9月 092010
 

日本学術会議の答申「大学教育の分野別質保証の在り方について」 の続き.以下は,社交性の獲得あるいは奥行きのある人間の育成について.

大学は高等教育機関であると同時に、否、それ以上に、ある種の社交空間である。確かに大学には建物や教室、実験室があり、教員がおり、論文や著書が生み出され、そこに学ぶ学生は就職していくが、論文数や就職率、資格取得率などの目に見える「客観的成果」は、社交空間としての大学の一面に過ぎない。人生のある時期をこの社交空間で過ごし、人間が成長していくことに関して、明確な基準や定量化可能な指標では把握できることはむしろわずかであろう。

人は長じて、なぜ学生時代を懐かしむのか。そこには、講義などの制度的な仕組み以外の大学での生活があるからである。名物教授の立ち居振る舞い、学生食堂の食事、クラブ活動や様々なイベント、多様な人々との出会いや友人との交流、大学周辺の街の雰囲気など、大学という社交空間で経験した生活の「匂い」とでも言うべきものは人の一生を通じて残り続ける。仮にこのような社交空間としての大学の「匂い」を隠れたカリキュラムと名付けるとすれば、これこそが人間の成長の糧を提供しているのかもしれない。このような隠れたカリキュラムによる成長が、人間の幅を広げ、専門以外の事柄について知的に会話することや、全く文化的背景の異なる人間と交流することを楽しめる人間を生み出すのである。

本報告書では、現代の大学教育における教養を考える際に、敢えて、異なる他者との連携と協働を可能にする「市民的教養」という視点を強調してきた。しかし、教養には市民教育とは異なる、この世を生きる一人ひとりの個人にとっての意義というものが存在することも指摘しておくべきであろう。端的に言えば、教養を身に付けることによって、歴史的・空間的な視野が拡大されることの重要性である。

さらに言えば、「教養ある人」という言葉が、歴史と地域を越えて一定の意味合いを持っていたことにも着目すべきであろう。それは「文の人」、あるいは「幅のある人格」、「豊かな見識」などなど、様々な言葉で形容されるが、そこにはいわゆる専門的知識の多寡に還元できない「人柄」への着目がある。「賢慮(prudence)ある人柄」と言ってもよいであろう。このような「人柄」は、効率よく専門的知識を習得することによってのみ形成されるものではなく、むしろ非効率ともいえる営みを通じて、つまり隠れたカリキュラムに見られる「無駄の効用」を積極的に認めることによって育成されるものではないだろうか。

教育は人類の永遠の課題である。本報告書は、明らかに2000年代以降の日本社会の構造変化に対する応答という側面を持つ。しかし、このような時代拘束的な性格を超えて、普遍的に妥当すると思われる教育の機能は、煎じつめると、未来の主人公の精神に「火を点ける」ことであろう。数年の大学教育において身に付けた最先端の知識の有効期間などはたかが知れている。「火の点いた」精神が大学を終えた後も、生涯を通じて知的生活を送ることが重要である。そのためにこそ、大学は明示的なカリキュラムと隠れたカリキュラムとを総動員すべきなのである。

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