7月 012009
 

知性について 他四篇
ショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer),岩波書店,1961

本書は,ショーペンハウエルの主著である「意志と表象としての世界」の後に書かれた「付録と補遺」の一部であり,哲学とその方法について,論理学と弁証法の余論,知性について,物自体と現象との対立についての二三の考察,汎神論について,の計5篇からなる.これら5篇の中で「知性について」が圧倒的に長いので,本書のタイトルとなっている.

哲学とその方法について

哲学者らしく,哲学するために必要なことをズバリと述べている.納得.

哲学するために最初に求められる二つの要件は,第一に,心にかかるいかなる問いをも率直に問い出す勇気をもつということである.そして第二は,自明の理と思われるすべてのことを,あらためてはっきりと意識し,そうすることによってそれを問題としてつかみ直すということである.最後にまた,本格的に哲学するためには,精神が本当の閑暇をもっていなくてはならない.

論理学と弁証法の余論

本書では様々な引用がなされているが,例えば,無知で頑なな人達との論争を戒めて,ショーペンハウエルはゲーテを引用している.

どのような時にもせよ,
異を立てようという気になるな.
無知の人々と争えば,
賢者も無知に沈むのだから.
(ゲーテ,「西東詩集」,箴言の書二七番)

また,ショーペンハウエルは,討論において,自説に固執するあまり下劣になることのないようにと戒めている.

知性について

時間と空間は現実の物であると我々は信じて疑わないわけであるが,時間だけでは物体の静止と運動に少しも変化を加えないということは,時間は物理的な実在ではなく,先験的な観念的存在であることを意味するという理由から,ショーペンハウエルは,カントが発見した「時間の観念性」は,力学の「慣性の法則」に既に含まれているとしている.

そんなふうに考えるのかと刺激を受ける.さらに,時間や空間について以下のように述べられている.

永遠性は本質上,時間の反対なのである.まったく能力のない人々の没知性だけが,永遠性の概念に接して,それを終わりなき時間としてしか理解する術を知らなかった.スコラ学派は「永遠性は時間の終わりなき継続ではなく,恒常の今である」と述べている.

我々が将来のものとして受け取るものは,今は全然実在しないように見えるが,将来が現在となったあかつきには,この錯誤は消える.時間の中で相次いで現れてくる事柄の必然性は原因と結果の連鎖を介して我々に示されるけれども,これは我々が統一不変に実在するものを時間の形式のもとで知覚する様式にすぎない.実在自体は,時間に拘束されている我々の知覚に無関心に,「恒常の今」において現存している.

空間の観念性ということを最も明快かつ単純に証拠だてているのは,我々は空間を取り払って考えることができないという事実である.空間そのものだけは,どうしても追い払うことができない.

ショーペンハウエルは,人間の本質,その根源的なものは意志であり,知性も意志に根差すとしている.

知性はその客観的表現たる脳髄およびこれに付属する感覚器官と同様に,外来の作用を受け入れるための極めて高度に発達した感受性にほかならず,我々に本来固有な内的本質をなすものではない.本質は意志.意志こそ現象のあらゆる属性の創造者であり担い手なのである.道徳的な諸性質のほか,知性も間接的に意志に所属するものである.

我々の知性は意志に根ざしており,根源的な純粋知性ではないため,我々自身に何らかの利害関係のある事柄について,我々が曇りなく明らかに見るということはほとんど不可能である.なぜなら,常に意志が口を挟み,意志の発言を知性そのものの発言から区別できないためである.それだからこそ,忠実率直な友人はかけがえのない貴重な存在である.

動物を見れば,その知性が意志に奉仕して働いているにすぎないということが,一目でわかる.人間においても,普通は,これとたいして異ならない.

ショーペンハウエルは,書物に書かれた知識ではなく,自然と現実を重視せよと述べている.

ほかの誰にもまして哲学者は,いまのべた源泉から,すなわち直観的認識から知識を汲み取り,それゆえに事物そのもの,自然,世界,人生を直視し,書物ではなくてこれらを彼の思想の原典とし,さらにまた,出来合いのまま与えられたすべての概念をいつもこれらのものに照合して,吟味し調整しなければならない.こうして,彼は書物を認識の泉として用いるのではく,ただ補助として利用するにとどめなくてはならない.なぜといって,書物が提供するものは二番煎じのものであり,その上たいていはもう歪められている.それは原典の,すなわち世界の反映であり写し絵であるにすぎず,そしてもとの鏡が完全に澄んでいたというのは稀なことなのである.

自然と現実は決してひとをあざむかない.

さらに,書物に書かれていることは,いつでも必要に応じて読み返せるのだから,そのようなことを書き留める必要はないともいう.むしろ,記憶力を高めるために,書き留めるなという.

書き抜き帳は作らない方がよい.何かを書き留めるということは,それを忘却にゆだねるということだからである.そして記憶力に対しては,甘やかして従順さを忘れさせることのないように,厳格な命令的な態度で臨むべきである.

一方で,自分の思想は忘れないようにしっかりと書き留めよと書かれている.さらに,重要な思想をもつためには,そのための道を空けておかなければならず,くだらないことは一切考えるなと述べている.肝に銘じておこう.

自分で行った貴重な省察は,できるだけ早く書き留めておくべきである.これは,当然な心がけである.我々は自分の体験でさえ時には忘れてしまうのであるから,まして自分が思索したことは,どれだけ忘れ去るかわからない.それに,思想というものは,我々の望み通りの時にやってくるものではなく,気まぐれに去来するものなのである.

ひとかどの物事についての優れた重要な思想というものは,いつでも思い通りに招き寄せることができないものである.我々にできることは,くだらぬ愚劣な,また卑俗な考えの反芻をすべて追い払い,あらゆる戯言や茶番を寄せ付けず,優れたまともな思想が訪れてくる道をいつでもあけておくということだけである.だから,しっかりした思想を持つためには,決してくだらぬことを考えないということが,もっとも近道であるということができる.

さらに,「知性について」で書かれているのは,以下のようなこと.

自分の全能力をある特殊科学にささげるためには,この学問への大きな愛が必要であるが,しかしまた,他のすべての学問に対する大きな無関心も必要である.それゆえに,第一級の精神の持ち主たちは,決して特定の専門科学に身をささげないであろう.全体への洞察を,あまりにも深く心にかけているからである.

多くの学者達が,自分の専門分野に属する物事についても,あきれるほど無知であるのは,詮じつめれば,その対象に対する彼らの客観的関心が欠けているためである.彼らは一般に情熱を込めて研究しているわけではなく,我慢をして勉強しているからなのである.

哲学をしている例外的人間の他は,この夢の中で漫然と暮らしていて,その有様は動物達とたいした違いもなく,その相違は結局のところ,わずか二三年さきを見越して思い煩っているくらいのところである.

日常人は身体的努力を嫌がるが,それにもまして,精神的努力を嫌うものである.それゆえに,彼らはあれほど無知,無思慮で,無分別なのである.

大多数の人間は,その本性上,飲食と性行以外の何事にも真剣になれないという性質を持っている.この連中は,稀有の崇高な資質の持ち主が,宗教や学問や芸術の形で世の中にもたらしてきたすべてのものを,たいていは自分の仮面として用いて,ただちに彼らの低級な目的のための道具として利用することになる.

様々な知性の位階を測定するための最も狂いのない尺度を示すものは,彼らが物事を単に個体的に把握するか,それとも何程かずつ普遍的に把握するか,という度合いである.動物はただ個別的なものごとだけをそのままに認識し,従ってまったく個体的なものの把握にとらわれている.人間は誰でも個別的なものを概念で総括する.これがまさに理性の使用ということなのである.そして彼の知性が高い階段に上れば上るほど,それだけこれらの概念が普遍的になる.

人間は何かあるものを崇拝したがるものである.ただ,彼らの崇拝は,たいていお門違いのところで立ち止まっていて,やがて後世の人々がその間違いを直すまで,そこに停滞し続ける.そして,この是正が行われた後でも,教養大衆が天才に払う敬意は,ちょうど信徒達が彼らの信者にささげる崇拝のように,とかくつまらぬ遺物礼拝に変質するものである.

終始,知性を働かさない人,知的に凡俗な人を侮蔑しているが,その生涯も教えもよくわからない聖者の遺跡,シェイクスピアの家,ゲーテの家,カントの古帽や古靴などを例に挙げて,次のように批判している.

彼らの作品を一度も読んだことのない連中によって,うやうやしく眺められているのである.この連中には,ただ口を開けて眺めることのほかには,何もできないのである.

確かにそうだ.自分も含めて...

目次

  • 哲学とその方法について
  • 論理学と弁証法の余論
  • 知性について
  • 物自体と現象との対立についての二三の考察
  • 汎神論について