11月 202009
 

あえて英語公用語論
船橋洋一,文藝春秋,2000

「英語公用語論」というのは良くない命名だ.正しくは,「英語第二公用語論」である.第一と第二では全く意味が異なる.なぜなら,母語・国語である日本語の立場が天と地ほどに異なるからだ.本書の主張は,日本語を第一公用語,英語を第二公用語として,法制化せよということだ.

意思疎通するための道具としての英語がこれだけ世界中に広まった現在,もはや,英語ができないことによる損失は計り知れない.英語ができないよりはできた方がいい.これは誰しも異存ないところだろう.問題は,個々人の立場では,どうやって英語ができるようになるか,教育行政の立場では,どうやって英語ができるようにするか,ということになる.そこで,船橋氏は,英語を第二公用語にしようと主張しているわけだ.

これまでも,これからも,日本では「英語公用語論」が議論を巻き起こすことだろう.初代文部大臣である森有礼の妄想・暴言(日本語はダメな言語だから英語を国語にしよう)は論外として,20世紀にジャパン・アズ・ナンバーワンとまで世界に言わしめた日本が,元々国際社会の蚊帳の外にある政治分野のみならず,経済分野でも存在感をなくしていくとなると,その焦燥感から過激な主張が出てきてもおかしくはない.

船橋氏が問題にするのは,英語ができないことによる情報発信能力と対話力の欠如だ.テレビには,国際的に重要な会議で会話に交ぜてもらえない日本の閣僚の姿が頻繁に流される.テレビに映らないところでは,もっとそういう事態が生じていることだろう.ある総理が某国大統領と,”What are you?”,”I am Hillary’s husband.”,”Me, too.”,”?????”という会話をしたというのは有名な失笑話だ.それにしても,”How are you?”くらい言えんのか.ともかく,それなりの立場にある人は,特に国益にからむような公務に就く人は,英語が操れないと話にならない.

意見が割れるのは,英語力をどこまで多くの人々に要求するかという点だ.英語公用語論者は国民全体の英語力底上げを目指す.穏健派は,そんなのは無理だから少数精鋭でいこうとする.しかし,現在の日本は,少数精鋭にすらなっておらず,国益が損なわれている.国際社会での影の薄さが何よりの証拠だ.

この21世紀,日本人は日本を,アニメだけでなく,文化や伝統や思想や諸々のものを,世界の人々に理解してもらえるように努力しなければならない.訴えかけなければならない.発言しなければ,それは存在しないに等しいことを知らなければならない.世界に向けて日本について発信する努力をしてきた偉人には,「武士道」(”BUSHIDO: The Soul of Japan”)を書いた新渡戸稲造「代表的日本人」(”Representative Men in Japan”)を書いた内村鑑三らが含まれる.今後,このような努力を怠れば,昔は羽振りが良かったらしい極東の不思議な小国として忘れ去られる危険性がないとは言えない.

公用語にすべきだと安直に賛成はしがたいが,真剣に検討すべき課題であることは確かだろう.

先に読んだ「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(水村美苗,筑摩書房)で,本書「あえて英語公用語論」が度々引用されていたので,読んでみた.