5月 312009
 

方法序説
デカルト(Ren´e Descartes),岩波書店,1997

結論ではなく方法が重要だと認識せよ

哲学なんて知るかという人でも,「我思う故に我在り」という言葉を聞いたことくらいはあるだろう.もしなければ,今読んだだろう.これで知らない人は誰もいない.さて,デカルトが「我思う故に我在り」という真理に至る過程を著したことで有名な本書「方法序説」であるが,名言「我思う故に我在り」というのは非常に象徴的ではあっても,これ自身が大切なわけではない.本当に大切なのは,「我思う故に我在り」という真理に至ることを可能たらしめた思考方法である.人類史上,哲学には多くの賢人が取り組んできた.後発のデカルトは,どのようにして,彼が言う第一原理に至ったのか.

究極の論理的思考に必要な規則

真理の探究に必要な規則は4つであるとデカルトは述べている.

この三つの学問(論理学,代数,解析)の長所を含みながら,その欠点を免れている何か他の方法を探求しなければ,と考えた.法律の数がやたらに多いと,しばしば悪徳に口実をあたえるので,国家は,ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される.同じように,論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに,一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら,次の四つの規則で十分だと信じた.

第一は,わたしが明証的に真であると認めるのでなければ,どんなことも真として受け入れないことだった.言い換えれば,注意ぶかく速断と偏見を避けること,そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は,何もわたしの判断のなかに含めないこと.

第二は,わたしが検討する難問の一つ一つを,できるだけ多くの,しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること.

第三は,わたしの思考を順序にしたがって導くこと.そこでは,もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて,少しずつ,階段を昇るようにして,もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき,自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと.

そして最後は,すべての場合に,完全な枚挙と全体にわたる見直しをして,何も見落とさなかったと確信すること.

この4つの規則に完璧に従うことによって,デカルトは数々の難問の答えを見出していったわけだが,彼自身,この方法を以下のように評している.この方法は,昨今流行の論理的思考の究極の姿だとも言えよう.

この方法でわたしがいちばん満足したのは,この方法によって,自分の理性をどんなことにおいても,完全ではないまでも,少なくとも自分の力の及ぶかぎり最もよく用いているという確信を得たことだ.

ゼロベース思考の原点

問題解決にはゼロベース思考が大切だと言われる.これは,先入観や偏見に囚われず,事実のみに基づいて論理的に考えることの必要性を強調したものだ.このゼロベース思考という観点でも,デカルトの方法は秀逸である.いや,単に方法論の次元の話ではない.彼の態度に度肝を抜かれると言う方が正確だろう.

それらの学問の原理はすべて哲学から借りるものであるはずなのに,わたしは哲学でまだ何も確実な原理を見いだしていないことに気がつき,何よりもまず,哲学において原理を打ち立てることに務めるべきだと考えた.そしてそれは,この世で何よりも重要なことであり,速断と偏見がもっとも恐れられるべきことであったから,当時二十三歳だったわたしは,もっと成熟した年齢に達するまでは,これをやりとげようと企ててはならないと考えた.わたしの精神から,その時より前に受け入れていた悪しき意見のすべてを根絶するとともに,たくさんの経験を積み重ねて,後にわたしの推論の材料となるようにし,また自分に命じた方法をたえず修練して,ますますそれを強固にし,あらかじめ十分な時間を準備のために費やしたうえでなければならない,と考えたのである.

「ゼロベース」を築くために,速断と偏見を避けるために,もっと成熟した年齢に達するまでは哲学の原理を打ち立てることを企てないと宣言しているのだ.それは,自分に命じた方法をたえず修練し,準備に万全を期すためであると言う.

その上で,デカルトは次のように考えた.

ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部,絶対的に誤りとして廃棄すべきであり,その後で,わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない,と考えた.

第一原理: 我思う故に我在り

こうしてデカルトは,感覚や推理などあらゆるものを捨て去った後に,一つの真理に到達した.

「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」というこの真理は,懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め,この真理を,求めていた哲学の第一原理として,ためらうことなく受け入れられる,と判断した.

ゼロベース思考の元祖はデカルトではありえない.それこそ無数の人々が真理を打ち立てるためにゼロベース思考に取り組んだ.その結果,彼らが辿り着いたのは懐疑論だ.懐疑論からは何も生まれず,ただ,すべてを疑うだけだった.そこで思考停止に陥らずに,「わたしは考える,ゆえにわたしは存在する」を第一原理と見なしたのがデカルトの偉大なところだろう.

神の存在証明

さらに,第一原理で思考停止せずに次に進めたのもデカルトの偉大なところだろう.彼は,考える自分とは別に,完全な存在者がなければならないとの結論に至る.これが,神の存在証明である.その証明は本書「方法序説」に明らかであるが,私を含めて,神の存在を「理性的に」認めたくない(認められない)と考える人は多いだろう.そのような人々に対して,デカルトはこう書いている.

しかし,多くの人が,神を認識することにも,自分たちの魂が何であるかを認識することにさえも困難があると思い込んでいる.どうしてそうなるかというと,それはかれらが自分の精神を,感覚的な事物を超えて高めることがけっしてないからである.かれらはイメージを思いうかべてでなければ何も考えない習慣にとらわれてしまい−これは物質的事物に特有な思考法だ−,イメージを思いうかべられないものはすべて,かれらには理解できないと思われるからである.(中略)神と魂の観念を把握するのに想像力を用いようとする人たちは,音を聞き匂いを嗅ぐために眼を用いようとする人と,まるで同じことをしていると思える.

痛い.実に,痛い.我々は理性的でも何でもないということだ.単に,物質レベルに囚われている囚人の思考しかできなくなっているのだ.人間が本来的に持つ精神の力を発揮できていないのだ.

デカルトは,さらに,こう指摘する.

というのも,神を否定する人たちの誤謬については先に十分論駁したと思うが,その誤謬の次に,以下のように想像することほど,弱い精神の持ち主を徳の正道から遠ざける誤謬はないからだ.つまり動物の魂がわれわれの魂と同じ本性のものであり,したがってわれわれはハエやアリと同様に,この世の生ののちには,何ひとつ恐れるべきものもなければ,希望すべきものもないと想像することである.これに対して,動物の魂とわれわれの魂がどれほど異なっているかを知ると,われわれの魂が身体にまったく依存しない本性であること,したがって身体とともに死すべきものではないことを証明する諸理由がずっとよく理解される.そして魂を滅ぼすほかの原因も見あたらないだけに,われわれはそのことから自然に,魂は不死であると判断するようになるのである.

なぜ方法序説なのか

ところで,本書のタイトル「方法序説」が気になった人はいないだろうか.私は「なぜ序説なのか」と気になった.「序説」というのは,本論に導入するための前置きの論説のことである.つまり,本書はデカルトの論じたいことそのものではなく,あくまでも前置きなのである.では,デカルトの本論とは一体何なのか.そして,本論ではなく,序説を世に出したのは何故なのか.

いや,もちろん,この「方法序説」は本当に序説であり,その後に数報の論文が続く,大部の著作の前置きではある.しかし,それはデカルトが元々意図していた形ではないだろう.

この問いに対する解答は本書に用意されている.

今から三年前,わたしはこれらすべてを内容とする論文を書きあげて,印刷業者の手に渡すために見直しを始めていたのだが,そのとき次の知らせに接した.わたしが敬服する方々,しかも,わたし自身の理性がわたしの思想に及ぼす権威に劣らぬほどの権威をわたしの行動に及ぼす方々が,ある人によって少し前に発表された自然学の一意見(ガリレオ・ガリレイの地動説)を否認した,というのである.

わたしは,残された時間をうまく使えるようにという希望が強いだけに,いよいよそれを無駄なく使わなければならないと思う.そして,もしわたしの自然学の基礎を公表すれば,この時間を失う多くの機会ができるにきまっている.というのも,この基礎はほぼすべてきわめて明証的で,理解しさえすればただちに真だと信じざるをえないほどであり,また一つとして論証できないと思われるものはないのだが,それにもかかわらず,他の人たちの各種各様のあらゆる意見と一致するのは不可能であることから,これが引き起こす諸反論によって,わたしがたびたび仕事から心をそらされてしまうことが予測されるのである.

宗教は大切なものだとは思うが,人間が絡むと,全くろくなことをしない代物にもなる.デカルトの方法序説を見ても,ローマ教皇庁の科学に与えた悪影響が甚大であることがわかる.

時間の大切さと志

人類の歴史を振り返ってみれば,多くの賢人が時間の大切さを説いてくれている.また,志を持つことの尊さを説いてくれている.そのような教えの通りに実践したデカルトは,方法序説を以下の文章で締めくくっている.

わたしは生きるために残っている時間を,自然についての一定の知識を得ようと務める以外には使うまいと決心した.その知識は,そこから医学のための諸規則を引き出すことができるようなもので,それらの規則はわれわれが現在までに持っている規則よりももっと確かなものである.そして生来わたしは,これ以外のあらゆる種類の計画,とくに一部の人に有利であろうとすれば他の人を害さざるをえないような計画(軍事技術の計画など)を,極力避けているので,何かのきっかけでやむをえずわたしがそれに携わるようになっても,うまくやりとげる力があるとは思えない.これについて今ここで宣言しても,自分を世の中で偉く見せる役には立たないのはよく知っているが,しかしまたわたしは偉くなりたいとは少しも思っていない.そして,この世のもっとも名誉ある職務を与えてくれる人びとよりも,その好意によってわたしに何の支障もなく自分の自由な時間を享受させてくれる人びとに,つねにいっそう深い感謝の気持ちをもつことだろう.

目次

  • 第1部から第6部まで
  • 訳注
  • 解説

 Leave a Reply

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>