6月 242010
 

以下は,私の自問自答の一部.

私自身,京都大学で研究に携わる一教員であるが,研究者が幸福であるための必要条件とは何だろうか.まず第一に挙げられるのは,『やりたい研究をやれる』ことだろう.そして,これだけではないだろうか.少なくとも,この条件を満たしていないようでは,つまり,やりたい研究をやれないようでは,研究者は幸福感を持てないだろう.

この条件の他に,誰でも思い付きそうなものとしては,

  • 有名な賞を受賞する
  • 十分な研究費がある

などがあるのかもしれない.実際,工業化学科の新入生に将来の夢を尋ねると,「ノーベル賞受賞」という回答が毎年必ずある.また,研究費獲得に明け暮れる研究者も少なくない.

しかし,これらは本質とは思えない.

受賞は,もちろん嬉しくもあり誇らしくもあることだろうが(私も賞はたくさんいただいてきた),あくまで研究成果を他者が評価した結果であり,自分の研究生活そのものではない.もし「受賞できなかったから私の研究は意味がなかった」と思うなら,そんな研究生活が幸福だったはずがない.ただの苦行だろう.少なくとも,私はそのような研究では幸せを感じられない.

研究費については,それを得るために,心底やりたいとは思えない研究をやらなければならないとしたら,幸せではないだろう.やはり,やりたい研究をやれることが第一のはずだ.

ここまでを認めたとして,では,どれだけの研究者がやりたいことをやっているだろうか.幸福な研究者だろうか.

幸い,私自身はハッピー&ラッキーな研究者生活を満喫しているが,みんなも同じだろうか.

もし幸せじゃないとしたら,どうしてだろうか.なぜ,やりたい研究がやれないのだろうか.何が邪魔をしているのだろうか.

例えば,「やりたい研究をやる自由がない」という場合があるかもしれない.もしそうなら,どうして,その場に留まっているのだろうか.やりたい研究をやれるところに行けばよいのではないだろうか.「そんなうまくいかない」などいくらでも反論がありそうだが,無理だと信じているのは本人の勝手ではないだろうか.研究者になれるくらいに頭がいい人なら,実行に移さない理由なんて何個でも列挙することができる.そうして,自分で自分を檻に閉じ込めているだけのことではないだろうか.もしそうなら,自分が思い付くかぎりの理由を一度書き出してみて,それが真実かどうかを批判的に吟味してみるとよいかもしれない.人は誰でも,生まれてから今までの間に,親や教師や社会から,様々な信念を植え付けられている.信念には本物もあれば偽物もあるだろう.いずれにせよ,もはや無意識のレベルで信じ切っているものなので,普段はどのような信念を自分が持っているかということにさえ気付かないはずだ.まず,それらを認識する必要がある.認識しさえすれば,不要な信念を捨てることもできるだろう.

例えば,「やりたい研究をやる研究費がない」という場合があるかもしれない.もしそうなら,研究費がないと愚痴をこぼす前に,やれることをやるのが先ではないだろうか.自分がそれをやるべきであることを信じて,今自分ができることに集中するなら,それが世のため人のためになるかぎり,必要な支援は得られるのではないか.それでもできないというなら,実はやりたくないか,やる気がないだけのことなのかもしれない.いずれにせよ,先と同様,自分の信念を問い質す必要がありそうだ.

例えば,「やりたい研究がわからない」という場合があるかもしれない.人生の目標や夢はわかりませんと答える学生も少なくないのだから,研究者が「やりたい研究がわからない」と言ったところで驚くにはあたらない.この場合は,目の前にあることに一生懸命に取り組むのがよいのではないだろうか.その中で,自分がしたいこと・したくないことを見極め,したいことをするようにすればよい.あるいは,そもそも研究者になることが自分の幸せと結びついていないのかもしれない.だから,やりたいと思えないのかもしれない.

研究以外の仕事も同様だろう.

他人の価値観を,社会の価値観を,自分に押しつける必要はない.ただし,世の中は因果応報だ.自分の行動には自分で責任を取る必要がある.いや,自分の思考には自分で責任を取る必要があると言うべきか.無意味な呪縛から,自分自身を解き放とう.

さあ,今この一瞬にも,私は選択をしている.この記事を書く書かない.アップロードするしない.すべての選択が,自分の意識を高める方向に為されますように.

あなたもそうだ.今のその選択が,あなたの意識を高める方向に為されていますように.