5月 312009
 

方法序説
デカルト(Ren´e Descartes),岩波書店,1997

結論ではなく方法が重要だと認識せよ

哲学なんて知るかという人でも,「我思う故に我在り」という言葉を聞いたことくらいはあるだろう.もしなければ,今読んだだろう.これで知らない人は誰もいない.さて,デカルトが「我思う故に我在り」という真理に至る過程を著したことで有名な本書「方法序説」であるが,名言「我思う故に我在り」というのは非常に象徴的ではあっても,これ自身が大切なわけではない.本当に大切なのは,「我思う故に我在り」という真理に至ることを可能たらしめた思考方法である.人類史上,哲学には多くの賢人が取り組んできた.後発のデカルトは,どのようにして,彼が言う第一原理に至ったのか.

究極の論理的思考に必要な規則

真理の探究に必要な規則は4つであるとデカルトは述べている.

この三つの学問(論理学,代数,解析)の長所を含みながら,その欠点を免れている何か他の方法を探求しなければ,と考えた.法律の数がやたらに多いと,しばしば悪徳に口実をあたえるので,国家は,ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される.同じように,論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに,一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら,次の四つの規則で十分だと信じた.

第一は,わたしが明証的に真であると認めるのでなければ,どんなことも真として受け入れないことだった.言い換えれば,注意ぶかく速断と偏見を避けること,そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は,何もわたしの判断のなかに含めないこと.

第二は,わたしが検討する難問の一つ一つを,できるだけ多くの,しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること.

第三は,わたしの思考を順序にしたがって導くこと.そこでは,もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて,少しずつ,階段を昇るようにして,もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき,自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと.

そして最後は,すべての場合に,完全な枚挙と全体にわたる見直しをして,何も見落とさなかったと確信すること.

この4つの規則に完璧に従うことによって,デカルトは数々の難問の答えを見出していったわけだが,彼自身,この方法を以下のように評している.この方法は,昨今流行の論理的思考の究極の姿だとも言えよう.

この方法でわたしがいちばん満足したのは,この方法によって,自分の理性をどんなことにおいても,完全ではないまでも,少なくとも自分の力の及ぶかぎり最もよく用いているという確信を得たことだ.

ゼロベース思考の原点

問題解決にはゼロベース思考が大切だと言われる.これは,先入観や偏見に囚われず,事実のみに基づいて論理的に考えることの必要性を強調したものだ.このゼロベース思考という観点でも,デカルトの方法は秀逸である.いや,単に方法論の次元の話ではない.彼の態度に度肝を抜かれると言う方が正確だろう.

それらの学問の原理はすべて哲学から借りるものであるはずなのに,わたしは哲学でまだ何も確実な原理を見いだしていないことに気がつき,何よりもまず,哲学において原理を打ち立てることに務めるべきだと考えた.そしてそれは,この世で何よりも重要なことであり,速断と偏見がもっとも恐れられるべきことであったから,当時二十三歳だったわたしは,もっと成熟した年齢に達するまでは,これをやりとげようと企ててはならないと考えた.わたしの精神から,その時より前に受け入れていた悪しき意見のすべてを根絶するとともに,たくさんの経験を積み重ねて,後にわたしの推論の材料となるようにし,また自分に命じた方法をたえず修練して,ますますそれを強固にし,あらかじめ十分な時間を準備のために費やしたうえでなければならない,と考えたのである.

「ゼロベース」を築くために,速断と偏見を避けるために,もっと成熟した年齢に達するまでは哲学の原理を打ち立てることを企てないと宣言しているのだ.それは,自分に命じた方法をたえず修練し,準備に万全を期すためであると言う.

その上で,デカルトは次のように考えた.

ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部,絶対的に誤りとして廃棄すべきであり,その後で,わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない,と考えた.

第一原理: 我思う故に我在り

こうしてデカルトは,感覚や推理などあらゆるものを捨て去った後に,一つの真理に到達した.

「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」というこの真理は,懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め,この真理を,求めていた哲学の第一原理として,ためらうことなく受け入れられる,と判断した.

ゼロベース思考の元祖はデカルトではありえない.それこそ無数の人々が真理を打ち立てるためにゼロベース思考に取り組んだ.その結果,彼らが辿り着いたのは懐疑論だ.懐疑論からは何も生まれず,ただ,すべてを疑うだけだった.そこで思考停止に陥らずに,「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」を第一原理と見なしたのがデカルトの偉大なところだろう.

神の存在証明

さらに,第一原理で思考停止せずに次に進めたのもデカルトの偉大なところだろう.彼は,考える自分とは別に,完全な存在者がなければならないとの結論に至る.これが,神の存在証明である.その証明は本書「方法序説」に明らかであるが,私を含めて,神の存在を「理性的に」認めたくない(認められない)と考える人は多いだろう.そのような人々に対して,デカルトはこう書いている.

しかし,多くの人が,神を認識することにも,自分たちの魂が何であるかを認識することにさえも困難があると思い込んでいる.どうしてそうなるかというと,それはかれらが自分の精神を,感覚的な事物を超えて高めることがけっしてないからである.かれらはイメージを思いうかべてでなければ何も考えない習慣にとらわれてしまい−これは物質的事物に特有な思考法だ−,イメージを思いうかべられないものはすべて,かれらには理解できないと思われるからである.(中略)神と魂の観念を把握するのに想像力を用いようとする人たちは,音を聞き匂いを嗅ぐために眼を用いようとする人と,まるで同じことをしていると思える.

痛い.実に,痛い.我々は理性的でも何でもないということだ.単に,物質レベルに囚われている囚人の思考しかできなくなっているのだ.人間が本来的に持つ精神の力を発揮できていないのだ.

デカルトは,さらに,こう指摘する.

というのも,神を否定する人たちの誤謬については先に十分論駁したと思うが,その誤謬の次に,以下のように想像することほど,弱い精神の持ち主を徳の正道から遠ざける誤謬はないからだ.つまり動物の魂がわれわれの魂と同じ本性のものであり,したがってわれわれはハエやアリと同様に,この世の生ののちには,何ひとつ恐れるべきものもなければ,希望すべきものもないと想像することである.これに対して,動物の魂とわれわれの魂がどれほど異なっているかを知ると,われわれの魂が身体にまったく依存しない本性であること,したがって身体とともに死すべきものではないことを証明する諸理由がずっとよく理解される.そして魂を滅ぼすほかの原因も見あたらないだけに,われわれはそのことから自然に,魂は不死であると判断するようになるのである.

なぜ方法序説なのか

ところで,本書のタイトル「方法序説」が気になった人はいないだろうか.私は「なぜ序説なのか」と気になった.「序説」というのは,本論に導入するための前置きの論説のことである.つまり,本書はデカルトの論じたいことそのものではなく,あくまでも前置きなのである.では,デカルトの本論とは一体何なのか.そして,本論ではなく,序説を世に出したのは何故なのか.

いや,もちろん,この「方法序説」は本当に序説であり,その後に数報の論文が続く,大部の著作の前置きではある.しかし,それはデカルトが元々意図していた形ではないだろう.

この問いに対する解答は本書に用意されている.

今から三年前,わたしはこれらすべてを内容とする論文を書きあげて,印刷業者の手に渡すために見直しを始めていたのだが,そのとき次の知らせに接した.わたしが敬服する方々,しかも,わたし自身の理性がわたしの思想に及ぼす権威に劣らぬほどの権威をわたしの行動に及ぼす方々が,ある人によって少し前に発表された自然学の一意見(ガリレオ・ガリレイの地動説)を否認した,というのである.

わたしは,残された時間をうまく使えるようにという希望が強いだけに,いよいよそれを無駄なく使わなければならないと思う.そして,もしわたしの自然学の基礎を公表すれば,この時間を失う多くの機会ができるにきまっている.というのも,この基礎はほぼすべてきわめて明証的で,理解しさえすればただちに真だと信じざるをえないほどであり,また一つとして論証できないと思われるものはないのだが,それにもかかわらず,他の人たちの各種各様のあらゆる意見と一致するのは不可能であることから,これが引き起こす諸反論によって,わたしがたびたび仕事から心をそらされてしまうことが予測されるのである.

宗教は大切なものだとは思うが,人間が絡むと,全くろくなことをしない代物にもなる.デカルトの方法序説を見ても,ローマ教皇庁の科学に与えた悪影響が甚大であることがわかる.

時間の大切さと志

人類の歴史を振り返ってみれば,多くの賢人が時間の大切さを説いてくれている.また,志を持つことの尊さを説いてくれている.そのような教えの通りに実践したデカルトは,方法序説を以下の文章で締めくくっている.

わたしは生きるために残っている時間を,自然についての一定の知識を得ようと務める以外には使うまいと決心した.その知識は,そこから医学のための諸規則を引き出すことができるようなもので,それらの規則はわれわれが現在までに持っている規則よりももっと確かなものである.そして生来わたしは,これ以外のあらゆる種類の計画,とくに一部の人に有利であろうとすれば他の人を害さざるをえないような計画(軍事技術の計画など)を,極力避けているので,何かのきっかけでやむをえずわたしがそれに携わるようになっても,うまくやりとげる力があるとは思えない.これについて今ここで宣言しても,自分を世の中で偉く見せる役には立たないのはよく知っているが,しかしまたわたしは偉くなりたいとは少しも思っていない.そして,この世のもっとも名誉ある職務を与えてくれる人びとよりも,その好意によってわたしに何の支障もなく自分の自由な時間を享受させてくれる人びとに,つねにいっそう深い感謝の気持ちをもつことだろう.

目次

  • 第1部から第6部まで
  • 訳注
  • 解説
5月 302009
 

研究・技術・自分のマネジメント

既に何度か紹介しているとおり,化学工学特論第一という大学院生向けの講義を担当している.テーマは「研究・技術・自分のマネジメント」だ.

プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)

今週木曜日(5/28)の講義では,プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM: Product Portfolio Management)を取り上げた.元々,ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)で開発された,経営戦略の立案を支援する手法だ.具体的には,自社の事業や製品を,「自社の強さ」(市場シェア)と「市場の魅力度」(市場成長率)を軸にした2次元平面上にプロットし,その位置によって,各事業や製品への経営資源配分を決める.強さと魅力度が高いか低いかによって,2次元平面を4つの領域に分割するのがPPMの特徴だ.

プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM: Product Portfolio Management)
プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント
(PPM: Product Portfolio Management)

どちらも低い領域は「負け犬(Dog)」と呼ばれ,当該事業の撤退か縮小を検討する.経営資源を配分するメリットがないからだ.市場の魅力度は高いが自社に強みがない領域では,努力して強みを身に付けていかなければならない.「問題児(Problem Child)」ではあるが,この事業を育てられるかどうかに自社の将来がかかっている.

市場の魅力度が高く,かつ自社が強い領域にある事業はまさに「花形(Star)」であり,経営資源を投資し,魅力的な市場でシェアを確保する戦略を採用する.自社の強みを保ったまま,市場の魅力度が低くなってくると,そこは「金のなる木(Cash Cow)」となる.成長は望めないが,それなりの利益を出せる事業がここに該当する.

事業や製品のライフサイクルという観点からは,次のように解釈できる.まず,魅力的な市場への進出を決意し,製品を投入する段階では「問題児(Problem Child)」であるが,投資を継続し,コストリーダーシップ戦略や差別化戦略によって自社の強さを高めることができれば,「花形(Star)」へと進化させられる.その後,うまく「金のなる木(Cash Cow)」へと変化させることができれば,投資を抑えて,キャッシュフローを生み出すことができるようになる.

そのキャッシュフローという観点からは,「金のなる木(Cash Cow)」が生み出すキャッシュを,「問題児(Problem Child)」と「花形(Star)」の事業に投資し,事業の育成を図ることになる.ただし,「問題児(Problem Child)」すべてが投資対象になるわけではない.厳しい選択眼が要求される.

講義では,家具メーカーや情報機器メーカーのケース演習を実施した.

PPMで自分の研究を分析する

「研究・技術・自分のマネジメント」の受講生は工学研究科の大学院生なので,MBAでやっているようなケース演習だけで終わらせはしない.プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM: Product Portfolio Management)というツールを,今の自分に活用することを考える.私が紹介したのは,自分の研究室が手掛けている研究テーマを分析するというものだ.

大学の研究室も企業と同じで,どこからか研究費を調達する必要がある.当然ながら,製品を販売しての利益というのはないため,国や企業や学協会などから研究費を調達することになる.もちろん,研究費は有限であり,貴重な経営資源だ.その他にも,既存の実験装置,分析装置,計算機システム,ソフトウェア,これまでの研究成果など,有形無形の経営資源がある.さらに,決して忘れてはならない経営資源が,スタッフと学生の人的資源だ.優秀なメンバーの数が多ければ,それだけ研究成果を出せるだろう.

大学の研究室を対象に,研究テーマをPPMで分析しようとすれば,例えば,次のような図を描くことになるだろう.

大学研究室のプロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)
大学研究室のプロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)

国の重点研究領域に指定され,研究費がスカイロケットのように増額されている研究分野は,魅力度が高いと言えるだろう.アメリカでは,クリントン政権がナノ・バイオ・ITの3つを重点領域に指定した結果,研究者はその3分野に殺到した.一方,研究室の強さは,研究者なら肌で感じているだろう.自分が世界一流かどうかは自分で判断できるはずだ.客観的に判断しようとするなら,論文数や特許数で評価せざるをえないだろう.

研究の評価は非常に難しいが,ともかく,自分が所属する研究室が現在取り組んでいる研究テーマについて,そのすべてをPPMマトリクスにプロットしてみる.さて,自分の研究テーマはどこに位置しているか.

まずは,学生の立場で考えてみよう.「花形(Star)」のあなた,おめでとう.魅力的な研究分野で優れた業績を出せる可能性が高い.「問題児(Problem Child)」のあなた,いくら研究分野が盛り上がっていても,競争が激しいので,ボーッとしてると何も成果が出せなくなる.頑張って,「花形(Star)」を目指そう.研究室の将来は君の研究成果にかかっている.「金のなる木(Cash Cow)」のあなた,競合相手が少ないので,比較的楽をして研究成果が出せるだろう.しかし,研究者として生きていきたいなら,ぬるま湯に浸かっていてはダメだ.新しい研究テーマにチャレンジしてみよう.そして最後に,「負け犬(Dog)」のあなた.なぜ,その研究テーマを選んだんだ?

次に,スタッフの立場で考えてみよう.研究室全体の戦略をどのように決定したら良いだろうか.撤退すべきテーマにいつまでもしがみついていないだろうか.集中すべきテーマを絞りきれず,好機を逸していないだろうか.基本的に,経験と勘だけを頼りに意志決定している教授や准教授が多いのではないだろうか.果たして,それでいいのかな?

学生が研究室の研究をPPM分析する意義

自分の研究室の研究を分析し,どのような戦略(テーマの取捨選択)をすべきか検討するようにと言うと,「そんなこと無理」と感じる学生もいるのではないだろうか.確かに,無理な理由はいくつでも挙げることができる.情報がないとか,知らないとか...しかし,「できない理由を挙げる奴は成功しない」というのが世の鉄則だ.できない理由を探す暇があるなら,とにかく,やってみるべきだ.この程度でできないという学生は,企業に就職しても,同じ理由を挙げて,できない言い訳をするのだろう.運良く就職できたとしても,優れた仕事ができるようになるとは思えない.

5月 292009
 

君主論
ニッコロ・マキアヴェッリ,講談社,2004

面白くない本だった.いや,まともなことを書いているとは思う.少なくとも,戦国時代の君主にとっては.パワーゲームが好きな人種にとっては有益かもしれないが,しかし,私には関係ないことが多い.さらに言わせてもらうなら,ニッコロ・マキアヴェッリの人間性が気に入らない.本書はロレンツォ・デ・メディチに献上されたものだが,その献辞には,以下のように書かれている.

殿下(ロレンツォ・デ・メディチ)がその高みから他日目を低地に向けられるならば,私が運命の女神のはなはだしい悪意を不当にも堪え忍んでいることにお気づきになられることでしょう.

自分の不遇を運命の女神の悪意だと言うのも気にくわないが,そればかりか,本論において次のようにも書いている

長年にわたって支配者の地位にあったイタリアの君主達はその地位を後に失ったからといって運命を責めるべきではなく,自らの無気力をこそ責めるべきである.

失敗した君主には「運命を責めるべきではない」と言い放ちながら,自分は「運命の女神のはなはだしい悪意を不当にも堪え忍んでいる」だって.それを引き寄せたのは自分だろと言いたい.そんな心根だから,コウモリのように,どちら側にも重んじられなかったのではないか.

君主はニッコロ・マキャベリの君主論に学び,臣はニッコロ・マキャベリを反面教師とする.そういうことだろう.

繰り返すが,本書にはまともなことも書かれている.だからこそ,政治学の名著とも言われるのだろう.以下に,君主論に書かれていることのいくつかを抜粋して示しておこう.

こうした領土を獲得し,それを維持してゆくためには次の二点に配慮すべきである.すなわち,第一に古い君主の血統を絶やし,第二に法や税制を変えないことであり,こうすればこの地方は極めて短期間のうちに旧来の領土と一体化することができる.

ある領土を得る場合,占領者は行う必要のあるすべての加害行為を検討し,それを毎日繰り返す必要がないよう一気に断行すべきであること,そしてそれを繰り返さないことによって人々を安心させ,人々に恩恵を施して人心を得ることができるようにすべきである.

君主は戦争と軍事組織,軍事訓練以外に目的を持ったり,これら以外の事柄に考慮を払ったり,なにか他の事柄を自らの技能としてはならない.それというのもこれのみが支配する人間に期待される唯一の技能であるからである.

自らの職務すべてにおいて良きことを実行しようとする人は,良からぬ人々の間にあって破滅することになるからである.それゆえ君主は自らの地位を維持しようとするならば良くない人間になりうることを学び,必要に応じてこのような行動をとったりとらなかったりする必要がある.

君主にとって必要なのは上に述べたような資質(信義を守ること)を有することではなく,それらを持っているように見えることである.さらに敢えて述べるならば,君主がこれらの資質を具え,それに従って行動するのは有害であるが,それを具えているように見えるのは有益である.

自らの領土内の賢人を選び,彼らに対してのみ自分に真実を述べる自由を与え,しかも彼自身が下問した事柄についてのみそれを許すべきである.(誰でもが真実を述べることが許されることになると,君主に対する尊敬が失われることになるから)

目次

マキアヴェッリの生涯と思想形成

  • ルネサンス期のイタリアとフィレンシェ
  • 生誕から初期官就任まで
  • フィレンツェ政庁書記官マキアヴェッリ
  • 隠棲と文筆活動
  • 晩年のマキアヴェッリ

君主論

  • 支配権の種類とその獲得方法
  • 世襲の君主権について
  • 複合的君主権について
  • アレクサンドロスによって征服されたダレイオス王国では、アレクサンドロスの死後、その後継者に対して反乱が生じなかったのは何故か
  • 占拠される以前、固有の法に従って統治されていた都市や君主国をどう支配すべきか
  • 自己の武力と能力とで獲得した新しい君主権について
  • 他人の武力または幸運によって得た君主権について
  • 極悪非道な手段によって君主となった場合について
  • 市民の支持によって得た君主権について
  • どのように全ての支配者の力を測定すべきか
  • 教会の支配権について
  • 軍隊の種類と傭兵について
  • 援軍と自己の軍隊とについて
  • 軍事に関する君主の義務について
  • 人間、特に君主が称讃され、非難される原因となる事柄について
  • 気前良さとけちについて
  • 残酷さと慈悲深さとについて、敬愛されるのと恐れられるのとではどちらがよいか
  • 君主は信義をどのように守るべきか
  • 軽蔑と憎悪とを避けるべきである
  • 砦やその他君主が日常的に行う事柄は有益かどうか
  • 尊敬を得るためにはどのように行動したらよいか
  • 君主の秘書官について
  • 追従を避けるにはどうしたらよいか
  • イタリアの君主達はどうして支配権を失ったのか
  • 人間世界に対して運命の持つ力とそれに対決する方法について
  • イタリアを蛮族から解放すべし
5月 292009
 

ゲストを連れて行くのに良い店を探した結果,昨日の夕食に,旅籠屋 ame du garson (ハコダテヤ アーム・デュ・ギャルソン)を選んだ.

元々は糸問屋だった京町屋を改装し,フレンチレストランにしている.純粋なフレンチではなく,日本の食材を活かしたフレンチで,仏和心料理というらしい.

今回のディナーコースでいただいたのは,キャビアを添えたサーモンのテリーヌ,中トロと真鯛の刺身,フォアグラと賀茂茄子,トリュフの泡々スープ,スズキと野生アスパラガス,口直しにベリーのデザート,フランス産子牛,ご飯とお漬け物,クリームブリュレとフルーツ,ケーキ,紅茶/コーヒー.

ディナー用コースとしては最も安い5000円のコースをお願いしたのだが,美味しく,お腹一杯になり,店の雰囲気やサービスも申し分なく,非常に良かった.また行きたいと思えるレストランだ.お薦め!

旅籠屋 ame du garson
(ハコダテヤ アーム・デュ・ギャルソン)

Tel: 075-213-3016

河原町御池を北へ.夷川通り東入ル一筋目上ル西側.

5月 272009
 

代表的日本人
内村鑑三,岩波書店,1995

本書は,明治41年(1908年)に刊行された,内村鑑三の”Representative Men in Japan”の翻訳書である.

キリスト教信者である内村鑑三が,おごる西洋人に対して,日本には非常に優れた人物がいたことを紹介しようとした書物であり,西郷隆盛,上杉鷹山,二宮尊徳,中江藤樹,日蓮上人の5名の登場人物にキリスト教徒の立場から見た解釈が与えられている.一方で,西洋の近代文明を吸収する過程で,武士道や道徳が失われ,頽廃してゆく日本文明への批判にもなっている.

「代表的日本人」は,「日本及び日本人」を大幅に改訂したものであるが,「日本及び日本人」の序文には,「日本語をもって世界語にしようとした太閤の高い志は,なお実現をはかられなくてはなりません」とある.日清戦争に勝利した翌日に書かれたという歴史的背景もあるのだろう.豊臣秀吉の朝鮮出兵や西郷隆盛の征韓論といった他国侵略を肯定しているところは気になる.その後,大幅に見直された「代表的日本人」では,ナショナリズムが多少緩和されているらしい.

「代表的日本人」の価値は,明治時代に日本人が英語で西洋人を啓蒙しよう(日本人の良さをアピールしよう)としたところにあると思う.そのような観点から非常に素晴らしい本だと思うが,本書で紹介される西郷隆盛,上杉鷹山,二宮尊徳,中江藤樹,日蓮上人の5名について知りたければ,それぞれの偉人伝でも読めば十分であり,今,必ずしも本書を読む必要はないのかもしれない.本書には,内村鑑三の目に映った代表的日本人の姿が宗教的に描かれているので,そこが気に入る人には良いだろう.同じ逆輸入本として,新渡戸稲造の「武士道」に比べれば,浅学非才な者にも読みやすい.

蛇足かも知れないが,日本人の偉人というのは,誰しも四書に通じているものだ.「大学」,「論語」,「孟子」,「中庸」の4つの書物すべてとは言わないが,入門書とされる「大学」くらいは知らないと,「代表的日本人」を読んでも浅い理解に終わると思う.

西郷隆盛

西郷隆盛を地味で簡素な生活や慎み深い性格などで特徴付けた上で,内村鑑三は,「敬天愛人」の言葉が西郷の人生観をよく要約しているという.「代表的日本人」では,以下のような西郷隆盛の言葉が引用されている.

文明とは正義のひろく行われることである,豪壮な邸宅,衣服の華美,外観の壮麗ではない.

天はあらゆる人を同一に愛する.ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない.

正道を歩み,正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ,外国と満足できる交際は期待できない.

とにかく国家の名誉が損なわれるならば,たとえ国家の存在が危うくなろうとも,政府は正義と大義の道にしたがうのが明らかな本務である.

徳に励む者には,財は求めなくても生じる.したがって,世の人が損と呼ぶものは損ではなく,得と呼ぶものは得ではない.いにしえの聖人は,民を恵み,与えることを得とみて,民から取ることを損とみた.今は,まるで反対だ.

上杉鷹山

財政破綻の危機に瀕する米沢の藩主として行財政改革に成功した実績でよく知られている上杉鷹山.内村鑑三は,鷹山の産業改革の特に優れている点として,産業改革の目的の中心に家臣を有徳な人間に育てることを置いたことを挙げている.徳を重んじ,民を慈しんで善政を敷いた上杉鷹山であるが,改革を始めて数年経った頃,重臣が新体制の撤回を求めたとき,それが家臣や民の声ではないと決まると,首謀者に切腹を,その他の者には所領減封と無期幽閉を命じた.そのような厳しい面もあった.

「代表的日本人」では,「民の幸福は治者の幸福である」という言葉も残している上杉鷹山が娘に宛てた手紙を引用している.

年若い女性である以上,着物のことに心がとらわれやすいのは当然である.しかし教えられた倹約の習慣を忘れるではない.養蚕をはじめ女の仕事に励み,同時に和歌や歌書に接して,心を磨くがよい.文化や教養は,それだけを目的にしてはならない.すべての学問の目的は徳を修めることに通じている.そのため,善を勧め悪を避けるように教えてくれる学問を選ぶがよい.和歌は心を慰めるものだ.それにより月や花が人の心の糧となり,情操を高める.

二宮尊徳

いわずと知れた,大変な勤勉家であり勤労者である二宮金治郎.「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな.人は自分の植えたものを収穫するのである.」という二宮尊徳の言葉は,いかにも農民らしい比喩を用いながら,現在でいう原因と結果の法則,あるいは宇宙の法則を彼が会得していたことを示している.

荒廃した村々の復興を依頼した小田原藩主への報告書において,二宮尊徳は次のように記している.

仁愛,勤勉,自助−これらの徳を徹底して励行してこそ,村に希望がみられるのです.もしも誠心誠意,忍耐強く仕事に励むならば,この日から10年後には,昔の繁栄を回復できるのではないかと考えます.

さらに,利根川下流の大沼の排水に関する徳川幕府への報告書においては,二宮尊徳は次のように記している.

私は運河を掘る地域の民の堕落ぶりを知っています.まず「仁術」によってその精神を正さなくてはなりません.それが仕事に着手する前の用意として,最初に必要な処置であります.(中略)いったん人々が誠実の念を取り戻しさえすれば,あとは山をうがち岩をくだくことも望みのままになるでありましょう.たとえ廻り道のようにみえても,それが最短にしてもっとも効果的な道であります.植物の根には,花も実もことごとく含まれているではありませんか.最初に道徳があり,事業はその後にあるのであります.

中江藤樹

近江の聖人と言われる中江藤樹は,11歳で「大学」を読み,「聖人になる」という死ぬまで変わることのない大志を抱き,17歳で四書を入手し,ますます学問に打ち込み,28歳で村に学校を開いたとされる.

「代表的日本人」では,以下のような中江藤樹の言葉が引用されている.

学者とは,徳によって与えられる名であって,学識によるのではない.学識は学才であって,生まれつきその才能を持つ人が,学者になることは困難ではない.しかし,いかに学識に秀でていても,徳を欠くなら学者ではない.学識があるだけではただの人である.無学の人でも徳を具えた人は,ただの人ではない.学識はないが学者である.

徳を持つことを望むなら,毎日善をしなければならない.一善すると一悪が去る.日々善をなせば,日々悪は去る.昼が長くなれば夜が短くなるように,善をつとめるならばすべての悪は消え去る.

日蓮上人

妙法蓮華経を重んじ,仏僧として激しい人生を歩んだ日蓮.その説法では,「浄土は地獄におちる道,禅は天魔の輩,真言は亡国の邪教,律は国賊であることを知らなければなりません」と宣言し,さらに「立正安国論」を著して,他宗に宣戦布告をした.仏教界や鎌倉幕府を含めて敵は多く,伊豆と佐渡への流刑に処せられている.しかし不屈の精神により,日蓮宗の確固たる地位を築き上げた.日蓮の覚悟は,「我が奉ずる経のために死ぬことができるなら,命は惜しくない.」という言葉にも表れている.

内村鑑三は,こう締めくくっている.闘争好きを除いた日蓮,これが私どもの理想とする宗教者であります.

目次

  • 西郷隆盛−新日本の創設者
  • 上杉鷹山−封建領主
  • 二宮尊徳−農民聖者
  • 中江藤樹−村の先生
  • 日蓮上人−仏僧
5月 242009
 

「吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録」(川口雅昭(編),致知出版社,2006)を読んで気に入った言葉をメモしておく.敢えてコメントは付さずにおこう.何を感じるかは人それぞれだから.

学問

学問の道,人の禽獣に異る所以を知るより要なるはなし.「講孟劄記」

学を言ふは志を主とす.「講孟劄記」

楽しむに天下を以てし,憂ふるに天下を以てすと,是れ聖学の骨子なり.凡そ聖学の主とする所,己れを修むと人を治むの二途に過ぎず.「講孟劄記」

凡そ学をなすの要は己が為めにするにあり.己が為めにするは君子の学なり.人の為めにするは小人の学なり.「講孟劄記」

今世学問をする者己れの年少を恃み,何事も他日と推延ぶる者あり,殊て知らず,人生一世間,白駒の隙を過ぐるが如し,仮令百年の命を全くすとも,誠に暫時の間なり.「講孟劄記」

大凡十歳前後より四十歳比迄,三十余年中学問を勤む.而して其の最も自ら励むことは中十年にあるなり.「武教全書講録」

士に貴ぶ所は徳なり,才に非ず.行なり学に非ず.「講孟劄記」

読書

天下国家の為め一身を愛惜し給へ.閑暇には読書に勉め給へ.「桂小五郎あて書翰」

凡そ読書の功は昼夜を舎てず,寸陰を惜しみて是れを励むに非ざれば,其の功を見ることなし.「講孟劄記」

万巻の書を読むに非ざるよりは,寧んぞ千秋の人たるを得ん.一己の労を軽んずるに非ざるよりは,寧んぞ兆民の安きを致すを淂ん。「松下村塾聯」

人古今に通ぜず,聖賢を師とせずんば,則ち鄙夫のみ.読書尚友は君子の事なり.「土規七則」

経書を読むの第一義は,聖賢に阿(おもね)らぬこと要なり.「講孟劄記」

気節行義は村塾の第一義なり,徒に書を読むのみに非ざるなり.

吾れの自ら処るは当に学者を以てすべし.謂ふ所の学なるものは書を読み詩を作るの謂に非ず.身の職を尽して世用に供するのみ.「寡欲録」

教育

人才は之れを育するに道あらば,則ち成るものなり.「異賊防禦の策」

学校の盛衰は全く先生の賢愚に存す.「吉日録」

人才育せざるべからず.(中略)蓋し人各々能あり不能あり,物の斉しからざるは物の情なり.(中略)斉しからざる人を一斉ならしめんとせず,所謂才なる者を育することを務むべし.(中略)今の弊,闔国の人をして皆一斉ならしめんと欲するに在り.而して却って其の間,才なる者特出するを見ず.

余は初めより大人を以て志を立て,己れを正しうして物を正しくせんとするなり.若しかくの如くにして,功なくして徒死するとも,吾れ敢へて悔いざるなり.「講孟劄記」

大丈夫斯の世に生れては,志を立つること高大なるを貴ぶ.

君子に貴ぶ所のものは志のみ,胆のみ.胆なく志なくんば,則ち区々の才知将た何の用か之れを為さん.

夫れ重きを以て任と為す者,才を以て恃と為すに足らず.知を以て恃と為すに足らず.必ずや志を以て気を率ゐ,黽勉事に従ひて而る後可なり.

道の精なると精ならざると,業の成ると成らざるとは,志の立つと立たざるとに在るのみ.故に士たる者は其の志を立てざるべからず.

学を言ふは志を主とす.「講孟劄記」

徳・誠

積徳積善でなくては大事は出来ず.

士に貴ぶ所は徳なり,才に非ず.行なり学に非ず.「講孟劄記」

聖賢の貴ぶ所は,議論に在らずして,事業に在り.多言を費すことなく,積誠之れを蓄へよ.「久坂玄瑞への言葉」

「行住坐臥,暫くも放心せば則ち必ず変に臨みて常を失ひ,一生の恪勤,一事に於て闕滅す.変の至るや知るべからず」と云ふは,細行を矝まざれば,遂に大徳を累はすと云ふと同一種の語にして,最も謹厳なる語なり.「武教全書講録」

生き方

古より志士仁人,恩に感じ報を図るや,往々一身の力を尽し,而して之れに継ぐに死を以てす.

死而後己の四字は言簡にして義広し.堅忍果決,確乎として抜くべからざるものは,是れを舎きて術なきなり.「士規七則」

凡そ生れて人たらば,宜しく人の禽獣に異る所以を知るべし.蓋し人には五倫あり,而して君臣父子を最も大なりと為す.「士規七則」

綱常名分を以て己が責と為し,天下後世を以て己が任と為すべし.「久坂玄瑞に復する書」

老兄の為す所学ぶ所,事々皆実なり,但だ軽用妄拳して以て小成に安んずることなかれ.

今人未だ曾て心を尽さず.故に其の一杯の所を知ること能はず.「講孟劄記」

その他

憂楽の変は己れに在りて,物に在らんや.「賞月雅草」

得難くして失ひ易き者は時なり.

材を達し徳を成す総べて酸辛.

賢母あらば賢子あり.

5月 232009
 

吉田松陰一日一言―魂を鼓舞する感奮語録
川口雅昭(編),致知出版社,2006

タイトルの通り,吉田松陰の言葉を366個選び,その訳とともに記した書物である.もちろん,吉田松陰は多くの素晴らしい言葉を残しており,本書を読めば心に響くものがある.しかし,いくつか注文をつけたい.私が満足できなかった点だ.

第一に,大変な読書家であった吉田松陰の言葉には,四書五経など古典からの引用が多い.吉田松陰自身が誰の言葉かを明示しているものもあるが,そうでないものも少なくない.折角,吉田松陰研究に長年取り組んできた著者が著したのであるなら,浅学な読者のために,吉田松陰の言葉の出所をできる限り示して欲しい.昔の賢人の言葉なのか,松陰自身の言葉なのか.それを知りたい.

第二に,1月1日から12月31日に至るまで,どのような方針で言葉が並べられたのかを説明して欲しい.何の脈絡もないのか,それとも何らかの意図があるのか.書かれた順になっているわけでも,書物や手紙ごとにまとめられているわけでもない.なぜ,この並びになったのか.それを知りたい.

第三に,吉田松陰の略歴を巻頭で示して欲しい.本書でも,あとがきのさらに後に,1頁に満たない略歴が記載されている.もちろん,吉田松陰に詳しい人にはこれすら不要だろう.しかし,そうでない人には不十分であり,いかにも中途半端に思える.彼の激動の人生の中で,それぞれの言葉が書かれたのがいつなのかを知ることによって,その言葉を発した吉田松陰の心境に迫ることができるはずだ.読者にとっては有益なことだろう.

上記3点が改善されれば,少なくとも私にとっては,本書の価値は何倍にもなる.

本書は良い本だとは思うのだけれども,やはり,この種の名言を集めた本を読むだけでは不十分だとの思いが絶えない.その言葉が書かれた文脈があるはずであり,それを理解せずして,本当に言葉の真意を理解できるのか.そこに疑問が残る.まあ,このような手軽な本を最初に手にして,そこから原典にあたるのなら,それもよいだろう.

5月 222009
 

研究・技術・自分のマネジメント

現在,化学工学特論第一という大学院生向けの講義を担当している.先日書いたとおり,そのテーマは「研究・技術・自分のマネジメント」だ.当初は,技術経営(MOT)にしようと考えていたのだが,熟慮の結果,技術のマネジメントだけでなく,大学院で取り組む研究,さらには将来に向けて自分自身を如何にマネジメントするかを対象とすることにした.講義の趣旨は配付資料にまとめ,このブログでも公開している.

論理的思考力を身に付けるためのケーススタディとして,ハイブリッドカーの是非について討論した後,マイ箸の是非,線形代数の基本などを講義で取り扱った.

特別講演を企画

学生が,視野を広げること,将来について真剣に考えること,大きな志を持つこと,社会的な責任を意識すること,社会への貢献を意識すること.このようなことが,担当講義「研究・技術・自分のマネジメント」で私がやりたいことだ.浅薄な知識なんてどうでもよい.

このような目的を達しようとすると,大学に引き籠もってしまっている私が講義するだけでは足りないと思える.そこで,学外から講師を招き,特別講演をお願いすることにした.学生向けの特別講演の案内に記した文章を示しておこう.

化学工学特論第一「研究・技術・自分のマネジメント」において,予告通り,特別講演を開催します.このために私が選んだ講演者は2人です.

2人とも30歳以下で,学生諸君と比較的近い年齢ですが,日本を変えるだけの志と能力を持ち合わせています.肩書きなんかに頼らずにやっていける(実際にやってるから凄い)強者です.

年齢が近く,能力が高く,何より行動力が素晴らしいので,私なんかの話を聞くよりも,100倍,これから社会に出る学生諸君のためになると思い,講演を依頼しました.

化学工学特論第一を受講しているかどうかにかかわらず,参加してもらって結構です.4回生も含めて,誰でも歓迎します.今後しばらくは,このような機会を作らないと思いますので.

研究活動で得た能力は社会人になって役に立つのか?

昨日,5月21日に,一回目の特別講演を実施した.テーマは「研究活動で得た能力は社会人になって役に立つのか?」だ.

講師は木村義弘氏.現在は株式会社チェンジに在籍し,そのインド現地法人 Abacus Venture Solutions Pvt. Ltd. の事業展開を担って,6月からインドに在住するそうだ.彼とは,彼が大阪府立大学の学部3回生のときからの付き合いで,そのビジネスにかける想い,教育への情熱,そして行動力の一端を学生に伝えてもらおうと思い,講演を依頼した.

講演内容は以下の通り.まず,簡単な自己紹介の後,彼流のビジネスの意義・意味が示された.ビジネスの目的は「自律した社会貢献」であり,「儲」とは「信者」になってもらうことというものだ.ビジネスを行うには,自分の強みを知らなければならない.強みは,「Human Strength(人間としての基本的な本性に関する強み)」,「Formal Strength(専門知識や経験)」,「Informal Strength(遊びにおける強み)」の3つの観点から捉えられるという.ちなみに,彼の「Informal Strength(遊びにおける強み)」は焼肉らしい.この強みは誰かの役に立ってこそのものであるから,自分と強みを発信していく,つまりマーケティングしていく必要がある.学生にとって身近なところでは,就職活動がまさに自分マーケティングの場である.ベンチャー企業において新卒採用を担当(その仕組みを構築)した経験から,就職活動に向けた姿勢を紹介してもらった.さらに,大学院で学べることとして,問題設定能力,問題解決能力,コミュニケーション能力,マインドの4つが挙げられ,それぞれについての説明があった.

講演のまとめは以下の通り.

  • ビジネスは「貢献したい」という思いからスタートする.
  • 自分はどういった貢献ができるか,貢献をしたいかを考えることを通して,自分の強みを認識し,磨いていく.
  • ビジネスの世界に入る上で試されるのは,自分マーケティング力.自分を知り,相手(企業)を知り,どういう部分で相手に貢献できるかを考える.
  • 研究活動を通して得られる能力は,ビジネスの世界でも必ず役に立つ.

昼食会

特別講演終了後,木村君と一緒に食事をしながら話をしたいという学生を連れ,学内にあるフレンチレストランに行った.来客時に利用できるようなレストランは,キャンパス内およびキャンパス周辺に,そこしかない...

木村君と私についてきた学生は,色々と質問したりされたりしながら,志を持ち,ビジネスの世界で全力で頑張っている一青年の姿を間近に見て,感じるところがあったであろうと思う.そうであったなら,このような場を設定した私にとって本望というものだ.

さて,次回の特別講演は6月11日に予定している.こちらも熱い話を聞くことができるだろう.私自身,大いに楽しみにしている.

5月 192009
 

大学・中庸
金谷治(翻訳),岩波書店,2003

本書のタイトル「大学・中庸」とは,儒教の経典として知られる四書五経のうちの2つである.四書とは,「大学」,「論語」,「孟子」,「中庸」の4つの書物を指し,五経とは,「易経」,「書経」,「詩経」,「礼記」,「春秋」を指す.四書において,「論語」は孔子と弟子たちの言行録として,「孟子」は孟子とその弟子たちの言行録として,それぞれ単独の書物であったのに対して,「大学」と「中庸」は元々は「礼記」におさめられていた2篇にすぎない.それを朱熹(朱子学の創始者)が儒学の経典として取り上げ,独自の解釈を加えて,「論語」,「孟子」とあわせて四書とした.オリジナルの「大学」と「中庸」の作者は不詳であるらしい.

一般に,新儒教の朱子学が正当とされた日本では,朱熹の手によるオリジナルではない「大学」と「中庸」が広く読まれてきた.本書は,「礼記」におさめられていたオリジナルの「大学」と「中庸」の翻訳・解説本であり,朱熹の注釈との相違が細かに示されている.

大学

四書の最初に読むべき,儒学の入門書と位置付けられている.その内容は,修身(わが身を修めること)の重要性を説くことに尽きる.修身・斉家・治国・平天下がキーワードであり,天下を平らかにするためには,国を治める必要があり,そのためには,家を斉(ととの)える必要があり,そのためには,身を修める必要があるとする.このため,何よりもまず,己の身を修めなさいというのがその教えだ.徳を身につけ,善を好むように務めなさいということだ.

では,修身のためには何が必要かというと,心を正す,意を誠にする,知を致す,物に格(いた)る,以上4つである.修身・斉家・治国・平天下に,これら正心・誠意・致知・格物を加えて八条目といわれる.

これだけだと,大学と関係がなさそうなのであるが,「大学」は,「大学の道は,明徳を明らかにするに在り,民を親しましむるに在り,至善に止まるに在り」で始まる.これら「明徳を明らかにする」,「民を親しましむる」,「至善に止まる」が大学教育の目標とされ,三綱領といわれる.

「大学」第一章より抜粋

大学の道は,明徳を明らかにするに在り,民を親しましむるに在り,至善に止まるに在り.

(訳)大学で学問の総しあげとして学ぶべきことは,輝かしい徳を身につけてそれを輝かせることであり,民衆が親しみ睦みあうようにすることであり,こうしていつも最高善の境地にふみ止まることである.

物格(至:いた)りて后(のち)知至(きわ)まる.知至まりて后意誠(まこと)なり.意誠にして后心正し.心正しくして后身脩(修:おさ)まる.身脩まりて后家斉(ととの)う.家斉いて后国治まる.国治まりて后天下平らかなり.

(訳)ものごと(の善悪)が確かめられてこそ,はじめて知能(道徳的判断)がおしきわめられる.知能がおしきわめられてこそ,はじめて意念が誠実になる.意念が誠実になってこそ,はじめて心が正しくなる.心が正しくなってこそ,はじめて一身がよく修まる.一身がよく修まってこそ,はじめて家が和合する.家が和合してこそ,はじめて国がよく治まる.国よく治まってこそ,はじめて世界じゅうが平安になる.

天子より以て庶人に至るまで,壱に是皆身を脩むるを以て本と為す.(中略)此れを本を知ると謂い,此れを知の至まりと謂うなり.

(訳)天子から庶民に至るまで,同じようにみなわが身をよく修めることを根本とする.(中略)このようにするのを,真に根本をわきまえたものといい,このようにあることを,知識のきわみというのである.

中庸

本書の解説にも書かれているが,確かに,中庸を説く前半と,誠を説く後半では全くの別物という印象を受ける.前半は「子曰く」の形式で,孔子と弟子たちとの言行録になっている.一方,後半は前半とは異なる調子で「誠」の重要性を強調しまくっている.

どちらも短い文章で,如何に生きるべきかを教えているのであるが,個人的には「大学」の方がしっくりくる.四書において,「大学」は最初に読むべき入門書,「中庸」はさらに「論語」と「孟子」の後に,つまり最後に読むべき書物とされていることから,私は入門者レベルということか.納得.

目次

  • 「大学」解説
  • 大学(旧本)本文
  • 大学章句(朱熹)序・本文
  • 「中庸」解説
  • 中庸本文
  • 中庸章句(朱熹)序
5月 162009
 

自省録
マルクス・アウレーリウス,岩波書店,2007

久しぶりに,マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)(ローマ帝国皇帝)の「自省録」を読み返した.今回読んだのは,2007年に改版された岩波文庫のものだ.以前,マルクス・アウレリウス・アントニヌスの「自省録」を読んだときの感想は2003年の独り言(このブログの前身)に書いてある.引用しておこう.

心を打たれる本を読んだ.2つの簡潔な言葉だけ引用しておこう.

  • 善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて,善い人間になったらどうだ.
  • 名誉を愛する者は自分の幸福は他人の中にあると思い,享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが,もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである.

善い人間になれ.自分に言い聞かせるのは,これだけで十分ではないか.自分が善い人間になることを妨げるものが,この世の中に存在するだろうか.自分以外のものが影響を与えることができるのは,自分の肉体のみである.自分の精神は自分自身の支配下にあり,誰も手を出すことはできない.そうであるなら,自分が善い人間ではないことを一体誰のせいにできるだろうか.

善い人にも悪い人にも分け隔てなく与えられるようなものを望むな.名誉や財産など.それらによって,自分が善となることも悪となることもない.

名声や名誉などというものは,実に儚いものである.その名声や名誉を与えてくれる人達はどのような精神の持ち主であるか.名誉欲が強く,享楽的で,色情におぼれるような人達ではないか.そのような人達に褒め称えられることに,何の価値があろうか.自然の営みからすれば,ほんの一瞬にすぎない人生の目的は何か.名誉や財産を得ることなのか.善く生きることではないのか.

このような善き精神をもってローマ帝国を治めたのが,皇帝マルクス・アウレーリウスである.彼が残した言葉を集めた「自省録」には大変な魅力がある.

自己紹介にも書いてあるとおり,マルクス・アウレリウス・アントニヌスが「自省録」に残した下記の言葉は,私の座右の銘であり,行動指針を与えるものでもある.

名誉を愛する者は自分の幸福は他人の中にあると思い,享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが,もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである.

自省録は何度読んでも,難しいところが多い.元々,人に読ませたり,本として出版するために書かれたものでなく,皇帝マルクス・アウレーリウスが文字通り自省しつつ書き連ねたものを,後世の人達が整理したものであるためだ.難しくはあるが,それでも,しっかり心に響くものがある.私にとっては非常に良い本であり,まさに座右の書であるが,他の人にはあまり薦めたことがない.というのも,個人の価値観が色濃く反映され,かつ,読みにくいためだ.この内容を受け入れる準備ができた人でないと読めないし,読んでも無意味ではないかと思ってしまうからだ.

2008年に,いわゆる「引き寄せ」系の書籍,例えば,

などを読んだ.引き寄せ系の書籍が説く自然の原則は,もっと以前から,例えば,「原因と結果の法則」(ジェームズ・アレン)によって指摘されているものである.ただ,頭でわかることと,生活で実践できることの落差はとても大きい.

ともかく,これらの本を読んだ経験をもって,マルクス・アウレリウス・アントニヌスの「自省録」を読み返してみると,以前ならサッと読み流していた内容が,「そういうことだったか」と強く印象に残ったりもする.例えば,「自省録」には,「人間には与えられるべきものが与えられている」,「現状に満足し,不平不満を言うな」ということが繰り返し書かれているのだが,原因と結果の法則,引き寄せの法則について知った後であると,その意味することが理解しやすい.確かにその通りだと頷きながら読める.

その他,「自然に従って生きる.」,「過去や未来を気にするな.生きているのは今のみ.」,「何が起ころうとも,それを悪いこと・不幸と自分が考えなければ悪いこと・不幸にはならない.そう考える自由がある.」,「誰も自分に損害を与えることはできない.精神は自分のもの.」などが繰り返し書かれている.

プラトンの掲げた理想のように,マルクス・アウレリウス・アントニヌスのような哲学者(善い精神の持ち主)が政治を執り行うのであれば,世の中はどのようになるか.まあ,多数決主義で,低俗な多数派が実権を握る社会制度においては,その実現を望むべくもないのかもしれない.それでも,その理想に向けて,できることはしたいと思わないか.

目次

  • 第1巻から第12巻まで

250頁ほどの本文に対して,注釈が50頁ほど.