1月 262010
 

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ
下條信輔,中央公論社,1996

本書は東京大学における心理学の講義録がベースになっている.ただし,単なる学説の羅列に終始するのではなく,関連分野をも含む広い視点から心理学を俯瞰し,現代に生きる人間が直面している心理学的問題を浮かび上がらせようとしている.本書「サブリミナル・マインド」で著者は,新たな心理学のセントラル・ドグマを築こうとしている.それは,自分のことは自分が一番よく知っているという当然の信念が,実は極めて疑わしく,そうとは言えないことを示す証拠がたくさんあるということだ.これは,人間には自由意志があるのかという疑問を抱かせるに十分であり,現代の人間社会が立脚している人間観を根底から覆しかねない.そういう観点で,とても刺激的な本だ.

いくつかの心理学実験や我々が日常体験する事柄を例に挙げて,著者は次のように述べる.

自己に対する内的な知識はきわめて不完全である.それは無意識的な推論によって補われているものであり,極言すれば自分とはもうひとりの他人であるにすぎない.

人は,自分の認知過程について,自分の行動から無自覚的に推測する存在である.

知覚から行動に至る無自覚的な経路がより基本的で,意識的な経験はこうした無自覚的プロセスに対する,いわば後づけの「解釈」にすぎません.

この結論は強烈だ.まず,我々が他人の感情をその人の外観(表情や行動)から推論するように,我々は自分の感情を無意識的に推論しているというのだ.無意識的であるから,もちろん我々に自覚はない.だからこそ,推論結果を自分の感情だと信じているわけだ.しかし,所詮は推論である.本当にそうであるかどうかはわからない.我々の本当の感情とは一体何なのだろうか.

そして,我々が何かを知覚して行動する過程は基本的に無自覚的であり,我々が自分の意志による自発的な行動と考えているものが実は後付け解釈にすぎないことを指摘している.そうであるなら,我々は操り人形なのだろうか.あるいは,予めプログラミングされたロボットなのだろうか.「利己的な遺伝子」の乗り物に過ぎないのだろうか.

実は,これらは目新しい指摘ではない.様々な出来事や体験に対して自分がどのような感情を持つかを客観的に捉え,ネガティブな感情に飲み込まれてしまうことなく,ポジティブな感情を持てるようになることの重要性は,自己啓発系やスピリチュアル系の本で繰り返し語られてきた.また,信じるか信じないかは別として,運命というものを人間は考えてきたし,すべては偶然ではなく必然であるということも,自己啓発系やスピリチュアル系の本で繰り返し語られてきた.

さらに本書では,脳に障害のある患者に対する研究結果を紹介して,以下のように述べている.

意識的・言語的「自己」は,私たちの行為の起源をつねに感知しているとは限らないということがわかります.未知の理由によって行動している他人を見るとき,私たちはしばしば無意識のうちにその原因を想像し,あたかも熟知しているかのように行動と結びつけるでしょう.ちょうどこれと同じように,左半球の言語系は,右半球の認知系による行動を「外的に」観察し,その知識に基づいて現実を解釈するらしいのです.

人は自分の気分(ムード)の起源をつねに正確に自覚しているとはかぎらないということがわかります.先の認知的不協和の事態や情動理論などもふくめて一般化すれば,言語システムは,当人の実際の行動・認知・内的興奮やムードなどを常時観察し,モニターしています.そして,とぼしい内的手がかりをおぎなうために,ニスペットとウィルソンらのいう「暗黙の因果理論」に基づいて,解釈をほどこすのです.

要するに,我々は,自分たちが信じているほどには,自分のことをわかっていないということだ.このことをハッキリと表しているのが,サブセプションの研究例だ.研究結果から,次のような結論が導かれる.

問題はネガティブ語を中立語として認知した場合ですが,この場合被験者は主観的には「中立語が見えた」と感じ,そのように報告するわけです.それにもかかわらず,無意識的な恐怖を表す,はっきりした皮膚電位反応が見られたのです.この結果を説明するには,本人の主観的な知覚体験とは別に,視覚・認知機能を司る神経経路のどこかで,ネガティブ語がそれとして正しく処理され,恐怖反応を呼び起こしていると考えざるを得ません.

我々は自分が自覚している体験とは辻褄が合わない感情を無意識的に持つことがあるわけだ.この感情は無自覚的に生じるものであり,潜在的である.そして,この潜在的な知覚が我々の現実の行動を支配することがある.その例として,サブリミナル効果が挙げられる.見た・聞いたという自覚がないのに,行動が影響を受けてしまうのだ.本書「サブリミナル・マインド」でも,サブリミナル効果が具体例と共に取り上げられている.そして,親近性効果・単純提示効果として以下のような結果が指摘されている.

特定の対象をただ繰り返し経験するだけで,その対象に対する好感度,愛着,選好性などが増大する.これがこの効果の眼目です.特に「ただ繰り返し経験するだけ」というところがミソで,その対象について,とりたてて知識を与えられたり,何らかの関わりを持ったりする必要はないのです.

十分な数の反復をすれば,閾下の刺激のほうが単純提示効果が大きくなるのです.あるいは少なくとも,反復したときに効果が増大する度合いは閾下の場合のほうが大きいのです.

我々が自覚しつつ受け取る刺激よりも,無自覚に受け取る刺激の方が,我々の行動に大きな影響を与えるというのだ.当然ながら,無自覚に受け取った刺激を,自分の行動の原因として自覚することはできない.このように,我々の行動が潜在的なものに強く支配されており,我々はそのことを自覚できないとすれば,「自分の意志で行動する」とは何を意味しているのであろうか.後付けの解釈で,自分の意志で行動していると思い込んでいるだけではないのか.これが心理学の研究成果が主張する内容だ.

このことを知った上で,現代の人間社会を見てみると,我々の社会が依って立つ基盤が実は極めて脆いことに気付く.

民主主義の前提にあるのは,「自由な選択を許された責任ある個人」の人間像です.しかしこれはあくまでも建前で,コマーシャリズムと宣伝によって無自覚に踊らされ,マスコミを通じたサブリミナル・メッセージによって政治選択をおこなう現代日本人には,成り立たない前提かもしれません.

本書「サブリミナル・マインド」では,人間の行動が自覚されない潜在的過程に支配されていることの重大さを,次のような例で説明している.

極端な例として,闘犬が人をかみ殺したとしましょうか.さて,犬を罰するのか,飼い主を罰するのか? 犬は危険防止のため薬殺する,という発想はあっても,罪を償う責任能力があるから罰を与えるという発想はないはずです.ところで催眠にかけられた殺人者は,犬に近いか,飼い主に近いかとなると,ある程度,犬に近いという議論が出てくるわけです.ここでもし,健常人の行為もまた潜在的過程によって大きく支配されていると主張する心理学者が現れたら,法学の専門家たちはどう対処するのでしょうか.このような規範体系には疑問の余地がある,あるいは少なくとも無視できない曖昧さがあるということになるのではないでしょうか.そのうえ,ここでいう心理学者とは決して少数派ではなく,認知科学,神経科学を糾合した最新の多数派なのです.

著者は次のようにまとめている.

私たちが人間を見るとき,自己認識には多重性があります.本人にとってあくまでも自立と自由意志に基づく決断と行動であっても,はたからはそうは見えない.とりわけ,生理学的,客観的,あるいは集団的にデータを見る生物学者・心理学者にとってはそうです.そして今や,この周囲の他人の人間観が,本人のかけがえのない「自由」と「意志」を侵食し,むさぼり,滅ぼそうとしているかに見えるのです.(中略)このような自己認識の多重構造の中で,とりわけ近代的な自我,自覚するゆえに我ある自我,独立した意志を持つ単位としての個体,究極的な価値としての自由−−こうしたものは急速にその根拠を失い,崩壊してゆくというのが,私の見方です.

多くの人達が当然だと根拠なく信じている現代の人間観が崩壊した後,どのような人間観が生まれてくるのだろうか.いやもう既に生まれている.これからも生まれてくるのかもしれない.その中から人類はどのような人間観を選択していくのだろうか.その選択は自覚的なのだろうか.自分自身を知りたいと欲する人間にとって,実に興味深い問題が提示されている.

目次

  • 私の中の見知らぬ私―講義に先立って
  • 自分はもうひとりの他人である―自己と他者の社会認知心理学
  • 悲しいのはどうしてか?―情動と帰属理論
  • もうひとりの私―分割脳と「自己」
  • 否認する患者たち―脳損傷の症例から
  • 忘れたが覚えている―記憶障害と潜在記憶
  • 見えないのに見えている―いき下知覚と前注意過程
  • 操られる「好み」と「自由」―サブリミナル・コマーシャリズム
  • 無自覚の「意志」―運動制御の生理学と哲学
  • 私の中の悪魔―自由意志と「罪」をめぐって