11月 072009
 

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村美苗,筑摩書房,2008

非常に興味深かった.大いに刺激を受けた.「面白いから『日本語が亡びるとき』を読んでみたら」と,複数の知人から勧められていたのだが,全くその通りだった.

本書を一言で形容するなら,「憂国の書」である.日本を代表する「憂国の書」といえば,誰でも思い付くのは「学問のすすめ」(福沢諭吉)だろうか.本書でも,代表的日本人として,激動期に生き,猛勉強した人物として,福沢諭吉が登場する.心に響くという意味では,「留魂録」(吉田松陰)も外せないだろう.福沢諭吉や吉田松陰がまさに国家の存亡を問題としていたのに対して,本書のテーマは,タイトルの通り,日本語の存亡である.そしてそれはまた,日本近代文学の存亡でもある.そういう意味では,憂日本語の書,憂日本近代文学の書というのが,より正確だろう.

本書「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」の底流にあるのは,著者の日本近代文学への愛である.それは,次のような宣言にも読み取れる.

日本文学の善し悪しがほんとうにわかるのは,日本語の<読まれるべき言葉>を読んできた人間だけに許された特権である.

この「読まれるべき言葉」とは何か.本書では,現地語,国語,普遍語といった用語が使い分けられている.

学問とは,なるべく多くの人に向かって,自分が書いた言葉が果たして<読まれるべき言葉>であるかどうかを問い,そうすることによって,人類の叡智を蓄積していくものである.学問とは<読まれるべき言葉>の連鎖にほかならず,その本質において<普遍語>でなされる必然がある.

<国語>とは,もとは<現地語>でしかなかった言葉が,<普遍語>からの翻訳を通じて,<普遍語>と同じレベルで,美的にだけでなく,知的にも,倫理的にも,最高のものを目指す重荷を負うようになった言葉である.しかしながら,<国語>はそれ以上の言葉でもある.なぜなら,<国語>は,<普遍語>と同じように機能しながらも,<普遍語>とちがって,<現地語>のもつ長所,すなわち<母語>のもつ長所を,徹頭徹尾,生かし切ることができる言葉だからである.

もちろん,現在の最も影響力のある普遍語は英語である.昔は,西洋ではギリシア語やラテン語が普遍語であり,東洋では漢語が普遍語であった.

インターネットという技術の登場によって,英語はその<普遍語>としての地位をより不動のものにしただけでない.英語はその<普遍語>としての地位をほぼ永続的に保てる運命を手にしたのである.人類は,今,英語の世紀に入ったというだけではなく,これからもずっと英語の世紀のなかに生き続ける.

その英語の世紀において,日本人は英語とどう付き合うべきなのか.翻って,日本人は日本語とどう付き合うべきなのか.これらの問いかけに著者なりの回答を示すのが,本書「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」の主題である.

日本政府の,あるいは文部科学省の回答は周知の通りだ.小学校での国語教育を等閑にしてでも英語教育を強化しようという動きから明らかなように,「日本人はもっと英語ができるようになるべき」というものだ.多くの人々にとって英語の重要性は痛いほど身に染みているだけに,この方針に異を唱えるのは難しい.確かに,英語ができるようになるのは良いことだ.少なくとも,それだけを見れば.しかし問題は,それで本当に英語ができるようになるのかということ,そして,そのために何が犠牲にされるのかということだ.

日本政府は,英語の世紀に入ったというのに,真の危機感をもつこともなく,相変わらず無策のままである.そして,無策のままであるゆえに,いつまでたっても日本には優れて英語ができる人材が充分に育っていない.

日本で「国民総バイリンガル社会」を追い求めれば,日本の言語状況はより悪くなる.(中略)日本が必要とする,優れて英語ができる人材など,充分な数,絶対に育たない.

日本が必要としているのは,「外国人に道を訊かれて英語で答えられる」人材などではない.

日本が必要としているのは,専門家相手の英語の読み書きでこと足りる,学者でさえもない.日本が必要としているのは,世界に向かって,一人の日本人として,英語で意味のある発言ができる人材である.

私たち日本人が日本語が「滅びる」運命を避けたいとすれば,(中略)学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定し切らなくてはならない.そして,その代わりに,学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない.英語の世紀に入ったがゆえに,その当然の前提を,今までとはちがった決意とともに,全面的に打ち立てねばならない.

問題にすべきは,英語の世紀に入った今,日本の学校教育が何を理念として掲げるべきかについての,文部科学省の見識のなさである.小学校から英語教育を導入することを決定した背後にある前提は,例の,学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提である.文部科学省が,日本の教育理念−そして,日本という国の理念としてこのような前提をまっこうから否定しなかったらどうなるか.

このように,アメリカで20年以上を過ごし,世界トップクラスの大学と大学院で学び,それでも日本近代文学を愛する著者は,日本の現状に怒る.感情的に過ぎるとの印象も受けるだろうが,そもそも憂国の士は感情的になるものだ.「学問のすすめ」を読んだなら,福沢諭吉がどれほど口汚く愚民を罵っているかを知っているだろう.吉田松陰の書簡などを読んだなら,気が触れてしまったと松陰が維新の志士たちから一時見放されてしまったことも頷けるだろう.

続いて,言葉と文化について論じられる.

文化とは,<読まれるべき言葉>を継承することでしかない.(中略)<読まれるべき言葉>を読みつぐのを教えないことが,究極的には,文化の否定というイデオロギーにつながるのである.

戦火を免れた京都も,日本人は自ら壊し続け,西洋人が腰を上げて保存せねばならない恥ずかしい都となってしまった.

「日本語と日本文化は絶対,大丈夫」と河合隼雄が保証しても,都市の風景も文化の一部である.日本文化は「絶対,大丈夫」ではなかったのである.
日本人は信じないだろうが,日本語も同様である.

日本語も,「絶対,大丈夫」ではない.

本筋とは関係ないのだが,「戦火を免れた京都も,日本人は自ら壊し続け,,,恥ずかしい都となってしまった」という文章には思い切り頷いてしまった.京都に生まれ,今も京都で暮らしている私の目にも,見るも無惨な京都の街並みは恥ずかしいものに見える.例えば,フィレンツェやパリの街並みと比べてみてどうか.残念ながら,その落差は著しい.

さて,それでは,日本語を守るために我々には何ができるのか.何をすべきなのか.大切なのは,やはり教育なのだと著者はいう.

日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである.

英語を使わなければいけない職に就いており,また教育にも責任がある私にとって,改めて英語と日本語について考えるきっかけを与えてくれた本書に感謝する.

目次

  • アイオワの青い空の下で「自分たちの言葉」で書く人々
  • パリでの話
  • 地球のあちこちで「外の言葉」で書いていた人々
  • 日本語という「国語」の誕生
  • 日本近代文学の奇跡
  • インターネット時代の英語と「国語」
  • 英語教育と日本語教育