12月 232009
 

昔からよく言われていることだが,自分も含めて人間の意志決定の様子を見ていると,「やらない理由を思い付くのは簡単である」という事実に気付く.特に,それなりに頭がよい人であれば,何事に対してであれ,欠点・短所・デメリットを指摘することは簡単である.それも合理的な理由付きで.

それで,私としては,こう思うわけだ.「では,あなたがやりたいことは何?」と.「あなたがやれることは何?」と.

人が集まったからと言って物事が前に進むわけではない.前に進む意志がある人が集まることが重要だ.

この点については何も悲観はしていない.前に進む意志がある人は自然と集まるだろうからだ.なぜなら,そういう人達は互いに引き寄せ合うだろうから.

問題が起こるとすれば,前に進む意志がなくなってしまうような組織においてであろうと思われる.

ポジティブ・シンキングが大切だとは言い古されたことではあるが,前向きとか後ろ向きとかはどのようにして身に付くのだろう.成功体験と失敗体験か.あるいは教育か.

  2 Responses to “やらない理由を思い付くのは簡単だ”

  1. 人との出会い。。。が、大きいかもしれませんね。
    かく言うボクも、ビジネスパーソンで最初に影響を受けた人に、「出来ない理由に興味ないから何とかして」と言われたことが大きかったと思います。
    それを言われたときは、かなり腹が立った覚えがありますが、けど「確かにそうだなぁ」とも思いました。

    「やらない理由」、「できない理由」を探す人も必要だと思います。これによってリスクを把握できますから。

    ボクもその人に会っていなかったら、「やらない理由」、「できない理由」を並べ立てていたかもしれません。

    但し。。。道義的に、道徳的に、倫理的に「できない」ものは毅然と「できない」と言うことにしています。

  2. 「人との出会い」は確かに重要そうです.でも,当然ながら,ある人に接したときに感化される人とされない人がいます.より多くの人を感化する人を指して,恐らく我々は,カリスマ性があるとか器が大きいとか言うのでしょう.一方で,感化される人とされない人の差ってどこから生まれるんでしょう.さらに,感化される人も,感化されるだけの(変化しない)人と変化する人にわかれます.この差もどこから生まれるんでしょう.出会いの積み重ねなのか.そうだとすると,出会いの差はどこから生まれるんでしょう.

    リスクの把握は重要ですね.同意します.

    倫理的にできないものには毅然とできないと言うのも大切ですね.これも難しいことだと思うのですが,言える人と言えない人の差って何なのでしょうか.工学倫理もそうですが,より広く教え・教えられる道徳って,本質的に意味のあることをやってるのかという疑問があります.「言われなくたって誰でも分かってる.それが行動を伴わないだけだ.グダグダとうざい.」ってことになってないかと.また,行動を伴わないのは,その人の評価指標(価値判断基準)によると,行動しないメリットが行動するメリットを上回るからであって,この評価指標を変化させないかぎり,行動が変わるはずはありません.この点について,現代の倫理教育ってどういう解決策を持っているんでしょうか.もしかして,無策なんでしょうか.

    工学倫理に限定すると,そこで扱われているのは,上司の不道徳な命令に善良な部下としてどう対処すべきかという問題設定ですよね.ほとんど根性論です.「正しい道を進め〜!」みたいな.これって教育としてどの程度の意味があるのでしょう.私なんかの予想に反して,感化される人は多いのでしょうか.

    本質的な無知が原因であるという場合は別として,不道徳な命令をする上司にも動機があるはずです.つまり,不道徳な命令をすることがメリットと判断されるための評価指標が脳内にあるはずです.多くの場合,それは経済合理性でしょう.そして恐らくそれは,その上司が属する組織のマネジメント層で共有されている評価指標なのではないでしょうか.そうすると,第二,第三の不道徳上司はゾンビのようにいくらでも現れてくるはずです.そういう組織環境なのですから.ということは,そういうマネジメント層を社会的に抹殺できる,あるいは組織そのものを社会的に抹殺できる,より大きな環境を構築しないといけないのでしょうか.

    これって横暴ですよね.でも,環境税なんていうのは,この方向での発想です.「環境を良くしよう!」なんて,「言われなくたって誰でも分かってる.それが行動を伴わないだけだ.グダグダとうざい.」ってことの典型で,税金という形にすることで,環境的に正しいことに経済合理性を持たせようとする枠組みですよね.では,倫理税みたいなものはありうるのかということです.

    まあ,有り得ないでしょうね.COP15の中国とか見てれば分かりそうなものです.自分の利益以外は全く眼中にない組織というものが実在し,そういう組織に限って能力的には劣っていない(ダーウィンの適者生存によれば能力があるから生き残っている)ので,合理的に政治的発言力を発揮できるように立ち回ることでしょう.

    こう考えてくると,我々の社会って,トラシュマコスやカルリクレスに反論できないような代物でしかないと思えます.つまり,正義とは強い者の利益だというわけです.そうではないと主張する弱者を作るのではなく,そうではないと主張する強者を作れるか.教育の問題も,そういうことではないのでしょうか.

    恐らく,ここまで来て,ほとんどの人は「そんなこと知るか!」となるのではないでしょうか.やらないとダメなことが一杯あるのに,答えがあるかどうかも分からないようなことについて悩んでいる暇はないと.しかも,仮に答えが出ても,社会は変わらないとすれば,尚更です.だとすれば,どうするんですかね...

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