4月 132010
 

弁論術
アリストテレス(Aristotelis),戸塚七郎(訳),岩波書店,1992

二千年も前に,これだけのことを考察し,まとめたことには驚嘆するが,現代の我々が読まなければならない本とは思わない.プラトンの一連の著作が,人間の死や生き方を扱っているがゆえに今読んでも示唆に富むのとは違い,弁論術というのは,当時のギリシア社会に特有の事情を反映したものであるがゆえに,その古さが隠せない.そんな気がする.

本書「弁論術」では,弁論を法廷弁論,演説的弁論,議会弁論の三種に分類し,それぞれについて相応しい弁論方法を述べている.「ソクラテスの弁明」(プラトン)を読んだことがあれば,当時の法廷弁論では,裁判官や観衆をいかに魅了するかが鍵であり,ことの真偽は二次的なものであったことは明らかだろう.真実かどうかが重要なのではなく,真実と思わせるかどうかが問題なのだ.だからこそ,ソクラテスは毒杯を仰ぐことになったわけだ.もちろん,クリトンらの説得にソクラテスが同意しなかったこともあるわけだが.ともかく,そのような事情に鑑みて,本書「弁論術」でアリストテレスは,聴衆に与える印象に特に拘っている.極めて現実的であり,そうであるがゆえに,当時のギリシア社会に特化した内容を多分に含んでいる.現代の我々が読まなければならない本とは思えないのも,それが理由だ.

それでも,鋭い指摘が随所に見られる.例えば,アリストテレスは格言について次のように述べている.

格言は弁論にとり大きな援けとなるのであるが,その一つは,聴衆が無教養であることによるものである.なぜなら,誰かが一般的な形で論じ,それが,自分が特定の事例について抱いている見解とたまたま一致することがあると,聴衆はいつでも悦びを覚えるものであるから.

なるほど.確かに,そうだろう.

本書「弁論術」では,弁論家であるゴルギアスが頻繁に引用されている.「ゴルギアス」(プラトン)において,ソクラテスは,弁論術は技術ではなく経験であり,しかも迎合の術であると断じている.その弁論術に目を向け,技術として体系化しようと試みているところがアリストテレスらしいのだろう.