかし,近代日本における高等教育の歴史,特に学問の自由と大学の独立を守ろうとして,ファシズムに染まる軍部や政府,その手先と成り下がる文部省に異を唱えて闘った教授達の高い倫理意識には畏敬の念を抱く.大学という名称こそ昔も今も同じであるが,現代の大学はすっかり大衆化してしまっているので,どれだけの大学教授にその良識と気概を期待できるだろうか.改めて,大学教員であることの重責を感じざるを得ない.

教育とは何か.宇沢氏は本書で何度も繰り返し書いている.

教育とは,一人一人の子どもがもっている多様な先天的,後天的資質をできるだけ生かし,その能力をできるだけ伸ばし,発展させ,立派な一人の大人になって,個人的にも,社会的にも,幸福な,そして実り多い人生をおくることができるように成長することをたすけるものです.したがって,教育は決して,ある特定の国家的,宗教的,人種的,階級的,ないしは経済的イデオロギーによって支配されることがあってはなりません.

宇沢氏はリベラリズムを重要視しており,以下のようにジョン・デューイの教育理念を紹介している.

ジョン・デューイは,その古典的名著『民主主義と教育』のなかで,学校教育制度は三つの機能を果たしていると考えました.社会的統合,平等主義,人格的発達という三つの機能です.

学校教育の果たす第一の機能として,デューイが取り上げているのは,社会的統合ということです.若い人々を教育して,社会的,経済的,政治的,文化的役割を果たすことができるような社会人としての人間的成長を可能にしようとすることです.学校環境が果たす役割は,「子どもたちの一人一人が,生まれついた社会的集団の枠から逃れて,もっと広い環境に積極的にふれる機会を与えるように配慮することである.」(デューイ『民主主義と教育』松野安男訳,岩波書店,一九七五年).

第二の機能は,平等に関わるものです.学校教育は,社会的,経済的体制が必然的に生み出す不平等を効果的に是正するというのが,デューイの主張したところだったのです.

第三の機能は,個人の精神的,道徳的な発達をうながすという教育の果たす重要な役割であって,人格的発達の機能と呼ばれるべきものです.

ここで,学校教育が果たすべき第二の機能として,社会的,経済的体制が必然的に生み出す不平等を効果的に是正することが挙げられているが,現実には,現代の学校教育がその機能を果たしているとは思えない.だからこそ,必死になって幼少の我が子を受験戦争に駆り立てる親が大勢いるのだろう.

学校教育が,その本来の目的に反して,不平等を拡大化していることについては,以下のように書かれている.

ボウルズとギンタスが,『アメリカ資本主義と学校教育』のなかで,もっとも力を込めて主張しようとしているのは,アメリカ資本主義という典型的な法人主義体制のなかで,学校制度は,かつてホレース・マンがいったような「偉大な平等化装置」という役割を果たさないどころでなく,逆に,法人資本主義体制のもとにおけるヒエラルキー的分業のもつ,非民主的,抑圧的な性向をいっそうつよめるという機能すら果たしているということです.「教育制度は,経済の社会的関係との対応を通じて,経済的不平等を再生産し,人格的発達を歪めるという役割を果たしている」(ボウルズ=ギンタス『アメリカ資本主義と学校教育』第一巻,八六ページ)

指摘はアメリカ社会に対するものだが,日本の学校教育にもそのまま当てはまる.

学校教育が本来の機能を果たさないばかりか,人格的発達を歪めるという役割を果たしてしまっている現状において,むしろ予備校や塾が学校教育の本来の機能を担っているのではないか.そういう指摘にも頷ける部分がある.

学校教育が国家的管理下におかれ,教師が抑圧的な官僚機構の最下部に位置づけられてしまって,学校がすでに,大部分の子どもたちにとって苦痛以外の何物でもなくなってしまったとき,予備校や塾の方がずっと生き生きとして,子どもたちにとって楽しい場を提供し,ある意味では,子どもたちにとっての救いの場という役割をはたしてきたことも事実です.

宇沢氏は現代における教育制度の崩壊を大変憂えて,リベラルアーツを中心とする大学への転換,文部科学省の介入を排除する大学制度改革,専門学校としての大学院改革,中高一貫全寮制学校の設置などを提案している.

経済学者である宇沢氏が教育問題に関わるようになった理由について,次のように書かれている.それだけ現代の教育制度が崩壊してしまっているということなのだろう.監督官庁が不明であるなら,自らが何とかしないといけないだろう.

この深刻な状況に直面して,教育の問題を,教育学という学問分野を専門とする教育学者や教育行政を担当する文部官僚の手にもはや委ねることはできないという気持ちを強く持たざるを得なくなってきたからです.かつて第二次世界大戦が勃発したとき,アメリカのリベラル派の学者,知識人たちが,今回の戦争はあまりにも重大で,かつあまりにも深刻な影響をアメリカ社会全体にもたらすものであって,戦争を専門的職業とする軍人たちの手に委ねることはもはやできないという焦燥感にかられて,チェスター・ボウルズを中心として,ルーズベルト大統領のもとに参集し,対独戦の企画,実行に全面的にコミットすることになったといわれています.私が教育の問題に関わるようになったのも同じような焦燥感からであるといっても言い過ぎではないように思われます.

目次

  • 教育とは何か
  • 子どもたちが数学を好きになる
  • ジョン・デューイの教育理論
  • ヴェブレンの大学論
  • ボウルズ=ギンタスの対応原理
  • 教育の経済学
  • 日本の大学
  • リベラリズムの学校教育と教科書検定
  • 疾風怒濤の時代
  • 日本に帰ってきて
  • 新しい経済学を求めて
  • 日本の近代化と学校教育
  • 新学校教育制度の制定と展開
  • リベラルな学校教育制度を求めて
  • 鳥取県の「公園都市」構想