10月 312009
 

約2年間,私が代表を務めさせていただいた研究会が最終回を迎えることになった.どちらかと言えば,参加者全員の利便性を考慮して,これまで東京で開催することが多かったが,最後の研究会は京都で開催することとし,研究会の締めとして,祇園で懇親会を催すことにした.なんだかんだと言っても,やはり「祇園」というのはブランドであり,京都を訪れる機会のない方々には,花見小路なども京都情緒のある景色であろう.

一ヶ月くらい前に店を予約した.この研究会は産学連携の研究会であり,全国各地の企業側メンバーと大学側メンバーを合わせて,懇親会参加者は20名程度.この人数を収容できて,一人8000円以内くらいで,できれば京都らしさのある,美味しい料理を食べられるところというのが条件だ.職業柄,懇親会の設定をする機会は多いので,自分が行ってみたいレストランのリストと,いつものように各所のクチコミなどを参考にしつつ,今回は,祇園花見小路にある”Restaurant Francais Abbesses“というフレンチのレストランに決めた.当然のように京町家を改装した店で,京野菜をふんだんに使ったフランス料理がポイントだ.

Abbesses(アベス)は,祇園花見小路沿いの建物の3階にある.花見小路から裏路地に入ったところにある格子を開け,エレベーターで3階へ.入口が奥まったところにあるため,注意しておかないと見過ごすかもしれない.

貸し切りではなかったものの,カウンター席以外のテーブル席すべてを占拠していたので,ほぼ貸し切り状態だった.5250円のディナーコースを注文し,後は各自で好きなドリンクを飲んだ.私はキールロワイヤル.研究室のコンパで学生に連れられて行くような店では,まずメニューにない.というわけで,飲む機会も少ないのだが,好きだ.最初の前菜は野菜たっぷりの鯖の料理だった.京野菜フレンチを謳うAbbesses(アベス)らしい.以降,メインディッシュのホロホロ鳥に至るまで,野菜がふんだんに使われており,かつ美味しかった.デザートは少なくとも4種類あって,私がいたテーブルでは,4人全員違うデザートをいただいた.自分で選ぶのではなく,店側で選んでサーブしてくれる.私が食べたデザートは,「かぼちゃのプリンとココナッツのブランマンジェ キャラメルアイス添え」だった.

また行ってみたい店だ.

メンバーの皆様,お疲れ様でした.2年間ありがとうございました.今後は,研究会で開発した技術を完成させ,産業応用を推し進めていくことになりますので,引き続き,よろしくお願いいたします.

Restaurant Francais Abbesses (アベス)

場所: 京都府京都市東山区祇園町南側570-232
電話: 075-533-2501
営業時間: 11:30〜14:00(L.O) 18:00〜21:00(L.O)
定休日: 月曜日(祝日の場合は翌日)

リンク: 食べログぐるなび

Restaurant Francais 祇園Abbesses (フレンチ / 四条、河原町、三条)
★★★★ 4.0

10月 262009
 

科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる
戸田山和久,日本放送出版協会,2005

面白かった.文章も上手だ.センセイと大学生のテツオ(哲学科だから)とリカ(理科系だから)の3人が科学について哲学的な議論をする対話篇.

著者が擁護したいという,恐らく多くの人々にとって直観的で自然な科学的実在論に対して,反実在論と観念論(社会構成主義)が異を唱える.その反論にどのように答え,科学的実在論の正当性を主張するかが本書のテーマだといってよい.

社会構成主義はこう主張する.科学の理論や法則なんて,所詮は,科学者集団の都合で勝手に取り決められた社会的構成物にすぎない.電子は実在するのではなく,電子があることにしときましょうと勝手に科学者が自分たちの都合で合意しただけのことだ.電子が実在するというなら,その証拠を見せてみろ.

反実在論はこう主張する.観察不可能な対象について,科学が真理を述べているという保証など全くない.いや,真理などわかるはずがない.科学の目的は,せいぜい目に見える現象を説明できる理論を構成することであって,この世界の真理を知るなんて大それたことを目的にすることなんて不可能なのだ.

えっ,マジでそんなこと主張するんですか?と言いたくなるが,「我思う故に我在り」というところまで撤退しないと気が済まないのが哲学者だから,こんな主張がでてくるのも仕方がないと言える.問題は,そんな主張を論理的に排除するのがかなり難しいということだ.そこで,「奇跡論法」とか「意味論的捉え方」とかが登場する.そのあたりの事情を平易に解説してくれているのが本書というわけだ.

言葉を厳密に定義し,正しく用いることがいかに重要であるかを再認識させられる.科学者でなくとも,理系であろうが文系であろうが,興味深く読めると思う.自分が科学哲学をやりたいかと言われれば,今のところ”No”ではあるが...

本書のもう1つの論点は,「帰納」という推論はどこまで信用してよいのかということだ.「ソクラテスの対話が説得力に欠けるのは,それが枚挙的帰納法だから?」に書いたように,ソクラテスの思考も帰納に基づいている.しかし,帰納は必ずしも正しいとは言えない.しかし,帰納がなければ科学は前進できない.では,どうすればよいのか.科学が抱える深い問題だ.

目次

科学哲学をはじめよう−理系と文系をつなぐ視点

  • 科学哲学って何? それは何のためにあるの?
  • まずは,科学の方法について考えてみよう
  • ヒュームの呪い−帰納と法則についての悩ましい問題
  • 科学的説明って何をすること?

「電子は実在する」って言うのがこんなにも難しいとは−科学的実在論をめぐる果てしなき戦い

  • 強敵登場!−反実在論と社会構成主義
  • 科学的実在論 vs. 反実在論

それでも科学は実在を捉えている−世界をまるごと理解するために

  • 理論の実在論と対象の実在論を区別しよう
  • そもそも,科学理論って何なのさ
  • 自然主義の方へ
10月 252009
 

子供ができてから,ミュージカルを観に行った記憶がないので,もうかれこれ7年以上は観ていないことになる.最後に観たのは,自己紹介に書いてあるように,ニューヨークのブロードウェイで観た「オペラ座の怪人」,「ミスサイゴン」,「シカゴ」のはずだ.2日間で立て続けに観た.いや,そうだとすると,9年間観ていないことになる.ずっと劇団四季の会員だが,かなりの会費がムダだったとも言える.

観に行かなかったのには,どうしても観に行きたいミュージカルがなかったこともある.一度観たミュージカルを再度観に行こうとはあまり思わないし,京都や大阪以外の場所へわざわざ観に行こうとも思わないからだ.もちろん,ブロードウェイは別だが...

そうは言うものの,「オペラ座の怪人」と「ミスサイゴン」は2度目だった.「オペラ座の怪人」は劇団四季の後にブロードウェイで観たのだが,圧倒的にブロードウェイで観た方が良かった.ブロードウェイで観て初めて,「オペラ座の怪人は凄いらしい」というのが本当だと納得した.「ミスサイゴン」は2回ともブロードウェイ.まだ大学院生だった頃,生まれて初めて観たミュージカルが,ブロードウェイの「ミスサイゴン」だった.その印象は強烈で,ミュージカルに魅了された.

ともかく,大変ご無沙汰していたのだが,大阪四季劇場でブロードウェイミュージカル「ウィキッド(WICKED)」を上演するというので,超久しぶりにチケットを予約した.

ウィキッド(WICKED)は,名作「オズの魔法使い」に登場する魔女たちの物語.緑色の肌と魔法の力を持って生まれた少女がなぜ「悪い魔女」と呼ばれるようになったのか.ドロシーに「家に帰りたければオズの魔法使いに会いなさい」と告げた善き魔女は何者なのか.そんなことが語られる.非常に興味深い.

さて,ウィキッド(WICKED)の劇団四季会員先行予約の日,戦闘開始となる朝10時少し前に,パソコンを机に置き,右手にマウス,左手に携帯電話を持って,スタンバイする.彼女は,携帯電話と自宅の電話だ.そして,10時.インターネットは完全にパンク状態で繋がらない.電話も全くダメ.ひたすら,リダイヤルを繰り返す.まさに馬鹿の一つ覚えだ.遂に電話が繋がったのは,40分ほどたってからだった.それでも,まずまず良い席が取れたので,良しとしよう.

以前,両親らがミュージカルを観てみたいというので,京都劇場の「オペラ座の怪人」を予約したときは,最前列の中央を取ることができた.最前列がベストかどうかは微妙だが,ともかく,これが過去一番良かったと思う.電話をかけ続けたという意味で壮絶だったのは,何のチケットだったかは忘れたけれども,確かまだ大阪四季劇場も京都劇場もなかった頃,3時間以上かけ続けたこともある.そのときのことを思えば,40分なんていうのは大したことはない.

ウィキッド(WICKED)を観に行くのはまだまだ先のことだが,楽しみだ.

10月 252009
 

ハワイ家族旅行から京都に帰ってきて約2週間.長男が「外でご飯を食べたい」というので,「何が食べたいの?」と尋ねると,「マクドナルド」との返事.

折角,ハワイに行って,チーズバーガー・ビーチウォーク(Cheese Burger Beachwalk)の看板メニューである「自慢の自家製ハワイのチーズバーガー(Cheeseburger With An Attitude)」とか,パイナップル・ルーム(The Pineapple Room)のケイキバーガー(North Shore Cattle Company Keiki Burger)とか,ノースショア(North Shore)まで出掛けてクワイナ(KUA’AINA)のチーズバーガーとか,本場の本当に美味しいハンバーガーを食べたというのに,それでもマクドナルドでいいのかと.実際,ハワイで初めて食べたチーズバーガー・ビーチウォークのチーズバーガーは,「このハンバーガー,すごく美味しい!」と長男も大絶賛していたというのに...

彼女と私はマクドナルドで何かを食べる気にはならなかったので,長男6歳と長女4歳だけマクドナルドでテイクアウトして,大人2人は自宅で簡単なご飯を食べることにする.子供たちが注文するのは,もちろん,ハッピーセット.今は,ドラゴンボールかフレッシュ・プリキュアのカードとシールがもらえる.長男はドラゴンボール,長女はフレッシュプリキュアだ.自宅に戻って袋を開けてみると,ちびまる子ちゃんの人形も2つ入っていた.結局,このおもちゃをもらうためにマクドナルドに行きたいと言うわけだ.完全にマクドナルドの策略にはまっている.それにしても,おもちゃに釣られて,別に美味しくもないし,身体にも良くないものを食べるというのは...

まあ,チーズバーガー・ビーチウォークのチーズバーガーやクワイナのチーズバーガーに比べれば,マクドナルドのチーズバーガーは1/7以下の値段なのだから,味を比較するのは筋違いか.ましてや,チーズバーガー・ビーチウォークの「神戸チーズバーガー(Kobe Cheeseburger)」に至っては,マクドナルドのチーズバーガーが15個くらい買えるのだから.

それでも,個人的には,せめて,「モスバーガーに行きたい!」と言って欲しいものだ.

神戸チーズバーガー(Kobe Cheeseburger)@ハワイ家族旅行
神戸チーズバーガー(Kobe Cheeseburger)@ハワイ家族旅行

神戸チーズバーガー(Kobe Cheeseburger)@ハワイ家族旅行
神戸チーズバーガー(Kobe Cheeseburger)@ハワイ家族旅行

10月 242009
 

パイドン―魂の不死について
プラトン (著),岩田靖夫 (訳),岩波書店,1998

パイドンが,エケクラテスに請われ,ソクラテスがその生涯の最後に何を語ったかを述べるという設定で書かれた対話篇.ソクラテスが処刑される当日の朝から日没までに,ソクラテスとその弟子たちが牢獄で交わした対話が記されている.その日の日没,ソクラテスは毒を飲んで死ぬが,弟子たちの苦悩や悲しみとは対照的に,ソクラテスはむしろ積極的に,喜んで,死を迎えている.なぜか.この問いに明確な回答を用意しようとするのが,ソクラテスを師と仰ぐプラトンの対話篇なのだろう.この「パイドン」は,特に,魂の不死・不滅を証明しようとした対話篇である.

まず,弟子たちの疑問に答えるべく,なぜ死ぬことが希望であるのかが検討される.この考察におけるポイントは,人間の感覚というのは信頼するに足らないものであり,純粋な思惟によってのみ人間は真理に近づくことができるという考えである.これを受け入れるなら,魂は肉体から離れることによって真理に近づく可能性が開かれることになる.

肉体と協同してなにかを考察しようと試みれば,その時には,魂は肉体によってすっかり欺かれてしまうのは,明らかだからだ.

思考がもっとも見事に働くときは,これらの諸感覚のどんなものも,聴覚も,視覚も,苦痛も,なんらかの快楽も魂を悩ますことがなく,魂が,肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり,可能な限り肉体と交わらず接触もせずに,真実在を希求するときである.

正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ.そして,死んでいることは,かれらにとっては,誰にもまして,少しも恐ろしくないのである.(中略)

もしもある人がまさに死のうとして怒り嘆くのを君が見るならば,それは,その人が哲学者(知恵を愛する者)ではなくて,なにか肉体を愛する者であったことの,充分な証拠となるのではないか.おそらく,この同じ人は金銭を愛する人でもあり,名誉を愛する人でもあるだろう.

さらに,ソクラテスと弟子たちとの対話は,魂は不死か,不滅かという問いに向かう.ソクラテスは,魂は不死・不滅であるという.

もしも生を受けたものがすべて死んでゆき,ひとたび死んだならば,死者はその状態に留まって再び生き返らないとするならば,最後には万物が死んで,生きているものはなにもない,ということになるのは大いなる必然ではないか.というのは,もしも生者が死者とは別のものから生じ,生者は死ぬとすれば,万物は消費し尽くされて死にいたることを,なにか防ぐ手段があるだろうか.(中略)

生き返るということも,生者が死者から生まれるということも,死者たちの魂が存在するということも,本当に有ることなのだ.

しかし,この問いはそれほど簡単ではない.魂の不死・不滅を証明するために,プラトンはイデア論を展開する.つまり,ソクラテスにイデアについて語らせる.この「パイドン」は,プラトンのイデア論が初めて登場する作品であるらしい.

では,われわれは次のことに同意するだろうね.だれかが何かを見て,自分が現に見ているこのものは存在するもののうちでなにか別のものになろうと望んでいるが,不足していて,かのもののようにはなれず,より劣ったものである,ということに気付く時,多分このことに気付いた者は,かのものを必ず予め見たことがあるのでなければならない.かのものとは,かれが現に見ているものがそれに比べれば似てはいるが,より劣っている,と言われているもののことだ.(中略)

思うに,生まれる以前に,われわれはその知識を得ていなければならない.

イデア論が述べられた後も,ケベスの厳しい反駁が続く.ケベスは言う.それでは魂の不死・不滅は証明されないと.その指摘は実に的確であり,弟子たちを意気消沈させるに十分だった.ソクラテスは弟子たちを鼓舞し,魂の不死・不滅を証明しようと試みる対話を続けていく.そして遂に,ケベスを含めて全員が,魂の不死・不滅が証明されたと確信するに至る.

もしも魂が不死であるならば,われわれが生と呼んでいるこの時間のためばかりではなく,未来永劫のために,魂の世話をしなければならないのである.そして,もしもわれわれが魂をないがしろにするならば,その危険が恐るべきものであることに,いまや思いいたるであろう.

われわれは自分自身の魂について上機嫌で安心していなければならない.いやしくも,その生涯において,肉体に関わるさまざまな快楽やそれの装飾品を自分自身にとっては関わりのないものであり,善よりは害を為すものと考えて,これに訣別した者であるからには.そして,学習に関わる快楽に熱中し,魂を異質の飾りによってではなく,魂自身の飾りによって,すなわち,節制,正義,勇気,自由,真理によって飾り,このようにして,運命が呼ぶときにはいつでも旅立つつもりで,ハデスへの旅を待っている者であるかぎりは.

魂が不死・不滅であるならば,肉体と共に滅びることがないのであれば,この対話の最初に明らかにされたように,魂は肉体から離れることによって真理に近づく可能性が開かれる.これは,ソクラテスにとって福音である.生涯をかけて求めてきた真理に近づけるのだから.また,ハデスにおいて,かつて生きていた善い人たちと出会えるのだから.

こうして,死への希望を抱いたまま,全く死を恐れることなく,ソクラテスは毒杯を仰ぐ.「パイドン」は,ソクラテスが息を引き取るところで終わる.

これが,エケクラテス,われわれの友人の最期でした.われわれの知りえたかぎりでの当代の人々のうちで,いわば,もっとも優れた人の,そして,特に知恵と正義においてもっとも卓越した人の,最期でした.

ソクラテスの対話が説得力に欠けるのは,それが枚挙的帰納法だから?」にも書いたが,確かに,ソクラテスの推論は常に正しいとは言えない.しかし,私には,正しいか正しくないかが重要なのだとは思えない.何らかの考察を経た結果として,その人が善く生きることができるかどうかが重要なのだと思う.そういう観点では,ソクラテスは非常に善く生きたのであり,その弟子たちも善く生きることに納得したのであり,実に素晴らしいと思う.逆に,論理的には正しい可能性がある(偽であると証明はされていない)というだけのことで,懐疑論や観念論に留まり,善く生きようとしないようであれば,それは褒められた生き方ではないだろう.

ソクラテスの弁明をより深く理解するという意味においても,読み応えのある本だ.

目次

  • 序曲
  • 死に対するソクラテスの態度
  • 霊魂不滅の証明
  • 神話-死後の裁きとあの世の物語
  • 終曲-ソクラテスの死
10月 232009
 

ここ数ヶ月,古典を読むことがお気に入りになっている.ダンテの「神曲」ゲーテの「ファウスト」を経て,遂にプラトンの「ソクラテスの弁明・クリトン」「ゴルギアス」などにまで遡ってきた.

プラトンの対話篇を読んでいて,ソクラテスが対話相手を説得している様子に疑問を持った.クリトン,ゴルギアス,ポロス,カルリクレス,ケベス,シミアス,パイドンら,ソクラテスの弟子もそうでない人たちもみんな,感情的にはそうではなくとも,理屈上はソクラテスに説得されてしまうのだが,ソクラテスが語る説明を吟味すると,「いやいや,それは必ずしも真とは言えませんよね」と突っ込みたくなる箇所が少なくない.

なぜ突っ込めるのかというと,ソクラテスが,いや,正確にはプラトンが,魂や死について何かを証明しようとするとき,身近で具体的な例をいくつも挙げて,そのことへの同意を取り付けた上で,「だから,魂や死についても○○だね」という説得の仕方をしているからだ.「何か反論できるかね?」と尋ねられても反論する根拠がないため,「確かに,そのようにみえる」となり,ソクラテスの術中にはまるわけだが,この説得は必ずしも正しくない.数多くの例を列挙して,それを根拠に,何か他のことについての結論を得ようとする推論の方法は,枚挙的帰納法と呼ばれるものだが,これは必ずしも正しい推論にはならない.

そういう意味で,ソクラテスやプラトンの哲学には詰めが甘いところがあるのだろう.しかし,そうは言うものの,二千数百年も前に,人の魂や死,さらにいかに生きるべきかということについて,これだけの洞察を加えているというのは驚くべきことだ.

このような対話をふまえて,ソクラテスの弟子であるプラトンがアカデメイア(学校)を開き,そこからアリストテレスのような人物が出て,論理学が発展したのも頷ける.確かに,必要だったわけだ.

10月 232009
 

2009年10月19日(月)-21日(水)に,九州大学医学部百年講堂で開催された第12回情報論的学習理論ワークショップ(IBIS 2009)に参加した.私は学習理論や機械学習の専門家ではなく,これまでIBISに参加したことはなかったが,統計手法の産業応用(プロセスデータ解析)について紹介して欲しいという依頼があり,講演を引き受けた.

情報論的学習理論ワークショップ(IBIS)は,招待講演からなる企画セッションと,一般発表からなるポスターセッションで構成されている.つまり,招待講演以外はすべてポスター発表ということになる.今回参加して印象的だったのは,ポスター発表が凄く盛り上がっているということだ.ポスターセッションは1日目午後と2日目午後の計2回あり,それぞれ3時間が確保されていたが,会場は終了時刻まで参加者で溢れ,熱い議論が行われていた.これだけ盛り上がっているポスターセッションというのは,他の学会ではほとんど見掛けたことがない.

参加者は200名強.学生や,大学や企業の若手研究者が多いようだ.また,情報論的学習理論ワークショップ(IBIS)の運営そのものも,中堅・若手の研究者が担っており,この分野を盛り上げていくぞという意気込みが随所に感じられる.歴史だけはあり,組織の存続が組織の目的ですか?というような組織とは異なる.参加者の所属がMicrosoftやGoogleであったりするのも,門外漢の私にとっては新鮮だった.

私から見れば異分野なので,文化の違いも強く感じた.例えば,研究成果として,学術雑誌に論文が掲載されることを重視する我々と異なり,この学習理論の分野では,権威ある国際会議で発表することが非常に重要であるようだ.実際,ポスターのスポットライト(ショートトーク)では,「これはNIPSに採択された内容です!」と,国際会議で採択された成果であることを売り文句にしている発表が少なくなかった.また,確率や統計に関連する研究の内容という点では,皆さん,凄く「確率分布」を大切にしているという印象だ.とにかく,「確率分布」を知らないと,決めないと,使わないと気が済まないみたいな.様々な産業応用を手掛け,泥臭いことばかりしている私が,「確率分布」をあまり意識することなく問題解決を目指すことが多いのとは対照的だ.

今回の講演では,プロセスデータ解析の産業応用事例をダラダラと紹介したところで,機械学習屋さんたちの役に立つともあまり思えなかったため,産業界が抱えている問題,そしてもちろんデータ解析が役に立つであろう問題に焦点を合わせ,「これが問題です!」と主張することを試みた.産業界と言っても,私が対象としているのは石油化学,鉄鋼,半導体,製薬などの製造業であり,そこで取り組むべき課題の1つは「プロセス特性の変化に合わせてモデルを更新するにはどうすればよいか?」ということだ.情報論的学習理論ワークショップ(IBIS)では,応用研究も数多く発表されていたが,音声認識や画像処理に関するようなものが多く,生産システム・製造設備を対象にしたものは皆無だった.そこで,機械学習屋さんに,彼等にとって未知の世界に目を向けてもらえるようになれば,講演をした意味があったことになるだろうと考えたわけだ.

幸いにも,講演後,製造設備の特性変化への対応に関心を持って取り組まれている方々と意見交換することができた.機械学習の成果は間違いなく産業界の問題解決に役立つので,この接点を大切にして,今後に活かしていきたい.

「ちゃんと勉強しよう!」と思えた学会参加だった.

10月 202009
 

ゴルギアス
プラトン (著),加来彰俊 (訳),岩波書店,1967

人はどう生きるべきなのか,どのような人が幸せで,どのような人が不幸せなのか.これらの重要な問いに明確な回答を与えるのが,この対話編である.

ソクラテスに対して,政治家であるカルリクレスは,優れた者の生き方を次のようなものであると述べる.

つまり,正しく生きようとする者は,自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで,欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ.そして,できるだけ大きくなっているそれらの欲望に,勇気と思慮とをもって,充分に奉仕できるものとならなければならない.そうして,欲望の求めるものがあれば,いつでも,何をもってでも,これの充足をはかるべきである,ということなのだ.しかしながら,このようなことは,世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う.だから,彼ら大衆は,それをひけ目に感じて,そうすることのできる人たちを非難するのだが,それはそうすることによって,自分たちの無能を蔽い隠そうとするわけである.(中略)そしてまた,自分たちは快楽に満足を与えることができないものだから,それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども,それも要するに,自分たちに意気地がないからである.

けれども,始めから王子の身分に生まれた人たちだとか,あるいは,自分みずからの持って生まれた素質によって,独裁者であれ,権力者であれ,何らかの支配的な地位を手に入れるだけの力を具えた人たちだったとしたら,およそそのような人たちにとっては,節制や正義の徳よりも,何がほんとうのところ,もっと醜くて,もっと害になるものがありうるだろうか.

さて,この意見に賛成できるだろうか.それとも賛成できないだろうか.もし賛成できないなら,「そんなの,おかしい!」と言ってもどうにもならない.なぜなら,カルリクレスはそうだと主張しているのだから.カルリクレスに反駁して,そうではないということを,彼に納得させなければならない.そして,本当はどうであるのかということを,明らかにしなければならない.

この手続きこそ,ソクラテスがその生涯を費やした対話である.弁論術にも長けたカルリクレスとの対話を通して,ソクラテスは遂に以下の結論に達する.

幸福になりたいと願う者は,節制の徳を追求して,それを修めるべきであり,放埒のほうは,われわれ一人一人の脚の力が許すかぎり,これから逃れ避けなければならない.

カルリクレスは納得しないけれども,ソクラテスの誘導尋問(?)に沿って彼が認めた事柄を積み上げていくと,そういう結論が導かれると,ソクラテスは主張するのである.

本書「ゴルギアス」は,ソクラテスと3人の対話をプラトンがまとめたものである.最初は,高名な弁論家であるゴルギアスとの対話であり,弁論術とは一体何であるのかが問われている.次は,ゴルギアスに師事する若いポロスとの対話であり,誰が幸せで誰が不幸せなのかが明らかにされる.そして最後が,政治家カルリクレスとの対話であり,上述のように,人生をいかに生きるべきかが論じられている.

プラトンの対話編に登場する人物は実在の人物であるが,対話は実際に行われたものというわけではない.本書「ゴルギアス」の場合,ゴルギアスは当代の弁論家を代表する人物として,ポロスは権力志向の強い青年を代表する人物として,カルリクレスは政治家や権力者を代表する人物として,プラトンによって描かれている.もちろん,ソクラテスの言葉も,プラトンがソクラテスに語らせたものである.

実際,本書「ゴルギアス」には,数カ所,「仮に自分が死刑になることがあったとしても」とソクラテスが話すところがある.予言のようであり,これによって,ソクラテスの生き方・死に方が正しかったことを,プラトンは示そうとしたのだろう.

高名な弁論家であるゴルギアスとの対話

ゴルギアスとの対話において,ソクラテスは弁論術とは一体何であるのかを明らかにしようとしている.ソクラテスは,ゴルギアスの矛盾を指摘し,弁論術は技術ではなく経験であり,しかも迎合の術であると断じている.その上で,ソクラテスは,弁論術と弁論家について次のように述べている.

(迎合の術は)最善ということにはまるっきり考慮を払わずに,そのときどきの一番快いことを餌にして,無知な人びとを釣り,これをすっかり欺きながら,自分こそ一番値打ちのあるものだと思わせているのです.

(弁論家たちは)下らない者としてどころか,まるっきり考えにも入っていないように,ぼくには思われるね.

ゴルギアスに師事する若いポロスとの対話

ポロスとの対話においては,誰が幸せで誰が不幸せなのかが論じられている.ポロスは,不正に手に入れたものであろうが,その行使が不正であろうが,とにかく権力を手にして自分の思う通りにすることが自分の幸せであると考えている.そして,弁論家には力がないというソクラテスに対して,ポロスは指摘する.

彼ら(弁論家)は,ちょうど独裁者たちがするように,誰であろうと,死刑にしたいと思う人を死刑にするし,また,これと思う人の財産を没収したり,国家から追放したりするのではないですか.

そして,そういう力を持つことを羨ましく思わないのかとソクラテスに問う.なぜ羨ましくないのかということについて,ソクラテスとポロスの対話は続き,誰が幸せで誰が不幸せなのかについての結論へと向かう.

ソクラテス:それなら果たして,不正であることや,不正を行うことは,最大の悪であるという結論になるのかね.

ポロス:とにかく,そうなるようです.

ソクラテス:それからまた,裁きを受けるとういことは,その悪からの解放である,ということが明らかになったのか.

ポロス:おそらく,そうでしょう.

ソクラテス:しかしそれに反して,裁きを受けないのは,その悪をとどめることなのか.

ポロス:そうです.

ソクラテス:してみると,不正を行うのは,ただそれだけのことなら,もろもろの悪のなかでも,大きさの点で第二番目のものであるが,しかし,不正を行いながら裁きを受けないのは,本来,ありとあらゆる悪の中でも最大の,そして第一番目のものだということになる.

ポロス:そうらしいですね.

こうしてソクラテスはポロスに,不正を行う人のほうが不正を受ける人よりも不幸であることを認めさせる.このことから,さらに,弁論術の効用についての結論が導かれる.

ソクラテス:してみると,不正を弁護するという目的のためには,その不正を行ったのが自分自身であろうと,両親であろうと,仲間たちであろうと,子供たちであろうと,あるいは,祖国が不正を行っている場合であろうと,弁論術は,われわれにとって何の役にも立たないということになるのだよ,ポロス.

人はどう生きるべきなのか,というテーマを真正面から取り上げた対話編として,読み応えがあった.

目次

  • ゴルギアス
  • 訳者注
  • 解説
10月 182009
 

ソクラテスの弁明・クリトン
プラトン (著),三嶋輝夫 (訳),田中享英 (訳),講談社,1998

プラトン「ソクラテスの弁明」

国家の信じない神々を導入し,また青少年を堕落させたという罪で告発されたソクラテスが,その裁判で行った弁明を,プラトンがまとめたもの.この裁判において,投票が2度行われた.ソクラテスの最初の弁明の後に行われた投票で,有罪が確定し,続く弁明の後に行われた投票で,死刑が確定した.最後に,有罪に投票した人達と無罪に投票した人達とにソクラテスが語りかけ,ソクラテスの弁明は終わる.

この弁明は衝撃的だ.ニーチェの「この人を見よ」にも衝撃を受けたが,そんな感覚だ.自分は神によって最も知恵のある者と認められたのだと告白しているのだから.この弁明においてソクラテスは,一切の言い訳をしていない.そればかりか,自分は裁判にかけられるような悪いことをしていないだけでなく,賞賛されるべき良いことをしているのだと言い切っている.裁判官の心証は悪かったことだろう.そのため,死刑になったのだろう.ソクラテスは死ぬことを全く恐れず,善く生きることのみを貫いた.それだからこそ,その名を人類史に残すことになった.

プラトンの「ソクラテスの弁明」において,ソクラテスは次のように語っている.

私は自分が知らないことについては,それを知っていると思ってもいないという点で,知恵があるように思われたのです.

死を恐れることは,実は知者ではないのに知者であると思いこむこと以外の何ものでもないからです.

知らないことを知っていると思いこんでいることが,どうして無知,それも最も恥ずべき無知でないことがありましょう.

有名な「無知の知」だ.では,ソクラテスはその生涯において何を為したのか.

だれか知恵があると私が思う者があれば,神に従って探し出しては問いただしているわけなのです.そして知恵があると私に見えない時にはいつでも,神のお手伝いをして,その人が実は知者ではないということを明らかにしているのです.

皆さんの一人一人に対して,自分が最も優れた思慮に満ちた人間となるように自分そのもののあり方に配慮するよりも前に,自分に付随するような利益を顧慮することがないように,また国家そのもののあり方に関心を寄せるよりも先に現にある国家の利益を図ることのないように,さらにはそれ以外のことに対してもそれと同様の仕方で配慮すべきであると説得することに私は務めてきたのです.

この後,ソクラテスの死刑が評決される.

プラトン「クリトン」

裁判でソクラテスに死刑の判決が言い渡された後,獄中のソクラテスに友人のクリトンが会いに来る.ソクラテスを脱獄させることに同意するよう,ソクラテスを説得するためだ.今日明日中にも死刑が執行されるかもしれないという切迫した状況において,クリトンが最後の説得を試みる.ソクラテスは次のように答える.

ぼくたちはよく考察してみなければならない.そういった行動をなすべきか,それともなすべきではないかということを.というのも,これは今に始まったことではなくていつもそうだったことだが,ぼくという人間は,ぼくの中にある他の何ものにも従わず,ただ論理的に考えてみていちばんよいと思われる言論にのみ従う,そういう人間なのだ.だから,前にぼくが言っていた言論を,今になって,こういう運命がやってきたからといって放棄することは,ぼくにはできない.

こうして,ソクラテスとクリトンとの対話,問答が始まる.人の意見には尊重すべきものとそうすべきではないものとがある.この言論は正しいか.これが最初の問いだ.

しばらくの対話によって,大衆の意見ではなく,真理が大切であることが確認された後,ソクラテスは問いかける.

いちばん大事にしなければならないのは生きることではなくて,よく生きることだ,という言論はどうだろう.これは依然として動かないだろうか,それともどうだろうか.

この後,ソクラテスが他国へ逃れるという行為を,擬人化された国家や国法がどのように見なすかという議論になる.最終的に,ソクラテスに対して国家と国法はこう告げる.

とにかく,お前が私たちの説得よりもクリトンの説得に従い,かれの言うとおりのことをするということは,あってはならない.

これがソクラテスの結論だ.この結論に対して打ち勝てるかと尋ねられたクリトンは答える.

いや,ソクラテス,言うことはない.

こうして脱獄を是としなかったソクラテスは死ぬことになる.明らかに不当な判決であったとしても,国法を破り,国家に背くことを許さなかった.正義を貫くことにおいて,ソクラテスには例外はなかった.凄い生き方だ.

「ソクラテスの弁明」と「クリトン」が対として扱われる理由がよくわかる.この2つを読むことで,ソクラテスの生き様がより明らかになる.

クセノポン「ソクラテスの弁明」

ソクラテスの弟子とされるクセノポンが,ソクラテスが弁明ならびに人生の終わり方についてどのように思索したかを書き残したもので,プラトンの「ソクラテスの弁明」とは異なる観点からソクラテスを知ることができる.ソクラテスの言葉を引用しておこう.

神様にもぼくがもう生を終えたほうがよいと思われるということを,はたしてきみはびっくりするようなことだと思うのかね.今にいたるまで,ぼくはだれに対しても,その人がぼくよりも善く生きたということは認めたことがないということをきみは知らないのかね.というのもまさにこのこと,つまり自分が全人生にわたって敬虔に正しく生きてきたことを自覚しているということこそ,いちばん心楽しいことだからだ.

ソクラテスを告発したメレトスが,若者たちを親よりもあなたに従うようにさせたとしてソクラテスを非難すると,健康については人々は両親よりも医者に従うことなどを指摘した上で,ソクラテスはこう答えた.

それでは,つぎのこともまた驚くべきことだとはきみには思われないかね.つまり,これ以外の行いに関しては,最も有能な者は平等な分け前にあずかるだけでなく,さらに顕彰されもするというのに,ぼくはと言えば,人間にとって最大の善,すなわち教育に関して最も優れているとある人々によって評価されているという,まさにその事実のゆえに,きみによって死刑を求められているとはね.

裁判が終わった後,つまり死刑の判決が言い渡された後,退場する前にソクラテスは次のように言った.

また私にはわかっているのですが,きたるべき時代と過ぎ去った時代の両方によって,まさに私のためにつぎのような証言がなされることでしょう.すなわち,私は一度として人に不正を加えたこともなければ,前より邪悪にしたこともなく,私と対話を交わす者たちに対して,私が与えることのできる有益なことをただで教えることによって恩恵を与え続けたという証言が.

最後に,クセノポンはこう記している.

もし徳を得ようと務めている人々のうちに,だれかソクラテスよりも有益な人物と交際したことがある人がいるとするならば,私はその人物を最も幸福な人と呼ぶにふさわしい人と見なすのである.

正真正銘,ソクラテスは善く生きたのだろう.プラトンの「ソクラテスの弁明」と「クリトン」,そしてクセノポンの「ソクラテスの弁明」.古典中の古典であり,数千年にわたって読み継がれているだけのことはある.

目次

  • ソクラテスの弁明
  • クリトン
  • 関連資料
  • クセノポン「ソクラテスの弁明」
10月 182009
 

8泊10日のハワイ・オアフ島家族旅行も終わり,京都へ戻ってきた.このブログにも40件ほど記事を書いたが,ここで総括をしておこう.

私自身,初めてのハワイ旅行だったが,日本人が大挙してハワイに行きたがる理由は理解できた.第一に,アメリカでありながら,英語が全くできなくても問題ないということ.ワイキキなど観光地では,日本語が第二公用語になっている.第二に,海外らしい南国リゾート気分を満喫できるということ.青い空と青い海だけでなく,美しい渓谷なども含めて,豊かな自然を満喫できる.つまり,超気軽に日本語で海外旅行気分を楽しめるのがハワイというわけだ.天候にも恵まれ,リピーターが多いのにも頷ける.

ハワイ・オアフ島に滞在した9日間に,様々な場所に行き,様々なことをしたが,特に何が印象に残っているか.長男6歳と長女4歳を連れた家族旅行だったので,子供視点でまとめてみよう.ハワイ滞在中および帰国後に,子供たちが嬉々として話したことをまとめると,次のようになる.

「パパ〜,ハワイに住もう.日本もいいけど,ハワイがいいなぁ.だって,海にすぐいけるもん.」

帰国後の長男の第一声はこれだ.そこまで気に入ってくれたなら,行った甲斐があるというものだ.

特に印象に残ったのは,屋根のない車に乗ったことらしい.私も含めてオープンカーは初体験で,赤色のマスタング・コンバーチブルでノースショアにドライブしたのは強烈に印象に残ったようだ.子供2人が口を揃えて,「屋根のない車,面白かったね〜」という.

そして,今回のハワイ家族旅行で予想以上の大当たりだったのが,ハワイレーシングツアーズが催行している「ノース・ショア・ドリームシャトル – B級グルメ&ショッピングツアー」だ.このオプショナルツアーに参加したのは大正解だった.予想外の展開で,家族貸し切りツアーになったこともあり,我が儘を色々と聞いてもらい,ノースショアを楽しみ尽くした.子供たちにとっては,魚がいっぱいいるビーチで遊べたこと,砂浜に上がってくる野生のウミガメを見れたことが印象的だったようだ.「パパ〜,○○くんがいいビーチ選んだでしょ.3番のビーチ.」と長男は我が物顔だ.長女も,「運転手さん,何でも知ってて,凄かったね〜.ウミガメのいるところも.花火のところも.」と感心することしきりだ.もちろん,シュリンプなどB級グルメAOKIとMATSUMOTOのシェイブアイスも忘れてはならない.

続いては,やはり,シーライフパークのドルフィン・エンカウンターだろう.イルカにキスしたり,キスされたり,触ったりするのは,もちろん初体験だ.背中やヒレは硬いが,腹は柔らかいなど,生の感触は刺激的だったようだ.加えて,シーライフパークでは,ウミガメの赤ちゃんにも触った.

これらのイベントももちろん良かったわけだが,ワイキキビーチでの水遊び・砂遊びや,コンドミニアム「アストン・パシフィック・モナーク」屋上のプールとジャグジーも凄く楽しんだ.正直,ショッピングなんて子供たちは何の興味もないわけだから,子連れ旅行でハワイに行くなら,どれだけビーチやプールでのんびりできる時間を作れるかが勝負だろう.そういう意味では,8泊10日というゆとりのある日程でハワイに来たのは大正解だった.そのおかげで,ワイメア渓谷のハイキングなど,忙しい日本人は行かないような場所もゆっくりと楽しむことができた.

10日間の休暇を取るなんて,職に就いて以来初めてのことだったが,本当に良い休暇を過ごすことができた.ハッピーな気分,感謝の気持ちでいっぱいだ.

でも,我が家の場合,もう一度ハワイにとはならないだろう.私は昔からエジプトを狙っているし,彼女はフランスやスイスに行きたいし,長男は次はカナダに行きたいと主張している.次の海外旅行がいつになるかはわからないが,行き先をめぐってはバトルになるだろう.