9月 082010
 

日本学術会議の答申「大学教育の分野別質保証の在り方について」 の続き.以下は,大学教育を担う教員の「再建」について.

本報告書で述べてきたような教養教育の実現のためには、教員の役割が重要であることは言うまでもない。TeachingからLearningへの転換も、教育者としての優れた能力を持つ教員の指導の下ではじめて適切な効果を上げることが可能になる。しかし、大学教員の養成に関して、日本の大学院教育は今まで自覚的に取り組んできたとはいえない。大学院教育は、主として専門分野の研鑽を中心とした研究者養成に重点があり、同時に大学の教員養成の役割も担っているという認識自体が希薄である。まして、本報告書で論じてきたような教養教育を担当できる教員の養成にいたっては、全くの手付かずといってよいであろう。現状は、個々の研究者が教員生活を送る中で、自主的努力によって良き大学教員となることを期待し、その中から教養教育を担い得る優れた大学教員が生まれてくることを待っているというのが実情である。

しかも近年の大学をめぐる状況は、このような自生的な構造をも破壊しかねないものとなりつつある。内外における競争の激化は、それによる研究領域の更なる細分化傾向と相俟って、大学院における教育を一層余裕のないものにしている。また、少子化による大学教員ポストの減少による博士号取得者の就職難も甚だしい状況を呈しており、そうした中で、論文数や学会発表数などの多寡が大学教員採用の評価基準として過度に重視される傾向が強まっているため、若手研究者は焦点を絞った短期的に成果の出やすいテーマでの研究や論文執筆を余儀なくされている。その結果、長期的に大きなテーマに取り組んだり、自らの専門分野とは異なる分野のことを学んだりする機会は減少せざるを得ない。このような事態は、従来教養教育の中核的担い手であった人文・社会科学系の研究者養成においても進行しており、大学における教養教育の未来は、残念ながら暗いと言うべきだろう。

大学の教養教育を充実させるためには、第一に、現役の大学教員の意識改革から着手しなければならない。第二に迂遠なようであるが、大学院における教育のあり方の再検討から始める必要がある。さもなくば、教養なき教員が反面教師として教養教育を行うという悲惨な状況を招くことになるだろう。まず自明のこととして、大学教員は本来専業の研究者ではなく、教育と研究の両方の職務を担当する存在であることが確認されねばならない。大学はFDなどを通じて、教養教育の在り方についての討議と研修に着手すべきである。同時に、大学執行部は大学としての教養教育の在り方に関する方針を明確化し、構成員に周知することが必要である。大学教育における教養教育は、専門教育と並んで、否それ以上に重要であることの認識が、学内に共有されるよう務めなければならない。同時に大学院教育においては、例えばプレFDとして、大学教員になるための訓練や教育が施されることが必要である。TA制度も、大学院生への経済的支援という側面だけではなく、将来の良き教員を養成する教育システムとして活用されるべきである。

また、大学院の教育課程においても、積極的に他の分野との交流を図る仕組みをつくるなど、本報告書で述べてきた学士課程教育における教養教育の理念と接合するような教育を構築していくことが必要である。例えば、アウトリーチ活動などに取り組むことを通じて、自らの専門分野と社会とのかかわりについて考える機会を与えることも有意義であろう。また、自らの専門とは遠い分野の学習を可能にするような副専攻的カリキュラムの構築も考えられる24。大学院での教育は専門性を極めるという意味で視野の狭窄を必然的に伴うので、意識的にその拡大を可能にする機会を与えることが重要である。

なお、上記に述べたこととは別種の問題として、近年、多くの大学において、教養教育担当を非常勤講師に依存する比率が高まっていることも重大な懸念材料である。これは、短期的に大学としての教養教育の実施体制が脆弱になっていることを意味するに留まらず、中長期的には、このまま安定した雇用機会が縮小し続ける状況が続けば、教養教育を担う教員層の再生産自体が不可能になることを意味するものである。現在、大学における教養教育の担い手を、定職を持たない不安定な身分の人々に委ねることで経費の削減を図ることができても、それは人的資源の一方的な消尽であり、未来へのフリーライドに他ならない。大学人の全体が危機の構造性を自覚し、一刻も早く破局を回避するための行動を取るべき状況に立ち至っているのではないだろうか。

9月 082010
 

日本学術会議の答申を紹介しよう.以下は,大学の教養教育および語学教育に関する部分の抜粋だ.

<学士課程の教養教育の在り方について>

まず、現在の大学で行われている教養教育の多様性を認めつつ、その原点が民主主義社会を支える市民の育成にあることを再確認することが必要である。(中略)一方、市民的教養自体が、戦後から現在にいたる時代の変遷の中で大きく変容してきており、大学がユニバーサル化した現代にあっては、かつての「豊かな人生」へのパスポートとしての教養概念は既に失効して久しい。市民性を、社会の公共的課題に対して立場や背景の異なる他者と連帯して取り組む姿勢と行動として再定義した上で、現状の課題や困難を、未来において作り変え、改善されるべき対象と考えるような想像力、構想力を培うことが教養教育の重要な内容となる。

<日本語運用能力>

語るべき内容を身に付け、それを場面に応じて日本語で語り、記述する能力の育成は、学士課程全体を通じて取り組まれるべきものではあるが、ここに教養教育が果たす役割はとりわけ大きい。国際共通語としての英語運用能力は、このような日本語運用能力を踏まえてのみ習得できると言うべきである。

<国際共通語としての英語教育>

グローバル化した社会のコミュニケーションにおいては、情報通信技術の発展も相俟って、書き言葉が話し言葉と並んで、あるいはそれ以上に重要な役割を果たしている。それゆえ、音声言語と並んで書記言語(読み書き)の学習を重視すること。

グローバルな局面で、文化と言語を異にする他者と協同し交流する能力を育成するために、アカデミック・リーディング、アカデミック・ライティング、プレゼンテーションを核とする「英語によるリテラシー教育」を構想する必要がある。その際、異文化との接触において自らのあり方と立場を説明し理解してもらうことの重要性を思えば、日本事情・日本文化は学習内容の重要な要素となるはずである。