10月 242009
 

パイドン―魂の不死について
プラトン (著),岩田靖夫 (訳),岩波書店,1998

パイドンが,エケクラテスに請われ,ソクラテスがその生涯の最後に何を語ったかを述べるという設定で書かれた対話篇.ソクラテスが処刑される当日の朝から日没までに,ソクラテスとその弟子たちが牢獄で交わした対話が記されている.その日の日没,ソクラテスは毒を飲んで死ぬが,弟子たちの苦悩や悲しみとは対照的に,ソクラテスはむしろ積極的に,喜んで,死を迎えている.なぜか.この問いに明確な回答を用意しようとするのが,ソクラテスを師と仰ぐプラトンの対話篇なのだろう.この「パイドン」は,特に,魂の不死・不滅を証明しようとした対話篇である.

まず,弟子たちの疑問に答えるべく,なぜ死ぬことが希望であるのかが検討される.この考察におけるポイントは,人間の感覚というのは信頼するに足らないものであり,純粋な思惟によってのみ人間は真理に近づくことができるという考えである.これを受け入れるなら,魂は肉体から離れることによって真理に近づく可能性が開かれることになる.

肉体と協同してなにかを考察しようと試みれば,その時には,魂は肉体によってすっかり欺かれてしまうのは,明らかだからだ.

思考がもっとも見事に働くときは,これらの諸感覚のどんなものも,聴覚も,視覚も,苦痛も,なんらかの快楽も魂を悩ますことがなく,魂が,肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり,可能な限り肉体と交わらず接触もせずに,真実在を希求するときである.

正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ.そして,死んでいることは,かれらにとっては,誰にもまして,少しも恐ろしくないのである.(中略)

もしもある人がまさに死のうとして怒り嘆くのを君が見るならば,それは,その人が哲学者(知恵を愛する者)ではなくて,なにか肉体を愛する者であったことの,充分な証拠となるのではないか.おそらく,この同じ人は金銭を愛する人でもあり,名誉を愛する人でもあるだろう.

さらに,ソクラテスと弟子たちとの対話は,魂は不死か,不滅かという問いに向かう.ソクラテスは,魂は不死・不滅であるという.

もしも生を受けたものがすべて死んでゆき,ひとたび死んだならば,死者はその状態に留まって再び生き返らないとするならば,最後には万物が死んで,生きているものはなにもない,ということになるのは大いなる必然ではないか.というのは,もしも生者が死者とは別のものから生じ,生者は死ぬとすれば,万物は消費し尽くされて死にいたることを,なにか防ぐ手段があるだろうか.(中略)

生き返るということも,生者が死者から生まれるということも,死者たちの魂が存在するということも,本当に有ることなのだ.

しかし,この問いはそれほど簡単ではない.魂の不死・不滅を証明するために,プラトンはイデア論を展開する.つまり,ソクラテスにイデアについて語らせる.この「パイドン」は,プラトンのイデア論が初めて登場する作品であるらしい.

では,われわれは次のことに同意するだろうね.だれかが何かを見て,自分が現に見ているこのものは存在するもののうちでなにか別のものになろうと望んでいるが,不足していて,かのもののようにはなれず,より劣ったものである,ということに気付く時,多分このことに気付いた者は,かのものを必ず予め見たことがあるのでなければならない.かのものとは,かれが現に見ているものがそれに比べれば似てはいるが,より劣っている,と言われているもののことだ.(中略)

思うに,生まれる以前に,われわれはその知識を得ていなければならない.

イデア論が述べられた後も,ケベスの厳しい反駁が続く.ケベスは言う.それでは魂の不死・不滅は証明されないと.その指摘は実に的確であり,弟子たちを意気消沈させるに十分だった.ソクラテスは弟子たちを鼓舞し,魂の不死・不滅を証明しようと試みる対話を続けていく.そして遂に,ケベスを含めて全員が,魂の不死・不滅が証明されたと確信するに至る.

もしも魂が不死であるならば,われわれが生と呼んでいるこの時間のためばかりではなく,未来永劫のために,魂の世話をしなければならないのである.そして,もしもわれわれが魂をないがしろにするならば,その危険が恐るべきものであることに,いまや思いいたるであろう.

われわれは自分自身の魂について上機嫌で安心していなければならない.いやしくも,その生涯において,肉体に関わるさまざまな快楽やそれの装飾品を自分自身にとっては関わりのないものであり,善よりは害を為すものと考えて,これに訣別した者であるからには.そして,学習に関わる快楽に熱中し,魂を異質の飾りによってではなく,魂自身の飾りによって,すなわち,節制,正義,勇気,自由,真理によって飾り,このようにして,運命が呼ぶときにはいつでも旅立つつもりで,ハデスへの旅を待っている者であるかぎりは.

魂が不死・不滅であるならば,肉体と共に滅びることがないのであれば,この対話の最初に明らかにされたように,魂は肉体から離れることによって真理に近づく可能性が開かれる.これは,ソクラテスにとって福音である.生涯をかけて求めてきた真理に近づけるのだから.また,ハデスにおいて,かつて生きていた善い人たちと出会えるのだから.

こうして,死への希望を抱いたまま,全く死を恐れることなく,ソクラテスは毒杯を仰ぐ.「パイドン」は,ソクラテスが息を引き取るところで終わる.

これが,エケクラテス,われわれの友人の最期でした.われわれの知りえたかぎりでの当代の人々のうちで,いわば,もっとも優れた人の,そして,特に知恵と正義においてもっとも卓越した人の,最期でした.

ソクラテスの対話が説得力に欠けるのは,それが枚挙的帰納法だから?」にも書いたが,確かに,ソクラテスの推論は常に正しいとは言えない.しかし,私には,正しいか正しくないかが重要なのだとは思えない.何らかの考察を経た結果として,その人が善く生きることができるかどうかが重要なのだと思う.そういう観点では,ソクラテスは非常に善く生きたのであり,その弟子たちも善く生きることに納得したのであり,実に素晴らしいと思う.逆に,論理的には正しい可能性がある(偽であると証明はされていない)というだけのことで,懐疑論や観念論に留まり,善く生きようとしないようであれば,それは褒められた生き方ではないだろう.

ソクラテスの弁明をより深く理解するという意味においても,読み応えのある本だ.

目次

  • 序曲
  • 死に対するソクラテスの態度
  • 霊魂不滅の証明
  • 神話-死後の裁きとあの世の物語
  • 終曲-ソクラテスの死