12月 222009
 

国家〈上〉
プラトン(著),藤沢令夫(訳),岩波書店,1979

プラトンが著した数多くの対話編の中にあって,その最高峰とも評されるのが本書「国家」だ.本書では,人間の善し悪しのみならず,国家の在り方が論じられている.国家とはどのように在るべきかという問いに対して,プラトンはソクラテスの口を借りて「哲学者による統治が最善である」と答える.これが,哲人統治だ.しかし,この哲人統治思想は古代ギリシアにおける政治体制の現実とは大きく乖離しており,また現代に至るまでの世界史の中でもほとんど実現されたことはない.数少ない例の1つが,マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)が皇帝として善政を敷いたローマ帝国の一時期である.

ソクラテスによるケパロスとの対話およびポレマルコスとの対話において,正義とは何であるかが吟味された後,トラシュマコスがソクラテスに食ってかかる.

何というたわけたお喋りに,さっきからあなた方はうつつをぬかしているのだ,ソクラテス?

トラシュマコスは正義についてこう主張する.

では聞くがよい.私は主張する,<正しいこと>とは,強い者の利益に他ならないと.

こうして,ソクラテスとトラシュマコスとの対話の口火が切って落とされた.ソクラテスは,トラシュマコスの同意を得ながら,一歩一歩論を進めてゆく.そして,気が付くと,次のような結論が得られていた.

そしてまた,トラシュマコス.一般にどのような種類の支配的地位にある者でも,いやしくも支配者であるかぎりは,けっして自分のための利益を考えることも命じることもなく,支配される側のもの,自分の仕事がはたらきかける対象であるものの利益になる事柄をこそ,考察し命令するのだ.そしてその言行のすべてにおいて,彼の目は,自分の仕事の対象である被支配者に向けられ,その対象にとって利益になること,適することのほうに,向けられているのだ

トラシュマコスはもちろんこの結論に不服であり,ソクラテスのペテンに嵌められたと憤る.そして,不正こそが自分自身の利益であると言い放つ.

不正は素晴らしいというトラシュマコスの言説は我々の多くにとって不快な響きを持つように思われるが,しかし,現実にはそうでもないように見える.というのも,見付かり罰せられることさえなければ,不正をした者が勝ちだという価値観を持っている人達は少なくないようだからだ.実際,社会的地位のない人々のみならず,支配者階層にいる人々でさえも,そのような劣悪な精神しか身に付けていないように思われる出来事には事欠かない.

古代ギリシアもそのような社会だったようだ.実際,このトラシュマコスの他にも,「ゴルギアス」において,有能な政治家カルリクレスが次のように申し立てている.

つまり,正しく生きようとする者は,自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで,欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ.そして,できるだけ大きくなっているそれらの欲望に,勇気と思慮とをもって,充分に奉仕できるものとならなければならない.そうして,欲望の求めるものがあれば,いつでも,何をもってでも,これの充足をはかるべきである,ということなのだ.しかしながら,このようなことは,世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う.だから,彼ら大衆は,それをひけ目に感じて,そうすることのできる人たちを非難するのだが,それはそうすることによって,自分たちの無能を蔽い隠そうとするわけである.(中略)そしてまた,自分たちは快楽に満足を与えることができないものだから,それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども,それも要するに,自分たちに意気地がないからである.

けれども,始めから王子の身分に生まれた人たちだとか,あるいは,自分みずからの持って生まれた素質によって,独裁者であれ,権力者であれ,何らかの支配的な地位を手に入れるだけの力を具えた人たちだったとしたら,およそそのような人たちにとっては,節制や正義の徳よりも,何がほんとうのところ,もっと醜くて,もっと害になるものがありうるだろうか.

このような考え,つまり不正は利益に繋がるという考えを否定できるのか.逆に,正義こそ利益になるということを主張できるのか.これが本書「国家」において吟味されている事柄の1つである.

正しい者と思われることによってではなく,正しいことそのものによって利益が得られることを示すために,ソクラテスは理想的な国家を建設するという思考実験を行う.この理想的な国家も対話の中で建設されてゆく.そして,その国家で制定されるべき法が何であるかが吟味される.

生まれついての病気持ちで不摂生な者は,本人にとっても他の人々にとっても生きるに値しない人間であり,医療の技術とはそのような人々のためにあるべきでもないし,またそのような人々には,たとえミダスよりもっと金持であったとしても,治療を施すべきではない

国を支配する者たちに神が告げた第一の最も重要な命令は,次のことなのである.彼らがすぐれた守護者となって他の何にもまして見守らなければならぬもの,他の何よりも注意ぶかく見張らなければならぬのは,これら子供たちのこと,すなわち,子供たちの魂の中にこれらの金属のどれが混ぜ与えられているか,ということである.そして,もし自分自身の子供として銅や鉄の混ぜ与えられた者が生まれたならば,いささかも不憫に思うことなく,その生まれつきに適した地位を与えて,これを職人や農夫たちのなかへ追いやらなければならぬ.またもし逆に職人や農夫たちから,金あるいは銀の混ぜ与えられた子供が生まれたならば,これを尊重して昇進させ,それぞれを守護者と補助者の地位につけなければならぬ.

自然本来のあり方に従って建てられた国家は,みずからの最も小さな階層と部分にほかならない指導者・支配者によってこそ,またその最小部分にある知識によってこそ,全体として<知恵>があるということになるわけだ.

これらの女たちのすべては,これらの男たちすべての共有であり,誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは,いかなる者もこれをしてはならないこと.さらに子供たちもまた共有されるべきであり,親が自分の子を知ることも,子が親を知ることも許されないこと

このような対話を経て,ソクラテスによって哲人統治の必要性が語られる.

たとえそれが,文字どおり笑いの大浪のように,嘲笑と軽蔑でぼくを押し流してしまうことになろうとも.

哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり,あるいは,現在王と呼ばれ,権力者と呼ばれている人たちが,真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり,すなわち,政治的権力と哲学的精神とが一体化されて,多くの人たちの素質が,現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり,親愛なるグラウコンよ,国々にとって不幸のやむときはないし,また人類にとっても同様だとぼくは思う.

ここで重要なのは「哲学者」とはいかなる者なのかを明らかにすることである.

「それぞれのものについて,それ自体としてあるところのものに愛着を寄せる人々こそは,<思わく愛好者>ではなく,まさに<愛知者>(哲学者)と呼ばれるべき人々だということになるね?」

「まさしく,そのとおりです」

本書「国家〈上〉」はここで終わる.

目次

  • 第一巻〜第五巻

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