4月 162009
 

先日,「自律,自由,動機: ハーバードvs東大の続き」と題して,「カルチャーショック ハーバードvs東大─アメリカ奨学生のみた大学教育─」(ベンジャミン・トバクマン,大学教育出版,2008)における「ハーバードのように,東大もボランティア活動などの課外活動を入学試験の評価に取り入れるべき」という主張には賛成だが,以下のような点が気になると書いた.

アメリカの大学受験生が,ボランティア活動という名の,受験に有利に働く活動に,自己中心的な動機から取り組んでいるだけのようにも見えるからだ.社会に役立とうとして,自律的にボランティアに取り組んでいるのではなく,アメリカ型資本主義を代表する価値観であると思われる「金持ちになろう」を実現する効率的な手段として,一流大学への進学を希望し,その進学を実現するための不可欠かつ効率的な手段として,ボランティア活動が取り組まれているだけのような印象を受ける.

ボランティア活動に励むアメリカの受験生は統制されているというのが私の結論だ.「金持ちになろう」という社会的価値観,「一流大学に行け」という周囲の期待,「有能さを誇示したい」という虚栄心,そのような外部あるいは内部の要因によって受験生は統制されているように思われる.ボランティア活動を「したい」からするのではなく,「しなければならない」からしているのではないだろうか.それは自律的な行動ではないし,そこに真の自由はない.

そして,このような統制は内発的動機づけを低下させる.受験勉強の道具としてボランティア活動に取り組む学生は,もはや,純粋に社会に役立つためにはボランティア活動に取り組まない恐れがある.統制が内発的動機づけを低下させることは,デシ博士らの研究で明らかにされている.したがって,もしこのケースにもあてはまるなら,「ハーバードは学生に社会の役に立って欲しい」という目論見は自壊し,みずから採用した入試制度のために,自発的には社会の役に立とうとしない学生を作り出す危険性がある.

これに対して,「少なからずノブレス・オブリージュの概念が彼らの心にあると思います」というコメントをいただいた.私も,恐らくそうだろうと思う.ここで,素朴な疑問が浮かぶ.もしそうだとすると,彼らはそのノブレス・オブリージュをどこで,どうやって身に付けたのだろうか.いかなる教育を通して,人は,高い地位に伴う道徳的・精神的義務を果たそうとするようになるのだろうか.

この疑問に対するヒントが,「人を伸ばす力―内発と自律のすすめ」(エドワード・L. デシ,リチャード・フラスト,新曜社,1999)に書かれていたので紹介したい.

富を得ることなどの外発的意欲を極端に重視する18歳の子どもたちは,小さいころ母親が統制的であり,冷たくあたっていたことが明らかになった.逆に,温かく,子どもと多くかかわり,自律性を支援する母親の子どもは,大きくなったとき内発的な人生の目標をより強く持っていた.

大学での教育がどうとか,受験制度がどうとか,そういうレベルではなく,母親による子育てのレベルまで遡ることになるのだろうか.確かに,三つ子の魂百まで,とはいう.

エリートの条件とは何か.1つだけ挙げろと言われれば,ノーブレス・オブリージ(noblesse oblige)を身に付けていることだと,私は答えたい.

これが,私の変わらぬ意見だ.このブログでも,何度も触れており,また学生にも何かにつけて伝えている.

ノーブレス・オブリージ(noblesse oblige).人の上に立とうとするなら,身に付けて欲しい.

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