4月 132009
 

ハーバードvs東大: 入試制度について

先日,「カルチャーショック ハーバードvs東大─アメリカ奨学生のみた大学教育─」(ベンジャミン・トバクマン,大学教育出版,2008)を読んでの感想を書いた.著者の主張の一部は,「ハーバードのように,東大もボランティア活動などの課外活動を入学試験の評価に取り入れるべき」というものだ.該当部分を抜粋して,再掲する.

「社会のことはどうでもいい」と思う人は,きっぱりとハーバードに断られる.ハーバードに受かりたいならば,取りあえず,ボランティア活動をやってみることをお勧めする.こうして,志願書の「課外活動」という欄に書けるものが増えて受かりやすくなる.それとともに,有意義な経験を積むことだろう.

ハーバードは,学生に社会の役に立って欲しいので,志願者のボランティア活動を重視する.それに,合格者のボランティア活動も支援している.ハーバード大生は大学からもらった手当で,老人ホームに演奏しに行ったり,貧しい生徒をキャンパスに誘って,無料で教えたり,ホームレスが泊まれる宿を管理している.

統一試験では,志願者の受験力しか測れないとハーバードは認めている.実践力があるかどうか,勉強意欲があるかどうか知りたいなら,別の尺度を使わなければいけない.つまり,課外活動として何をやってきたのか,高校の成績はどうだったのか,それも考慮に入れるべきなのだ.積極的に,社会のためになる活動を行わなかった志願者は,満点取れても,門前払いされるわけだ.何よりも点数を優先する学生が将来,賢明なリーダーになるとは思えないからだ.

東大は入学試験を通じて,「頭の良い」学生を求めている.しかし,そのような学生が自分の利益だけでなく,社会のために頑張ってくれるだろうか?

私は,「ハーバードのように,東大もボランティア活動などの課外活動を入学試験の評価に取り入れるべき」という主張に賛成である.もちろん,東大だけでなく,他の大学についてもだ.そうして入学試験制度の多様性が確保された上で,「一発勝負のペーパーテストで点を取る能力」しか評価しないという大学が現れても良いとは思う.いずれ国家を担うことになる人材を輩出する責務を負うと考えられる大学すべてが「一発勝負のペーパーテストで点を取る能力」しか評価していないことが,現行の日本の入試制度の問題であり,そのような知識偏重の弊学は既に明らかなように思われるからだ.しかし,トバクマン氏の見解は楽観に過ぎるし,アメリカの入試制度は氏が絶賛するほどのものではないとも思っている.

それは,アメリカの大学受験生が,ボランティア活動という名の,受験に有利に働く活動に,自己中心的な動機から取り組んでいるだけのようにも見えるからだ.社会に役立とうとして,自律的にボランティアに取り組んでいるのではなく,アメリカ型資本主義を代表する価値観であると思われる「金持ちになろう」を実現する効率的な手段として,一流大学への進学を希望し,その進学を実現するための不可欠かつ効率的な手段として,ボランティア活動が取り組まれているだけのような印象を受ける.

実際,こんなエピソードがある.ある街に優秀な女子高生がいた.学業が優秀なばかりでなく,積極的にボランティア活動などにも取り組んでいた.あるとき,その地域の高校生有志が,受験対策としてハーバード大学への視察旅行に出掛けた.視察旅行から戻った女子高生は,次のような感想を述べたそうだ.「私も,もっと目立つボランティアをしないといけないわね」

なぜ,目立つ必要があるのだろうか.それは,ボランティア活動を入学試験の道具と見なしているからだろう.そこでは,社会に役立つことではなく,受験で有利に働くことが重要視されている.このような「賢い」学生が,自分の利益だけでなく,社会のために頑張ってくれるだろうか?

それでも,私が「ハーバードのように,東大もボランティア活動などの課外活動を入学試験の評価に取り入れるべき」という主張に賛成であるのは,その方が「まし」だと思うからだ.

自由ということ

アメリカで一流大学を目指している受験生は,どうやら自律的にボランティア活動に取り組んでいるわけではなさそうだ.「金持ちになろう」を実現する効率的な手段としてボランティア活動に取り組む学生達は,果たして,自由の国を標榜するアメリカにおいて,自由なのだろうか.

どうも,そのようには思えない.しかし,この問題をどのように考えればよいのか,私の浅薄な知識ではよくわからない.そこで,「人を伸ばす力―内発と自律のすすめ」(エドワード・L. デシ,リチャード・フラスト,新曜社,1999)を読んでいる.というか,今朝,通勤のバスで読み終わった.

元々,この問題を考えるために読もうとしたわけではなく,たまたま図書館で借りた本が,「カルチャーショック ハーバードvs東大─アメリカ奨学生のみた大学教育─」と「人を伸ばす力―内発と自律のすすめ」だったということだ.こうして読むべき本が自動的に自分の所にやってくるというのは,まさに「引き寄せの法則」といわれるものであろう.この世界というのは,実に興味深い...

話を戻そう.ボランティア活動に励むアメリカの受験生は統制されているというのが私の結論だ.「金持ちになろう」という社会的価値観,「一流大学に行け」という周囲の期待,「有能さを誇示したい」という虚栄心,そのような外部あるいは内部の要因によって受験生は統制されているように思われる.ボランティア活動を「したい」からするのではなく,「しなければならない」からしているのではないだろうか.それは自律的な行動ではないし,そこに真の自由はない.

そして,このような統制は内発的動機づけを低下させる.受験勉強の道具としてボランティア活動に取り組む学生は,もはや,純粋に社会に役立つためにはボランティア活動に取り組まない恐れがある.統制が内発的動機づけを低下させることは,デシ博士らの研究で明らかにされている.したがって,もしこのケースにもあてはまるなら,「ハーバードは学生に社会の役に立って欲しい」という目論見は自壊し,みずから採用した入試制度のために,自発的には社会の役に立とうとしない学生を作り出す危険性がある.

ここでは入試制度についてのみ検討したが,実は,統制には子供に与える「ご褒美」なども含まれる.子供に何かをして欲しいとき,「○○したら□□をあげるよ」という方法を使っていないだろうか.これは,典型的な統制であり,子供の内発的動機づけを低下させる.つまり,そのようにして育てられた子供は,「□□がもらえないのなら○○はしない」ようになる.自発的に○○するようになって欲しいという,親や教師の意図とは正反対の結果を招いてしまうわけだ.本当に注意しないといけない.

育児だけではない,会社の人事も同様だ.

  3 Responses to “自律,自由,動機: ハーバードvs東大の続き”

  1. 少なからずノブレス・オブリージュの概念が彼らの心にあると思います。

  2. 「エリートの条件とは何か.1つだけ挙げろと言われれば,ノーブレス・オブリージ(noblesse oblige)を身に付けていることだと,私は答えたい.」

    これが,私の変わらぬ意見です.このブログでも,「日本の大学の現状について」,「宿題代行に手を染める親と業者の低俗さを叱る」,「育児をする人の心掛け!」,「アメリカ 最強のエリート教育」などで書いており,また学生にも何かにつけて伝えていることです.

    「彼ら」というのは,ハーバードの学生でしょうか.確かに,少なからずあると思います.では,日本の学生には少しもないでしょうか.そうとは思いません.少なくとも,私の周りの卒業生の中には,そういう志を持つ者がいます.そうすると,問題はその多寡になりますが,実証的な研究結果はあるでしょうか.本当にアメリカ人は日本人よりノーブレス・オブリージを身に付けている程度が高いのでしょうか.高そうなイメージもあるのですが,イメージだけの気もしますし,私にはわかりません...

    ただ,プレップスクールなど全寮制の教育機関で徹底的に鍛えられた学生と,予備校で受験勉強に明け暮れた学生とでは,社会貢献に対する意識が凄く違うような気はします.これも気のせいかもしれませんが...

    日本人には自国の悪いところがよく見えるでしょうし,アメリカの実情はなかなかわかりませんから,公正な比較は難しいのでしょうね.

  3. もっと根本的なことが気になりました.

    ノブレス・オブリージュの概念が彼らの心にあるとして,それは,なぜ身に付いたのでしょうか.どこで,どのようにして,身に付いたのでしょうか.

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