9月 122010
 

大学論──いかに教え、いかに学ぶか
大塚英志,講談社,2010

まんが原作者・批評家である大塚英志氏が,政府のコンテンツ政策にのって新設された神戸芸術工科大学に,まんがを教える教授として着任し,自らカリキュラムを作り上げていった経験をつづったエッセー.プロのまんが家を目指す一期生の成長を厳しくも暖かく見守る様子がよく伝わってくる.ただ,まんがに興味がない私には,まんが用語(まんがのタイトルも含む)は珍紛漢紛だが...

このブログでも時々ふれる教養について,日本学術会議の見解は「回答「大学教育の分野別質保証の在り方について」」,「大学教育を担う教員の「再建」」,「社交性の獲得あるいは奥行きのある人間の育成」に引用してある.これが偉い人達の見解である.

一方,本書「大学論」で大塚氏は次のように語る.

大学生の教養なり学力が崩壊した,という言い方は今に始まったことではない.

まあそもそもがぼくのようなサブカルチャー出身者に「大学教授」の肩書きを大学自らが乱発していること一つとっても,大学の先生の「学力低下」の方がはるかに問題なのではないかと思う.

何というか,その人の「学問」や「教養」の幅が見通せてしまう大学の先生が,年齢が下がれば下がるほど増えていく印象がある.それは文学でも社会学でもそうなのだけれど,団塊世代の学者はあまり勉強していない人が多いような気がしてならない.同じことは社会人にも言えて,例えば新聞の論説委員クラスがこの世代になった時点で新聞のレベルがとてつもなく落ちた気がしてならない.

大学生の質の低下を歎く大学の教員の質をもっと問題にすべきだ.少し前なら旧制高校や岩波的教養を基準に「今の学生はバカだ」と主張したがったのに対し(それもつまらない基準だけど),現在ではそもそもが六十代の教授はいわゆる全共闘世代で学生時代の大学は休講だらけで,しかし議論と政治は大好きなまま学者となり,その下の五十代前後は「おたく」や「新人類」で学問とおたく的ウンチクを混同し,それ以下の研究者はそれが大学の教員だ,と思っている,という教員の質の低下の負の連鎖を何とかしろよ,と思う.

なかなか手厳しいが,本書「大学論」には,著者が依って立つ基盤がどこにあるのかも明らかにされている.それは,著者の師である千葉徳爾だ.その千葉徳爾が教えを乞うたのが,柳田國男だ.この偉大な学者たちの学問の方法が著者に多大な影響を与えていることが,本書の至る所で吐露されている.

千葉と柳田の関係を見ていった時,柳田は何かの知識や仮説を千葉に教えようとも継承させようともしていないことがわかる.そしてただ千葉もまた一方的にその「方法」のみを学んでいく.(中略)千葉は柳田のこのような学問の在り方,つまり,自らその方法から始まり領域に至るまでを構築していく在り方を「自学」と読んでいる.柳田が「自学の人」であったから自分が教えを乞うたのだ,とさえ言う.

ぼくが幸福であったのは千葉がその学問を体系立てていくまさにその瞬間に,かろうじて間にあった教え子であった,ということだ.千葉の「自学」としてのその学問の仕上げを見たことで,大学で教える,というのは,つまり,自前の体系をそのカリキュラムから作り上げることであり,教えるのは知識や技術ではなく,まず方法そのものであるべきだということを目撃することができ,何より「生徒」としてそこにいることができた.

こうして,大塚氏は,新設された神戸芸術工科大学で,まんがを教えるためのカリキュラムを自ら作り上げていく.そこでは,教えるべきは小手先の技術ではなく,方法そのものであるという姿勢が貫かれている.どうしても逃げられない状態に追い込まれれば,必要に迫られれば,小手先の技術などはすぐに身に付けることができると.それよりも教えるべき大切なことが,大学にはあるはずだと.

本書「大学論」を読んでみて,大学での教育の在り方について,改めて色々と考えさせれらる.私も自分なりの教育目標を掲げ,カリキュラムを作り上げていくつもりだ.まずは,自分が担当する講義から.「研究・技術・自分のマネジメント」は自分なりの試行錯誤の始点でもある.

大学教育に関心があるなら,まんがなんて自分の専門に関係ないなどと言わずに,まあ,本書「大学論」を読んでみるといいだろう.

ところで,私は工業化学科に属しており,著者はまんが表現科に属している.「工業化学科」と「まんが表現科」では,どちらが偉いのだろうか.

例えば,まんがなんかで大学を名乗るなという意見もあるだろう.せいぜい専門学校で十分だと.この主張の根拠はどこにあるのだろうか.工業化学科の方が産業に貢献しているのか.いや,それならコンテンツ産業も重要な産業であり,まんがやアニメをみくびってはいけない.工業製品の方がまんがより価値があるのか.いや,工業製品の価値を認めるにしても,まんがに人生観を揺さぶられる人もいるわけで,まんがやアニメをみくびってはいけない.まんが表現科なんて所詮は職業訓練をしているだけということだろうか.それなら,法科大学院はどうだろう.これこそ職業訓練ではないのか.いや,予備校か.というより,そもそも大学は職業訓練のために存在してきた.もしかして,ノーベル賞を取れるかもしれないから偉いのか.いや,アカデミー賞の方が凄いという人もいるかもしれない.

さて,このことについて大学教員や大学生はどう考えるのだろう.それとも,大学全入時代の今,もはや大学の価値を云々すること自体に意味がないのだろうか.名前なんてどうでもいいのであって,そこで何を学び,いかに成長するかだけが問題なのだと.それならそれでいい.あなたも私も,しっかり学ぶことにしよう.

ところで,カケアミやトーンって何ですか.結局,わからないまま...

目次

  • 二年目の儀式
  • ぼくは大学でいかに学んだか
  • 何故「描く方法」を教えるのか
  • つくり方を「つくる」ということ
  • まんがはいかにして映画になろうとしたのか
  • ルパンの背中にはカメラのついたゴム紐が結んである
  • 日本映画学校と十五年戦争下のカリキュラム
  • 一瞬の夏
  • ジャンルを「翻訳」するということ
  • 高校でまんがを教える
  • AO入試は下流なのか
  • 千葉徳爾とぼくの「自学」