1月 302010
 

アウト・オン・ア・リム
シャーリー・マクレーン(Shirley MacLaine),山川紘矢(訳),山川亜希子(訳),角川書店,1999

先に読んだ「輪廻転生を信じると人生が変わる」(山川紘矢,ダイヤモンド社)で推薦されており,彼女もこの映画を見たというので,読んでみることにした.著者はシャーリー・マクレーン.アカデミー賞主演女優賞やエミー賞などを受賞した有名女優だ.本書「アウト・オン・ア・リム」では,彼女が40歳代に経験したという,その後の人生を完全に変えることになった出来事が綴られている.文章は上手だ.

書かれているとおり,本書は,読む人によって,色々な読み方がありえる.不倫・恋愛小説,女優の自伝,オカルト等々.だが,本書の趣旨は,輪廻転生が本当であることを知り,自分が何者であるかを知ることの重要性を知らしめることだ.魂の存在すら信じていなかったシャーリー・マクレーンが,いわゆる成功者でありながら,どうして精神世界に深く関わるようになったのか.その経緯が詳細に描かれている.彼女が何かに導かれ,数年間に学んだことは,ニューヨークでの彼女と友人ベラの会話として,本書の最後の十数頁にまとめられている.それが結論ということになる.ただ,こういう話に馴染みがない人には,結論だけを読んでも全く受け入れる気にはならないだろう.本書「アウト・オン・ア・リム」にも他書にも書かれているが,時機というものがあるようだ.

本書では,幾人かの霊媒が登場する.シャーリー・マクレーン自身が霊媒に会う前,霊媒を通して語る精霊について,彼女はある友人から教えられる.

アンブレス(霊媒を通して語る精霊)の言うことを聞いてから我々の人生に対する見方に変化がありました.人間としてこの世に生まれた目的を知れば知るほど,より積極的に人に対する思いやりのある意思決定ができるようになったんです.

これが重要なポイントの1つであると思う.つまり,自分が何のために生まれてきたのかを知らず,過去に支配され,未来を恐れて生きているから,自分本位になってしまうのだ.輪廻転生を受け入れ,原因と結果の法則(因果応報)を受け入れるなら,人は人に優しくなれる.シャーリー・マクレーンがベラに語ったのも,結局そういうことだ.

本書「アウト・オン・ア・リム」では,過去の有名な霊媒として,エドガー・ケーシーの話が出てくる.エドガー・ケーシーを通して,声は次のように語っている.

人が犯す最も大きな誤まりは,人生は,すでに前もって決められており,変えることができないと思ってしまうことだ.現在の人生が最も重要であり,カルマとの関係において,自由意思を発揮することが最も重要である.自分の精神的内面に触れ,人生の目的が何であるかを発見することは,我々の自由意思にかかっている.我々の行いは,すべて終局的には自分に返ってきて,自分が責任を負わなくてはならない.また責任というものが何であるかを知ることも,自分の責任である.

新約聖書のマタイによる福音書に,「人を裁くな.自分が裁かれないためである.あなたがたが裁くその裁きで自分も裁かれ,あなたがたの量るその秤で自分にも量り与えられるであろう.」とある.「神曲 地獄篇」(ダンテ,河出書房新社)のコメントにも書いたが,「人を裁くな」は,私が守るのが最も難しいと感じている警句の1つである.ついつい,心の中で人の行為を非難してしまう.

ところで,「あなたがたが裁くその裁きで自分も裁かれ,あなたがたの量るその秤で自分にも量り与えられる」とはどういうことか.この点について,エドガー・ケーシーのリーディングが紹介されている.1つは,18歳の肥満女性.二つ前の前世において,彼女はローマの運動競技者で美貌と技量に恵まれていた.しかし,彼女はいつも太って体の動きの鈍い人達を嘲笑っていた.もう1つは,21歳のホモセクシャルで悩む若者.その前世で彼はフランスの裁判所で,ホモの人間を暴露し,侮辱していた.つまり,裁きのバランスが取られるのは,今生とは限らないということだ.

霊媒について興味を持ち,熱心に勉強したシャーリー・マクレーンは,こう書いている.

数多くの文献を読んでみて一番私の興味を引いたことは,これらの霊媒の伝えるメッセージに普遍性があるということであった.霊媒はあらゆる国にいて,霊信はあらゆる言語でなされているが,言っていることは基本的に同じであるという事実である.彼らはすべてが,「自分自身を見よ.自分自身の内を探れ.そうすれば,自分が宇宙であることがわかるだろう」と言っているのだった.このメッセージは,私に今までの自分の生活について考えなおす必要を感じさせた.

そして,自分自身も霊媒を通して精霊と交信するようになる.本書「アウト・オン・ア・リム」で取り上げられているのは,精霊ジョンの言葉だ.

そんなことする必要はないんだ.心を開いている人は,自分の見方をただ言っていればよいのだ.懐疑的な人には懐疑的である自由を認めてやればよい.もし他人に押しつけようとするなら.それはおせっかいもいいところだ.疑う人には疑い続ける権利を与えてあげなさい.彼らにもいつか本当のことを知りたいという時が来るだろう.用意ができた時に自分で探し始めるだろう.人々が論理的な思考システムの中にとどまっていたかったり,自分の認識している現実の中にいたいのなら,それはそれで安全なことなんだ.そうした方が,現在もっている権力の中で自我が安心していられるということさ.それがどんな形の権力であろうともね.彼らは認識を変えようとしないだろうし,自分自身を変える必要もなければ,意識を広げる必要もないだろう.

真理というものは簡単なものだ.人間がそれを,ことさら難しくしているだけだ.真理というものは,教訓を学ぶように頭で学ぶことはできない.真理というものは,自分で自分の内に経験をして納得してからでなければ,その先へ進むことができない.真理を学び,かつ経験することは一種のあがきとも言えよう.あがくことによって目が開かれるのだ.人間の本来の住処は地球上ではないことも,記憶にとどめておくがよい.人間の本当の住処はエーテルなのだ.個人個人は生まれた時から神の真意を知っているのだ.ただ,それを複雑にして,自分が知っていることを忘れているのだよ.

頭のよい連中は,自分がエリートであると思いたいから,一般の人達とは違うと思いたいのだ.だから,彼らは自分の頭の方を信じて,自分の中にある神の力を忘れてしまうのだよ.頭のいい人だけでなく,多くの人は自分の中に神の閃きを感じるとまごついてしまうのだ.頭のいいインテリで猜疑心の強い人間ほど,自分の内部では矛盾と混乱と不幸が起きやすいのだ.人は誰でも心の平和を求めている.心の平和は知性からではなく,心そのものから生まれるのだよ.人の心の中に神と平和と自分自身とを見出すことだよ.知的な懐疑主義者は本当の自分に気がつかない.むしろ避けていると言えよう.しかし,本当の自己は神の真意を知っているのだ.なぜなら,自己が神そのものだからだよ.わかるかな?

さらに,シャーリー・マクレーンに決定的な影響を与えるのが,友人デイビッドである.彼は,2週間ほど,彼女をペルーに,アンデスの山中に連れて行く.そこで,美しい自然を楽しみながら,極めて重要なメッセージを伝える.とても信じることができないようなメッセージを.葛藤の末,シャーリー・マクレーンはその言葉を受け入れる.そうして,その後に書かれたのが本書「アウト・オン・ア・リム」である.

デイビッドが語る途方もない話については本書を読んでもらうこととして,彼は他にも色々と語っている.

輪廻転生のことは聖書に書いてあったんだよ.ただ五五三年のコンスタンチノープルで開かれた,一般にニカイア会議と言われている宗教会議で,教会の支配を強めるために輪廻転生の思想を削除してしまったんだ.だって,人の運命は教会の支配下にあるというのが教会の主張なのに,キリストは一人ひとりが自分の運命に責任があると言っているのだからね.キリストはただ神のみが人を裁けると主張していて,教会やいわゆる宗教を作ることには反対していたんだ.彼は教会や宗教が自由や真実を知りたいと願う人の心を抑圧するのを知っていたんだよ.

うまくいくかどうかわからないけれど,誰かが”黄金の夢”っていう方法のことを話してくれたよ.例えばね,ちょうど眠ろうとしているけれど,いろんな問題が君の心を占領してどういもならないとするね.僕はその瞬間に僕を世界中で一番幸せにしてくれるのは何かを考えてみるんだ.何もかもすごく詳しく描き出してみるんだ.何を着ているか.誰と一緒にいるか.どんな音が聞こえるか.天気はどんなか.どんなものを食べているか.何に触っているか.どんなことでも自分が幸せに感じることを想像するのさ.そしてじっと待っているんだ.心の中には自分の意思と想像力で作り出した完璧な絵がある.それは次第に現実味を帯びてきて,ついに僕は幸せになるんだよ.自分がリラックスして,一種の規則正しい周波数で揺れているのを感じるんだ.そして間もなく眠ってしまうというわけさ.僕の好きな言い方では,”星の世界”へと入っていくのさ.

またいずれ本書を手にすることになるだろう.そんなふうに思った.

目次

1月 302010
 

本日,JR品川駅に隣接する品川インターシティ内の京都大学東京オフィスで日本学術振興会第143委員会の研究会があった.京都大学東京オフィスは27階にあり,ラウンジなどからの展望は素晴らしい.それにしても,京大も凄い場所を借りたものだ.どれだけの維持費を使っているのだろうか...

さて,その会議が終わり,京都へ戻るために品川駅へ行くと,緑の窓口に大行列ができていた.新横浜と小田原の間で架線が切れたらしく,昼過ぎから新幹線が動いていない.モニターには,14時台の列車が表示されたままだ.その場で,新幹線が動き出したとの情報が流れる.問題は,指定席を予約している「のぞみ」が運休せずに走るか,走ったとして指定席は有効か,いつ走るか,ということだ.全く情報がないので,改札口付近の駅員さんに尋ねる(正確には尋ねてもらう).その結果,予約した指定席は有効で,2〜3時間遅れでの運行になるだろうとのことだった.

しばらくは全席自由席に変更とのことだったが,東京駅は新幹線に乗りたい人達で大混雑になっているに違いない.当然,品川から乗れるはずもない.そこで,その場にいた京都&名古屋組5名で,ご飯を食べて待つことにした.1時間少しして改札口に戻ると,18時前後の新幹線が発着していた.ところが,指定券を取った「のぞみ」が表示されていない.はぁ?って感じ.隣のモニターを見ると,その「のぞみ」が運休する新幹線のリストに載っている.適当臭い駅員さんの発言のために,時間をロスすることになったようだ.運休になるなら,のんびり食事してないで,他の方法を探すって...

結局,混乱に乗じて,空いた指定席に座って京都まで帰ってきた.約2時間遅れ.まあ,仕方がない.またしても,3時間ほど車内に閉じ込められた人達がいるであろうことを思えば,楽しく食事して無事に帰れたのだから,そのことに感謝しよう.

品川から京都へ戻る車内で不思議に思ったことがある.別の列車の指定券を持っていたこともあるが,私なんかはサッサと空いている指定席に座ったのに対して,新横浜を過ぎても立っている乗客が少なくなかった.空いている座席があるのに.図々しく座ったらいいと思うし,JRも座ってもいいと言ってあげればいいのに.というのも,そもそも発券システムが過去の指定券を発券できないために,大幅に遅れている列車の指定席はガラガラなのだから.システムの不備で乗客を犠牲にしなくてもよいと思う.

1月 272010
 

恐怖の学会

昔,まだ私が大学院生から助手になったばかりの頃,研究発表のために参加させてもらった学会では,どこにも恐ろしい先生がいたものだ.もちろん,顔が怖いとか,いつも怒っているということではなく,研究に対して厳しいということだ.

学会(研究発表会)では,大学院生の発表も多いが,自分が何をしているのか深く理解せずに発表していることもある.加えて,発表前にどのような指導をするかは指導教員によって異なる.このため,研究の目的や結果が聴衆に伝わらない発表もある.あるいは,そもそもレベルが低い研究もある.

今でも,ある恐ろしい先生が,質疑応答の時間に,「そんな研究に意味はない!」というようなことを大きな声で発言されていたのを思い出す.発表している学生にしてみたら,こんなに恐ろしいことはない.指導者に恵まれた私自身は,そんな目にあったことはないが,学会とは恐ろしいところだと痛感したものだ.自分が言われていたら,トラウマになったに違いない.

ところが,最近の学会では,そんな背筋が凍るような質疑応答を見かけることはなくなった.それどころか,静まりかえっている質疑応答すら少なくない.研究者が大人になったと表現することもできようが,要するに,活気がないということだ.

化学工学会誌の2010年1月号で,全く同じことを指摘している人がいた.専門分野は異なるので,様々な分野で似たような状況なのだろう.

学会の活性化

さて,そこそこ歴史のある学会では,学会(研究発表会)の活性化が問題になってきているようだ.会員数の減少,論文数の減少,参加者数の減少など.昨今の経済の低迷に加えて,研究にも流行り廃りがあるので,それも仕方ないわけだが,ともかく,活性化しなければならない状況がある.

学会(研究発表会)を活性化するためには,どうすればいいか.ここで活性化というのは,発表件数や参加者数の増加を意味する.まず,会議のロケーションは大切な要因だ.憧れのリゾート地で開催されるなら,何が何でも論文を書く.しかし,当然ながら,それだけでは学会(研究発表会)は生き残れない.学会(研究発表会)の中身が問われる.色々な提案がありうるだろうが,上述の昔話が示唆するのは,実りのある質疑応答の重要性だ.研究者・技術者が学会発表したとしよう.質疑応答で手応えを感じないような学会に再び参加しようと思うだろうか.思わないだろう.ディズニーリゾートの凄さは,リピーターの多さである.発表者が毎回の発表でメリットを感じられなければならない.つまり,興味を示されたり,アドバイスをもらえたりすることが重要だ.座長(司会者)が義理質問しているような質疑応答では,発表者はメリットを感じないだろう.

学会の将来を憂うなら,ガンガン質問しまくれ!

質問もしないで偉そうなことを言ってみても空しいだけだ.

もちろん,人が聞きたいと思う研究成果を発表することは最も大切だ.しかし,凄い成果がなくても,質問はできるだろう.そういう貢献の仕方もあるし,しかもそれは極めて重要だと思う.

オーディエンス・レスポンス・システム

こんなことを考えながら,最近導入したオーディエンス・レスポンス・システムのことを思う.確かに,学生の評判は良いし,講義や講演の魅力を向上させるツールである.しかし,オーディエンス・レスポンス・システムというのは,結局のところ,講義中に質問できない,発言できない気弱な学生に,匿名での意思表明を促すシステムだ.そこには,講義中に無理して手を挙げなくてもいいですよという教員から学生へのメッセージがある.果たして,それでいいのだろうか.育成すべき学生の姿とは,匿名でしか発言できない人材なのだろうか.この点が気になって仕方がない.もちろん,その他の使い道があるのは知っている.しかし,指摘したような一面があることは否定できないだろう.

そうやって過保護に育てられた学生たちは,社会に出て,中国人やインド人を相手にきちんと主張していけるだろうか.「今のイシューはそれじゃないだろ.黙ってろ!」と言いたくなることもあるが,主張すれば通ることもある.主張しなければ,絶対に通らない.

とまあ,こんなことを考えながらも,オーディエンス・レスポンス・システムを学内外で好きなときに使えるようにするために,研究室予算で追加購入する予定だ.自分の武器にはなるのは確かなので.

1月 262010
 

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ
下條信輔,中央公論社,1996

本書は東京大学における心理学の講義録がベースになっている.ただし,単なる学説の羅列に終始するのではなく,関連分野をも含む広い視点から心理学を俯瞰し,現代に生きる人間が直面している心理学的問題を浮かび上がらせようとしている.本書「サブリミナル・マインド」で著者は,新たな心理学のセントラル・ドグマを築こうとしている.それは,自分のことは自分が一番よく知っているという当然の信念が,実は極めて疑わしく,そうとは言えないことを示す証拠がたくさんあるということだ.これは,人間には自由意志があるのかという疑問を抱かせるに十分であり,現代の人間社会が立脚している人間観を根底から覆しかねない.そういう観点で,とても刺激的な本だ.

いくつかの心理学実験や我々が日常体験する事柄を例に挙げて,著者は次のように述べる.

自己に対する内的な知識はきわめて不完全である.それは無意識的な推論によって補われているものであり,極言すれば自分とはもうひとりの他人であるにすぎない.

人は,自分の認知過程について,自分の行動から無自覚的に推測する存在である.

知覚から行動に至る無自覚的な経路がより基本的で,意識的な経験はこうした無自覚的プロセスに対する,いわば後づけの「解釈」にすぎません.

この結論は強烈だ.まず,我々が他人の感情をその人の外観(表情や行動)から推論するように,我々は自分の感情を無意識的に推論しているというのだ.無意識的であるから,もちろん我々に自覚はない.だからこそ,推論結果を自分の感情だと信じているわけだ.しかし,所詮は推論である.本当にそうであるかどうかはわからない.我々の本当の感情とは一体何なのだろうか.

そして,我々が何かを知覚して行動する過程は基本的に無自覚的であり,我々が自分の意志による自発的な行動と考えているものが実は後付け解釈にすぎないことを指摘している.そうであるなら,我々は操り人形なのだろうか.あるいは,予めプログラミングされたロボットなのだろうか.「利己的な遺伝子」の乗り物に過ぎないのだろうか.

実は,これらは目新しい指摘ではない.様々な出来事や体験に対して自分がどのような感情を持つかを客観的に捉え,ネガティブな感情に飲み込まれてしまうことなく,ポジティブな感情を持てるようになることの重要性は,自己啓発系やスピリチュアル系の本で繰り返し語られてきた.また,信じるか信じないかは別として,運命というものを人間は考えてきたし,すべては偶然ではなく必然であるということも,自己啓発系やスピリチュアル系の本で繰り返し語られてきた.

さらに本書では,脳に障害のある患者に対する研究結果を紹介して,以下のように述べている.

意識的・言語的「自己」は,私たちの行為の起源をつねに感知しているとは限らないということがわかります.未知の理由によって行動している他人を見るとき,私たちはしばしば無意識のうちにその原因を想像し,あたかも熟知しているかのように行動と結びつけるでしょう.ちょうどこれと同じように,左半球の言語系は,右半球の認知系による行動を「外的に」観察し,その知識に基づいて現実を解釈するらしいのです.

人は自分の気分(ムード)の起源をつねに正確に自覚しているとはかぎらないということがわかります.先の認知的不協和の事態や情動理論などもふくめて一般化すれば,言語システムは,当人の実際の行動・認知・内的興奮やムードなどを常時観察し,モニターしています.そして,とぼしい内的手がかりをおぎなうために,ニスペットとウィルソンらのいう「暗黙の因果理論」に基づいて,解釈をほどこすのです.

要するに,我々は,自分たちが信じているほどには,自分のことをわかっていないということだ.このことをハッキリと表しているのが,サブセプションの研究例だ.研究結果から,次のような結論が導かれる.

問題はネガティブ語を中立語として認知した場合ですが,この場合被験者は主観的には「中立語が見えた」と感じ,そのように報告するわけです.それにもかかわらず,無意識的な恐怖を表す,はっきりした皮膚電位反応が見られたのです.この結果を説明するには,本人の主観的な知覚体験とは別に,視覚・認知機能を司る神経経路のどこかで,ネガティブ語がそれとして正しく処理され,恐怖反応を呼び起こしていると考えざるを得ません.

我々は自分が自覚している体験とは辻褄が合わない感情を無意識的に持つことがあるわけだ.この感情は無自覚的に生じるものであり,潜在的である.そして,この潜在的な知覚が我々の現実の行動を支配することがある.その例として,サブリミナル効果が挙げられる.見た・聞いたという自覚がないのに,行動が影響を受けてしまうのだ.本書「サブリミナル・マインド」でも,サブリミナル効果が具体例と共に取り上げられている.そして,親近性効果・単純提示効果として以下のような結果が指摘されている.

特定の対象をただ繰り返し経験するだけで,その対象に対する好感度,愛着,選好性などが増大する.これがこの効果の眼目です.特に「ただ繰り返し経験するだけ」というところがミソで,その対象について,とりたてて知識を与えられたり,何らかの関わりを持ったりする必要はないのです.

十分な数の反復をすれば,閾下の刺激のほうが単純提示効果が大きくなるのです.あるいは少なくとも,反復したときに効果が増大する度合いは閾下の場合のほうが大きいのです.

我々が自覚しつつ受け取る刺激よりも,無自覚に受け取る刺激の方が,我々の行動に大きな影響を与えるというのだ.当然ながら,無自覚に受け取った刺激を,自分の行動の原因として自覚することはできない.このように,我々の行動が潜在的なものに強く支配されており,我々はそのことを自覚できないとすれば,「自分の意志で行動する」とは何を意味しているのであろうか.後付けの解釈で,自分の意志で行動していると思い込んでいるだけではないのか.これが心理学の研究成果が主張する内容だ.

このことを知った上で,現代の人間社会を見てみると,我々の社会が依って立つ基盤が実は極めて脆いことに気付く.

民主主義の前提にあるのは,「自由な選択を許された責任ある個人」の人間像です.しかしこれはあくまでも建前で,コマーシャリズムと宣伝によって無自覚に踊らされ,マスコミを通じたサブリミナル・メッセージによって政治選択をおこなう現代日本人には,成り立たない前提かもしれません.

本書「サブリミナル・マインド」では,人間の行動が自覚されない潜在的過程に支配されていることの重大さを,次のような例で説明している.

極端な例として,闘犬が人をかみ殺したとしましょうか.さて,犬を罰するのか,飼い主を罰するのか? 犬は危険防止のため薬殺する,という発想はあっても,罪を償う責任能力があるから罰を与えるという発想はないはずです.ところで催眠にかけられた殺人者は,犬に近いか,飼い主に近いかとなると,ある程度,犬に近いという議論が出てくるわけです.ここでもし,健常人の行為もまた潜在的過程によって大きく支配されていると主張する心理学者が現れたら,法学の専門家たちはどう対処するのでしょうか.このような規範体系には疑問の余地がある,あるいは少なくとも無視できない曖昧さがあるということになるのではないでしょうか.そのうえ,ここでいう心理学者とは決して少数派ではなく,認知科学,神経科学を糾合した最新の多数派なのです.

著者は次のようにまとめている.

私たちが人間を見るとき,自己認識には多重性があります.本人にとってあくまでも自立と自由意志に基づく決断と行動であっても,はたからはそうは見えない.とりわけ,生理学的,客観的,あるいは集団的にデータを見る生物学者・心理学者にとってはそうです.そして今や,この周囲の他人の人間観が,本人のかけがえのない「自由」と「意志」を侵食し,むさぼり,滅ぼそうとしているかに見えるのです.(中略)このような自己認識の多重構造の中で,とりわけ近代的な自我,自覚するゆえに我ある自我,独立した意志を持つ単位としての個体,究極的な価値としての自由−−こうしたものは急速にその根拠を失い,崩壊してゆくというのが,私の見方です.

多くの人達が当然だと根拠なく信じている現代の人間観が崩壊した後,どのような人間観が生まれてくるのだろうか.いやもう既に生まれている.これからも生まれてくるのかもしれない.その中から人類はどのような人間観を選択していくのだろうか.その選択は自覚的なのだろうか.自分自身を知りたいと欲する人間にとって,実に興味深い問題が提示されている.

目次

  • 私の中の見知らぬ私―講義に先立って
  • 自分はもうひとりの他人である―自己と他者の社会認知心理学
  • 悲しいのはどうしてか?―情動と帰属理論
  • もうひとりの私―分割脳と「自己」
  • 否認する患者たち―脳損傷の症例から
  • 忘れたが覚えている―記憶障害と潜在記憶
  • 見えないのに見えている―いき下知覚と前注意過程
  • 操られる「好み」と「自由」―サブリミナル・コマーシャリズム
  • 無自覚の「意志」―運動制御の生理学と哲学
  • 私の中の悪魔―自由意志と「罪」をめぐって
1月 242010
 

3月末には閉鎖される「私のしごと館」に行ってきた.二度目の訪問になる今回は,影絵遊びワークショップ(影絵の制作体験)と,劇団かかし座による「三枚のおふだ」の影絵劇を観るのが目的だ.私のしごと館の運営が民間に移ってから,このような様々なイベントを催すようになったらしい.遅きに失したわけだが...

影絵遊びワークショップ

影絵遊びワークショップの参加費は,1人(組)500円.長男6歳が申込み,私と長女4歳は付き添いという扱いだ.今回は3人での参加だったので,合計500円のみ.非常に安い.しかも,影絵製作を指導してくれるのは,劇団かかし座の劇団員の方々だ.N先生家族と一緒に事前予約しておき,私のしごと館で合流した.会場のテーブルには,厚紙3枚と色セロハン,はさみ,カッター,布などが置いてある.

まず初めに,手影絵をいくつか教えてもらった.最初は簡単な「きつね」.誰でも知っている「きつね」の次に,目のある「きつね」.なるほど,そうやって目を作るのね.次は,「カニ」.これも誰でも知っている「カニ」の次に,もっとリアルな「カニ」を教えてもらった.ちゃんとハサミがある.さらに,上級編の「うさぎ」.これはかなり難しい.長男6歳も長女4歳も「できない〜」と途中で断念していた.最後に,「急須」と「湯飲み」.これは長男も上手に作ることができて,2人で急須から湯飲みにお茶を注ぐという影絵芝居をした.

リアルなカニの手影絵を作る長男長女@私のしごと館
リアルなカニの手影絵を作る長男長女@私のしごと館

手影絵の後は,影絵人形の製作だ.いくつか見本を見せてもらった後,想像力をふくらませて,好きな影絵人形を作る.長男6歳も自分が作りたいものを決めて,まず厚紙に鉛筆で下絵を描き,その絵をハサミで切り抜く.

影絵人形を作る長男@私のしごと館
影絵人形を作る長男@私のしごと館

時間が短かったこともあり,カッターで円や細い線を切り抜く作業は私が手伝った.長男の好みの色セロハンを貼り付け,最後に割り箸で固定して完成.途中,劇団かかし座の方が色々とアドバイスをしてくれる.

テントウムシの影絵人形が完成@私のしごと館
テントウムシの影絵人形が完成@私のしごと館

長男が作ったのは,テントウムシだ.長女はN先生に手伝ってもらいながら,雪だるまを作った.30分ほどかけて思い思いの影絵を製作した後,テーブルごとに実際にスクリーンに映して発表会をする.

テントウムシの影絵(長男,左)と雪だるまの影絵(長女,右)を発表@私のしごと館
テントウムシの影絵(長男,左)と雪だるまの影絵(長女,右)を発表@私のしごと館

長男のテントウムシは非常に好評だった.あまり細部に拘らないのがいいのかもしれない.

帰宅後,長男はママに影絵の上映会をしてあげていた.

劇団かかし座の影絵劇「三枚のおふだ」

影絵遊びワークショップの後,一時間ほど「私のしごと館」の中をブラブラして,劇団かかし座の影絵劇「三枚のおふだ」を観た.影絵劇だからといって,影絵のみだと早合点してはいけない.イベント紹介には次のように書いてある.

影絵と演劇がドッキング。美しい影絵の前で、役者たちが大活躍!いつまでも子どもたちの心に残る、透明感あふれる影絵にふれてみましょう。日本ではじめてできた影絵の専門劇団「かかし座」がお届けする光と影の幻想世界をお楽しみください。

劇団かかし座の三枚のおふだ@私のしごと館
劇団かかし座の三枚のおふだ@私のしごと館

影絵劇「三枚のおふだ」は非常に面白かった.随所に笑わせる工夫があり,観客を巻き込む工夫があり,もちろん影絵も美しい.チャンスがあれば,是非とも見に行って欲しい.「やまんば怖かった」とは言うものの,長男と長女も大喜びだった.

なお,影絵劇の撮影は禁止されているので,残念ながら写真はない.

ふりむきドラゴン

私のしごと館の中に,「ふりむきドラゴン」が置いてある.これ,無茶苦茶面白い.長女はいまいちわからなかったようだが,長男と私は,片目を閉じてドラゴンを見ながら,右に行ったり,左に行ったりして,「おぉー,凄い凄い.ドラゴンがこっち見てる〜!」と大はしゃぎだ.

不思議なふりむきドラゴン@私のしごと館
不思議なふりむきドラゴン@私のしごと館

実際にドラゴンが動くわけではない.そればかりか,元々は,ドラゴンの頭部はへこんでいる.ところが,片目をつぶってドラゴンを見ていると,頭部が飛び出てくる.さらに凄いのは,自分が位置を変えると,ドラゴンの頭部が動き,ずっとこちらを見つめることだ.錯視を利用しているのだが,実に面白い.

夕食はN先生宅でご馳走になり,大満足の一日を終えた.

私のしごと館では次々とイベントを実施しているので,興味のある人は参加してみるといいだろう.コストパフォーマンスは非常に高い.それに,参加できるのは3月末までだ.

1月 232010
 

「アエラ族」の憂鬱 「バリキャリ」「女尊男卑」で女は幸せになったか
桐山秀樹,PHP研究所,2009

図書館の新刊書コーナーで偶然見付け,以前どこかで本書のタイトルを見た覚えがあったので,借りて読んでみた.本書でいうアエラ族とは,AERA読者一般ではない.もっと限定して,AERAの女性記事を読み,その女性記事に影響されるアラフォー女性たちのことだ.普通の人達には特に読む必要はない本と言える.私が手にしたのは,1つには,本書が対象とする女性がちょうど同世代(より少し上)にあたるため,多少の興味を持ったからだ..

AERAの女性記事に対して,プロローグには次のように書かれている.

首をヒネらざるを得ないのが,朝日新聞グループの出版部門である朝日新聞出版が発行する週刊誌『AERA』の女性記事にたびたび登場する,バリバリのキャリア女性を意味する「バリキャリ女」とか「おひとりさま女」の言動である.

本書「アエラ族の憂鬱」で著者は,AERAの女性記事を批判し,アエラ族に,つまり結婚を拒否し,出産と育児を拒否し,ビジネスキャリアに人生を賭け,旧来の女性の幸せを否定した女性に,目を覚ませと訴える.本書のメッセージは次のようにまとめられている.

「アエラ族」は,社会が自らに求めた「妻」「主婦」「母親」の道をすべて,「自由を奪う」という理由で拒否してきた.そして,アイデンティティを唯一表現できると信じたビジネス上のキャリアのみを実現したが,「百年に一度」と呼ばれるリーマン・ショック後の大不況の中で,企業からもその存在を否定され,いまやリストラの恐怖に脅えているのである.これが「アエラ族の憂鬱」だ.

「アエラ族」よ,女性が持つ本来のコミュニケーション能力をもっと磨け.できそこないの男のように一つの人生に固執すべからず,である.

そういうわけだから,アエラ族でない人が読んでも仕方ない.それでも読んでみた私だが,本書で引用されている評論家等の意見はなかなか面白い.いくつか紹介しよう.

「「婚活」時代」の共著者である山田昌弘氏は,「婚活」という言葉が本人の意図と乖離して独り歩きしていることについてコメントしている.

東京都で調査すると,六〇〇万円以上の年収を期待する未婚女性は三九・二%,これに対して六〇〇万円以上を稼ぐ当該年齢の未婚男性はわずが三・五%という調査結果が出た.

年収六〇〇万円以上の独身男性三・五%と聞いて,それをつかまえなければダメというのは一種のギャンブルである.年収六〇〇万円以上の独身男性三・五%を見つけ,気に入られ専業主婦になるよりも,共働きでそこそこの結婚生活をめざすほうが実現可能性がはるかに高い.

その上で,そのような結婚生活を実現するために「女性よ,狩りに出よ」と述べたのが「婚活」の本来の意図であると山田氏が述べていると,本書では紹介されている.リッチな専業主婦を目指して3.5%争奪戦に参入するのではなく,現実を見ろということだ.

ところが現実には,マスメディアが「婚活」を曲解して取り上げ,「婚活」しなければ良い条件の結婚なんてできないと喧伝し,さらにそれに便乗したビジネスが花盛りとなってしまった.本書「アエラ族の憂鬱」では,ある結婚紹介業経営者の言葉が紹介されている.

われわれの業界(結婚紹介業)は,結婚という看板を掲げながら,セックスの相手を紹介し,フリーセックスを助長している面がある.異性の情報を提供し,そのあとの交際は本人任せ,結婚するかどうかも見届けないのでは,出会い系ビジネスと何ら変わらない.

条件とか,勝ち負けとか,そんなレベルで結婚を捉えているようでは,幸せにはなれないんじゃないかな,と思う.

アラフォー世代の「アエラ族」はおよそ20年前のバブル期に就職した世代になる.華やかな時代にキャリアを求めて,自分を大切にするリッチな生活を享受してきたわけだ.そして,「負け犬」となったが,それでも私は幸せなのよと「遠吠え」した.ところが今や,世界経済は滅茶苦茶になり,明るいキャリアプランは吹っ飛んでしまい,結婚しないではなく,結婚できない状況になってしまった.本書「アエラ族の憂鬱」の描き出すストーリーは,およそこんなところだ.

「「婚活」時代」の共著者である白河桃子氏のコメントが紹介されている.

アラフォー世代にとって,専業主婦とは誰もがなれるものだったから逆に華々しいキャリアが欲しかった.しかし今や『専業主婦』としてのんびり子育てすることこそが女のステータスで,働くことはただの苦行.背景には,男女雇用機会均等法施行後二〇年以上たっても一向に改善されない女性たちの働く環境への絶望と,理想の『働く女性のモデル』の欠如がある.先輩世代の働く女性たちが,結婚や出産との両立に苦労している姿を見て,母親が幸せな専業主婦だった二十代女性たちはそちらに理想のモデルを見てしまうのだ.

このように,アラフォー世代のアエラ族と対照的なのが,ロスジェネ世代だ.好況を知らないだけに,厳しい現実社会の中で如何に生きるかを考えている.日本の社会は本当に厳しくなったと思うが,本書では,「男女同権は女性を幸福にしない」における山下悦子氏の言葉を引用している.

結局は,小泉政権は,競争と経済効率から『格差の容認と自己責任政策』を掲げ,セイフティ・ネットとして機能してきた『家族』を解体させたことにより,若い世代を中心に結婚したくてもできない,子供を『産む自由』よりも『産まない自由』を選択する,あるいは選択せざるをえないような状況をつくり出したともいえる.

アエラ族が求めた男女同権なんて求めず,ロスジェネ世代は家庭に入ることを選ぶ傾向があるという.女性がキャリアを極めるという意味では,昨今,勝間和代氏がもてはやされているが,本書はこう指摘する.

勝間和代的生き方は,その「一億総働きバチ社会」の中で暮らしながら,それを効率と資格取得による高収入で生き抜こうとする”超・働きバチ”だ.

誰もが勝間和代や上野千鶴子にはなれないのだと.そりゃそうだ.それに,なれたところで,それが幸せかどうかもわからない.

最後に,本書「アエラ族の憂鬱」で取り上げられている,女性が幸せになるための方法について書いておきたい.

1つは,「30女という病−−アエラを読んでしまう私の悲劇」(石原壮一郎,講談社)から.30女のための30の健康法というのがある.その22番目は,自分から「ごめんなさい」と言う,24番目は,ことあるごとに「ありがとう」と言う,となっている.

もう1つは,「良妻賢母−−女が幸せになるヒント」(池内ひろ美,PHP新書)から.良妻賢母になるための条件として,感謝する力,信じる力,感じる力,受け入れる力,笑う力の5つが挙げられている.「1.感謝する力」の始まりは「ありがとう」と声に出して言うことである.「3.感じる力」,これが最も大事だと池内氏は次のように言う.「物事をネガティブに受け取るのか,ポジティブに受け止めるか,そこから人生は大きく分かれていくものです.」

当然ながら,これらは女性に限らず,誰にとっても大切なことだ.

目次

  • 「超高級ホテル」から若い女性たちが消えた
  • 「男=女」-「アエラ族」はなぜ“生きにくい男たち”と同じになりたがるのか
  • アエラ族は、不幸になる-歪められた「婚活」時代
  • 「アエラ族」に告ぐ-「孤独なおひとりさま」の老後に覚悟はありますか
  • 行き過ぎた「女尊男卑」の果てに
  • 「アエラ族」の品格と孤独
  • 「女」に生まれたことは本当に損か-「アエラ族」よ、何が言いたい
  • リーマン・ショックが日本人に「家庭」を取り戻させた
1月 222010
 

大学院教育高度化経費で,講義室へインタラクティブホワイトボードを導入した.最終的に選択した製品は,日立ソフトのインタラクティブホワイトボード「StarBoard」だ.その経緯は,「インタラクティブホワイトボードの比較」および「インタラクティブホワイトボード購入に向けてのデモ」に書いてある.

インタラクティブホワイトボードは,パソコンを介して液晶プロジェクターと接続することで,液晶プロジェクターの映像に書き込めたり,その内容をパソコンに保存できたり,パソコンを操作できたりする.もちろん,単にホワイトボードとしても,スクリーンとしても利用できる.インタラクティブホワイトボードとオーディエンス・レスポンス・システム(ARS)の導入により,これまでとは随分と違った講義をできるようになる.

もちろん,200万円前後もするプラズマディスプレイ型を導入するはずはなく,普通のボード型を導入した.40万円程度だ.これから,使い方を習得していこう.来年度から本格稼働だ.

1月 212010
 

大学院教育高度化のための予算が付いたので,オーディエンス・レスポンス・システム(ARS)(オーディエンス・レスポンス・アナライザーともいう)を導入した.先月,「クリッカー(レスポンスアナライザー)の比較」と題して,導入計画があることを述べたが,いくつかの製品のデモを見せていただき,最終的に,KEEPAD JAPANのTurningPoint ARSを選択した.機能的に凄いわけではないが,価格が安い.より高機能なARS製品もあるのだが,私の用途では,コスト的に見合わないと判断した.

そもそもオーディエンス・レスポンス・アナライザーとは,受講生に対してリアルタイムにアンケート調査ができるシステムだ.例えば,講演会や講義で,予め受講生に小さな端末(クリッカーという)を配布しておく.クリッカーにはいくつかのボタンがある.講演者はパソコンと液晶プロジェクターを使ってプレゼンするわけだが,そのパソコンにコントローラを導入しておく.講演者が質問し,受講生が端末のボタンを押して答える.その結果がリアルタイムにパソコンで集計されて,液晶プロジェクターで表示されるわけだ.なかなか面白い.

TurningPoint ARSの本格運用は来年度からだが,自分が担当する大学院の講義「プロセスデータ解析学」で試用してみた.本年度最後の講義であったため,これまでに講義で扱った内容の重要ポイントを4択クイズ形式にまとめ,全25問を学生に示し,1問40秒のカウントダウンを設定して,クリッカーで解答してもらった.スライドに問題を出して,40秒のカウントダウン中にクリッカーで解答してもらい,集計結果をスライドに表示させた後,問題についての解説をする.それを全25問.学生にとっては,一方的に説明を聞くだけでなく,また黙々と問題を解くだけでもなく,他の学生とも繋がって講義に参加している気になれるため,反応は良かった.

オーディエンス・レスポンス・システム(ARS)の導入は大正解だと思われる.次の問題は,私以外の教員がどれだけ使うかだ.

1月 202010
 

高級ランドセルの次は,学習机だ.

元々,小学校低学年の子供に学習机なんて不要だというのが私の考えだ.子供が1人で部屋に閉じこもって勉強するわけはないし,そんな勉強を強要する親はどうかと思う.勉強するとしたら,恐らく,リビングかダイニングで母親の姿を見ながらだろう.そうであるなら,学習机はいらない.今あるダイニングテーブルで十分だ.

そうは言うものの,長男6歳は自分の机を買ってもらえるのを凄く楽しみにしているようだ.小学校入学というこのタイミングだから,期待通りに喜ばせてやるのも良いだろう.このタイミングで必要はなくとも,いずれ学習机を購入することは確かなのだから.

いくつかの家具店で様々な学習机を見た結果,浜本工芸カリモクに絞り込んだ.浜本工芸の学習机は,秋篠宮家で選ばれたことでも有名だ.一方のカリモクも,根強いファンが多いらしい.最終的に,カリモクの学習机を選んだ.

購入したのはボナシェルタというシリーズ.極めてシンプルなデザインのデスクユニットだ.ランドセルが高価だと指摘したが,この学習机もかなりのものだ.それでも,机は私が死ぬまでは使えるだろう.そのつもりで,品質重視で選択したつもりだ.

1月 192010
 

主に石油精製・石油化学産業を対象として,モデル予測制御(MPC)やソフトセンサー(仮想計測)を含む高度プロセス制御の現状に関するアンケート調査を実施した結果が公開されている.アンケート調査を実施したのは,日本学術振興会プロセスシステム工学第143委員会Workshop No.27「プロセス制御技術」という産学連携組織だ.そのウェブサイトから,「高度プロセス制御に関するアンケート調査結果報告書」を無償でダウンロードすることができる.

プロセス制御関連業務に携わっている技術者には有用な情報源となるだろう.以下にリンクを記載しておく.