10月 312010
 

研究室卒業生4名が集まり,ぎおん阪川で美味しい京料理を食べながらの会話.

卒業生: 学生の工場見学に対応することがよくあるんですけど,工場見学の後,礼状を送ってこない学生が多いんです.今時,手紙や葉書でとは言わないですけど,名刺にメールアドレスが書いてあるんですから,メールで御礼を述べるくらいはして欲しいですよね.しかも,こちらから「ありがとうございました.何かあれば連絡して下さい」と送っても,それにすら返信してこない学生もいるんです.

私: 工場見学でお世話になっておいて礼状も送らないの? それは酷いなぁ.

卒業生: 実は,プロセスシステム工学研究室の学生にもいましたよ.

私: えっ,まじで!? (絶句)

少なからず衝撃を受けた.いくらなんでも,メールで御礼を伝えるくらいはするだろ.ふつう...

この文章を読んだ学生さん,工場見学やインターンシップへ行ったとき,お世話になった方々に礼状を送りましたか?

この文章を読んだ先生方,お宅の学生は大丈夫ですか?

あなたのために何かしてくれた人に対して感謝の気持ちを示すかどうかで,あなたの印象は大きく変わります.あなたのために何かしてくれたということは,機会費用がかかっているという事実を忘れてはいけません.(中略)お礼状は書いて当たり前で,書かないのはよほどの例外だと思ってください.残念ながら,実際にそうしている人は少ないので,マメにお礼状を書けば目立つこと請け合いです.

これは,「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義」で起業家でもあるティナ・シーリグが述べていることだ.この本の読書記録には次のようにも書いておいた.

これを読んだ学生は学習しろよ.会社訪問をしたら礼状を書く.インターンシップに行ったら礼状を書く.ふ〜んとブログを読んでいるだけでは意味がない.学んだことを自分の行動に反映させろ!

こんな注意が本当に必要だとは想定外だった.自筆で手紙や葉書を書けとまでは言わないから,せめて,メールくらい送ろう.

まるで小学校だけど,研究室で『挨拶運動』するぞ!

10月 302010
 

ぎおん阪川(さかがわ)を訪れるのは初めて.以前,阪川を予約しようとしたが8名の個室が空いていなかったので,桜田にしたことがある.そのときは,桜田で季節感のある京懐石をいただき,大満足だった.

今回も,大いに期待しつつ阪川へ.阪急河原町駅から,八坂神社方向へ歩き,花見小路,一力を超えて,次の通りを祇園町南側へ下り,クネクネとあみだくじをしているかのように歩く.京都祇園らしい風情.少し早く到着したが,1階奥の座敷に通していただく.既にカウンターは満席だ.座敷席は掘り炬燵.

突出しは,ほうれん草と松茸の御浸しなど.やさしい味付けが実にいい.とりあえずビールで乾杯すると,次はお造り.鯛,鮪,烏賊,雲丹.海苔が副えられていて,鮪,烏賊,雲丹を巻いて食べる.中でも,鯛が絶品.凄く美味しい.子供のリクエストで回転寿司に行くときにも鯛を食べることがあるが,本当に同じ魚なのか?と思う.無論,比べるべきではないのだが.

その後は,冷酒をいただきつつ,椀もの,焼き魚で鰈,松茸に加えて鱧も入った土瓶蒸し,椀もので無花果,鰌ではない魚の柳川,煮魚で鮎などをいただく.いずれも非常に美味しいのだが,なぜか魚系料理が多いのが不思議.ご飯とお漬物をいただき,お腹も一杯.

料理はいずれも大変おいしく,大満足.ただ,表現するのが難しいが,驚きがなかったかな.

阪川 京料理 / 祇園四条駅河原町駅三条京阪駅

夜総合点★★★★ 4.5

10月 282010
 

タオ―老子
加島祥造,筑摩書房,2006

凄い訳だ.中国古典なのに,「インターネット」などの言葉も登場する.まさに,現代版の老子.これはこれで素晴らしいが,老子の言葉をそのまま読んでみたいので,もっと固い訳本も読んでみよう.

それにしても,人間についての洞察に感嘆させられる.2500年も前でこうなのだから,一体全体,人間って何をしているのかとも思う.スピリチュアル系がもてはやされる現在,色々なことが書かれた本が出版されているが,果たして老子が語った以上のことを書いている本があるのか.まあ,老子の行間を活字にしたというなら,それはそれで意味があると言えるのだけれど.

読んでおいたら良いと思う.

目次

  • 道―見えないパワー
  • 徳―現われたパワー
10月 262010
 

無限論の教室
野矢茂樹,講談社,1998

先日,「アキレスと亀」のパラドックスでゼノンが問うたものは何だったかについて少し書いた.無限級数の和が収束しますよね,なんてレベルで理解したと思っているようでは,私と同じで愚劣なのだということを.

この有名な「アキレスと亀」の話は,本書「無限論の教室」のイントロに過ぎない.この誰でも知っているパラドックスを出発点にして,ゲーデルの不完全性定理まで進む.本書を読んで,曲り形(まがりなり)にも,ゲーデルの不完全性定理が示そうとしていることや,その証明の雰囲気はつかめた.以下,私が理解できた範囲で,簡単にまとめておきたい.

無限は存在するのか

「アキレスと亀」でも他でも構わないが,とにかくゼノンのパラドックスについて考察する過程で,無限というものが実際に存在するという「実無限」の立場と,無限は実存しないという「可能無限」の立場があることが示される.実無限の立場では,無限個の要素を持つ自然数の集合{0,1,2,3,・・・}が存在する.無限に数字が続く無理数も存在する.一方,可能無限の立場では,そうは考えない.0を始点に1を加え続けるという操作によって,0,1,2,3,・・・という自然数の系列を発生させることができるが,この操作はいつまでたっても終わらず,無限個の要素を持つ自然数の集合{0,1,2,3,・・・}などというものは存在しないと考える.無理数もその計算規則があるだけで,「これが無理数です」という形で与えられるようなものではないと考える.どこまで計算を進めてもよいが,いきついたところまでの有限でしかないと考える.

自然数の集合なんてないとか,無理数なんてないとか言い出すと,数学はどうなるのか?と心配になるが,実際その通りで,数学者は実無限の立場を愛する.数学者の愛の楽園,それがカントールの無限集合論だ.

カントールのパラドクス

愛すべき無限集合論だが,厄介な問題に直面する.

「すべての集合の集合」が存在するとしよう.このとき,その「すべての集合の集合」のベキ集合の濃度は「すべての集合の集合」の濃度よりも大きくなることが証明される.しかし,ある集合の濃度が「すべての集合の集合」の濃度よりも大きいというのは明らかにおかしい.そこで,カントールは「すべての集合の集合」は存在しないとする.しかし,そんな投げやりな態度でいいのだろうか...

ちなみに,ここで言う濃度とは,無限の程度を比較するための指標だ.例えば,自然数の集合の濃度よりも,実数の集合の濃度は大きいなど.そして,濃度を比較するときに便利なのが『対角線論法』である.この対角線論法は超強力で,無限について考えるとき,至る所に登場する.

ラッセルのパラドクス

無限集合論が孕む矛盾を指摘したのが,ラッセルだ.

いま,自分自身を要素として持たない集合をラッセル集合Sとする.つまり,

  xはxの要素でない ←→ xはSの要素である

だとする.ここで,xにSを代入すると,

  SはSの要素でない ←→ SはSの要素である

となるが,これは明らかに矛盾している.

実は,このラッセルのパラドクスも対角線論法を用いて説明できる.

縦軸と横軸のある2次元平面を考えよう.横軸xは要素を,縦軸yは集合をあらわすものとして,(x,y)が1ならば,yはxを要素として持ち,0ならば,yはxを要素として持たないとする.縦軸yには,存在しうるすべての集合を並べておく.実無限の立場に立つなら,それは可能だ.

ここで,x=yの対角線について考える.(a,a)が1ならば,aはSの要素ではない.このとき,(a,a)を0に反転させる.(b,b)が0ならば,bはSの要素ではない.このとき,(b,b)を1に反転させる.

こうして得られる対角線は,まさにラッセル集合そのものを表している.しかし,対角線上の値を反転させて作ったラッセル集合は,縦軸yにそって並べたすべての集合と異なる.つまり,すべての集合にラッセル集合は含まれていなかった.すべての集合なのに...

直観主義と形式主義

この苛立たしい状況をなんとかしようと登場したのが直観主義だ.直観主義は,可能無限的な立場から対角線論法にも異を唱える.カントールのパラドクスについて,可能無限的な立場から言えば,すべての集合を体系的に作り出す規則などないのだから,「すべての集合の集合」などない.これでおしまい.この勢いで,ラッセルのパラドクスも退けてしまう.

ところが,可能無限的な立場を突き詰めるが故に,排中律(否定の否定=肯定)が成り立たなくなってしまう.これはこれで誠に恐ろしい事態だ.論理の根底が崩れ去ってしまう...

このピンチに立ち上がったヒルベルトは,形式主義を掲げて,直観主義に猛反発する.形式主義とは,形式化され純化された公理系とその無矛盾性・完全性を証明するメタ数学の二本立てを提唱する立場だ.ヒルベルトの旗の下,無限集合論を公理化し,その無矛盾性と完全性を有限の立場のメタ数学で証明することを目指したヒルベルト・プログラムの遂行に多くの数学者が集結する.

さて,この争いの結末は如何に!?

ゲーデルの不完全性定理

カントールの無限集合論を守ろうとしたヒルベルト・プログラムを葬り去ったのがゲーデルの不完全性定理だ.その定理は,以下の2つからなる.

第一不完全性定理:無矛盾で完全な自然数論の公理系を作ることはできない.

第二不完全性定理:有限の立場のメタ数学では自然数論の無矛盾性は証明不可能.

実は,この不完全性定理さえも,対角線論法によって導出される.恐るべし,対角線論法!

対角線論法によるゲーデルの不完全性定理
対角線論法によるゲーデルの不完全性定理

再度,縦軸と横軸のある2次元平面を考えよう.横軸xと縦軸yは同じ概念をあらわす.

点(b,o)は「bはoである」という概念をあらわすとすると,点A(a,a)は「aはaである」という概念を,点B(b,b)は「bはbである」という概念をあらわす.つまり,対角線は「zはzである」という概念の集合となる.

この対角線上の点に「〜は証明できない」という概念を適用する.この概念も横軸xおよび縦軸y上のどこかにあるはずなので,その座標をgとする.つまり,点α(a,g)は「A(aはaである)は証明できない」という概念を,点β(b,g)は「B(bはbである)は証明できない」という概念をあらわす.

さて,このとき,点G(g,g)は何を意味しているだろうか.まず,点G(g,g)は対角線上の点なので,「gはgである」という概念をあらわしている.次に,点G(g,g)はy=g上の点なので,「G(gはgである)は証明できない」という概念もあらわしている.

つまり,

  G = 「Gは証明できない」

ということになる.これは極めて厄介な状況だ.

というのも,もしGが真ならば,Gは証明できない.つまり,真であることさえ証明できないような公理系は不完全であると宣言されてしまう.

一方,もしGが偽ならば,Gは証明できる.しかし,これは,「Gは証明できない」は証明できる,と主張しているのであり,明らかに矛盾している.

つまり,不完全であるか矛盾かのいずれかであることがばれてしまった...これがゲーデルの第一不完全性定理である.ここにヒルベルト・プログラムは葬り去られた.

それにしても,恐るべし,対角線論法!

ちなみに,概念なんて言葉(メタ数学の言葉)を使って説明をしているが,実際には,ゲーデル数化によって概念は自然数に割り付けられるので,上記の説明は自然数論の世界の中で語られうる.つまり,無矛盾で完全な自然数論の公理系を作ることはできないわけだ.

おわりに

本書「無限論の教室」を読んで私が理解できたのは,このようなところだ.いや,理解できたなどと言ってはならないだろう.理解してはいないのだから.とりあえず,頭に入ったのはこれくらいだということになる.私のことはともかく,よく書けた本だと思う.大変勉強になったし,自分の愚劣さも思い知ることができた.

先生と生徒2人の対話形式で話が進む.だが,よくある対話形式の本と違うのは,第三者の視点で会話が綴られているのではなく,一方の生徒の視点で書かれているということだ.この点も含めて,よく書けた本だと思う.普通の教科書で勉強する気はしないが,無限とは何かを知りたいという人にはお勧めだ.

目次

  • 第1週 学生が二人しかいなかったこと・教室変更
  • 第2週 気まずい時間・アキレスと亀・自然数は数えつくせない
  • 第3週 チョコレートケーキ・パラドクスへの解答・可能無限と実無限
  • 第4週 全体と部分・キリンとカバ・次元の崩壊
  • 第5週 実数・独身製作器としての対角線論法・喫茶店のネコ進法講義
  • 第6週 実数とは何か・ピタゴラスと豆大福・余興
  • 第7週 マジタ・ベキ集合と概念実在論・羊羹の思い出
  • 第8週 一般対角線論法・無限の無限系列・カントールのパラドクス
  • 第9週 土手の散歩・ラッセルのパラドクス・嘘つき・自己意識の幻想
  • 第10週 直観主義・パラドクス断罪・虚構と排中律・ブラウアーの手袋
  • 第11週 暑い部屋・形式主義はいかにして排中律を取り戻そうとしたか
  • 第12週 ゲーデルの不完全性定理・G・インドのとら狩り
10月 252010
 

重い.実に重い...

この大ヒットしたブロードウェイミュージカル”Spring Awakening(春のめざめ)”を観劇した大人は,思春期の頃の自分をメルヒオールやベンドラに重ねつつ,今の自分を彼らの父親や母親の姿に重ね合わせるのだろう.それだけではない.私の場合,厳格で権威的で,かつ狡猾な校長や教師も自分を重ねる対象となる.ストーリーそのものは単純明快だが,大人と子供,そして社会との関係について考えさせられる内容だ.死も含めて...

「春のめざめ」は,極めて保守的な19世紀のドイツを舞台に,思春期の子供たちの性的なめざめをストレートに表現した作品.劇作家フランク・ヴェデキントが1891年に本作「春のめざめ」を発表した当時の社会は,この内容を受け入れられるようなものではなかったのだろう.この戯曲が上演されるのは21世紀を待つことになるが,内容も演出も斬新な「春のめざめ」への反響は大きく,2007年にはトニー賞主要8部門を受賞している.

良かったが,スッキリとはしない.メルヒオールは,社会を恨まず,自責の念を克服し,生きていけるのだろうか.

今回,ブロードウェイミュージカル”Spring Awakening(春のめざめ)”を劇団四季京都劇場で観劇した.「WICKED(ウィキッド)」,「A CHORUS LINE(コーラスライン)」に続いて今年3作目のミュージカル観劇となる.

「春のめざめ」についての蛇足

途中,メルヒオールの自宅に悩めるモリッツが訪ねてくる場面がある.メルヒオールの母親は,モリッツの顔色が悪いのではと心配しつつ,メルヒオールがゲーテの「ファウスト」を読んでいることに戸惑いを隠せない.

ここで,ふと疑問が湧いてきた.劇場には実に多くの観客が来て,この「春のめざめ」を見ているが,ファウストを読んでいる息子に,なぜ母親が戸惑ってしまうのかをわかる人はどれくらいいるのだろうか.つまり,ファウストを読んだことがある人が一体どれくらいいるのだろうか.

ファウストと言えばヨハーン・ヴォルフガング・ゲーテの代表作であり,世に知られた,非常に技巧的な詩である.でも,それだけであれば,母親は戸惑う必要などない.ましてや,メルヒオールもモリッツもそんなものを好き好んで読みはしていなかっただろう.悪魔メフィストフェレスと契約したファウストが何をしたかを知っていれば,この母親の苦悩はよくわかる.

米原万里氏が「不実な美女か貞淑な醜女か」において,帰国後,ほとんどの同級生が誰も文学史に載るような作品を読んでいないことにショックを受けたと告白しているように,古典の作者とタイトルの組み合わせを○×問題で解答はできても,中身は一切知らないなんていうのが日本の実情だろう.竹内洋氏が「教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化」で呟くように,今更,西洋万歳の教養主義が復活する必要などないだろうが,そうは言っても,海外の古典を知らないと海外の文化を楽しみ尽くせないのも確かだ.

ともかく,メルヒオールに共感すると自称するなら,「ファウスト」を読んでみるといい.なぜ彼がファウストを読み,母親が困惑したかがハッキリとわかるだろう.それだけではない.そこに,ベンドラの姿も見てとるはずだ.崩壊していく家庭の悲惨ささえも...

10月 242010
 

彼女の誕生日.「美味しいステーキを食べに行きたい」というリクエストに,子供たちも大賛成.そこで,子供を連れて行けて,自宅から遠くなく,ランチを食べられる,美味しいステーキ屋さんを探した.そして見付けたのが「鉄板焼 しま田」.1ヵ月ほど前に4人で予約しておいた.

北野白梅町まで市バスで行き,そこから嵐電で妙心寺まで.昼食後に嵐山へ出掛けることにして,一日乗車券500円を購入する.100周年記念で子供は無料.妙心寺駅から竜安寺方向へ線路沿いに歩くとすぐに,「鉄板焼 しま田」が見付かる.

鉄板焼 しま田@京都,妙心寺
鉄板焼 しま田@京都,妙心寺

民家の玄関という感じの入口で靴を脱ぎ,一番奥のカウンター席へと案内される.定員は5名かな.家族4人でカウンターは貸し切りとなる.

マスターの「何にします?」という問いに,昼膳らんちから国産牛ヒレステーキを4名分注文した.標準はヒレステーキ100gに温野菜,サラダ,ご飯,赤だし,香物がついて1500円.「子供には多いかな」というマスターに,「100gは食べますよ」と答えて,200g×1,150g×1,100g×2で注文する.大人は,ご飯をガーリックライスにしてもらう.

温野菜を目の前で焼いてもらう@鉄板焼 しま田
温野菜を目の前で焼いてもらう@鉄板焼 しま田

まずは温野菜から.じゃがいも,にんじん,さやいんげんを,目の前のカウンターでマスターが焼いてくれる.こんがり焼いたガーリックが副えられた皿に,ボリビア産のピンク色の岩塩を盛ってもらう.温野菜は十分に味がついているので,私はそのまま食べるのだが,長女5歳は隣で塩をつけまくる.

和牛ヒレステーキを目の前で焼いてもらう@鉄板焼 しま田
和牛ヒレステーキを目の前で焼いてもらう@鉄板焼 しま田

温野菜の次は和牛ヒレステーキ.まずは,小さめの肉が焼かれた.手際よくサイコロ状に切られたステーキを4人に分けてもらう.

美味しい和牛ヒレステーキ@鉄板焼 しま田
美味しい和牛ヒレステーキ@鉄板焼 しま田

ここに店を開いてから25年.その前に六本木で6年ほどやっていたというマスターの焼くヒレステーキは,焼き具合も完璧で,柔らかくジューシーで,非常に美味しい.リーズナブルな価格で提供するために,昼善らんちのヒレステーキにはブランド牛を使わないけれども,それでも,よい肉が手に入らないときには店は閉めるのだとか.ちなみに,夜の特選和牛は近江牛になる.

大きな和牛ヒレステーキ@鉄板焼 しま田
大きな和牛ヒレステーキ@鉄板焼 しま田

続いて,巨大なヒレ肉の塊が焼かれる.とても分厚いステーキだ.今度はサイコロではなく,平たい少し大きめのサイズで,4人の皿へ.味付けも少し変化している.さらに,巨大なヒレ肉の一部は,じっくりと焼かれて,味付けも濃くして,4人の皿へ.素晴らしく美味しい.彼女も「凄く美味しい!」と大満足の様子.子供たちも100gで満足してはいない.美味しいねと言いながらドンドン食べる.

ガーリックライス@鉄板焼 しま田
ガーリックライス@鉄板焼 しま田

和牛ヒレステーキを焼き終えると,その鉄板でガーリックライスを作ってもらう.ここまで,ほとんどご飯に手をつけていなかった長男7歳が,「○○くんもこれ食べたい!」と言うと,「それじゃ,ここにご飯を入れましょう」とマスター.急遽,3人分にしてもらう.

当然ながら,長男がガーリックライスを食べるのを,長女が黙って見ているわけがない.「○○ちゃんも食べる!」ということになり,彼女のガーリックライスを半分以上食べてしまった.最後には,私のガーリックライスまで奪われる始末.それほどに美味しかった.マスターの小さなお孫さんも,炒飯はあまり食べないのに,このガーリックライスは大好きなのだとか.

ガーリックライスと赤だし@鉄板焼 しま田
ガーリックライスと赤だし@鉄板焼 しま田

立地的にも目立たない店なのだが,インターネット上で紹介されている影響か,最近は,修学旅行生も予約をしてやって来るそうだ.中学生とかで1500円の国産牛ヒレステーキランチとは贅沢な話だ.ちなみに,マスターは「インターネットは怖いですね」と仰っていた.店が点数付けされてしまうからとのことだ.携帯電話も持っていないというマスターは,そんなサイトを見ないらしい.

おまけ情報.奥のカウンターがある部屋には,古い絵がたくさん飾られているのだが,欧米で結構有名なTingという中国人画家が描いたものだそうだ.マスターが世話をされたことがあって,絵を送ってもらったとのこと.カウンター越しにある馬の絵は青い色の部分が擦り切れている.

彼女の誕生日に,家族4人で非常に美味しいステーキをお腹一杯食べられて,大満足.

すてーきハウス しま田 ステーキ / 妙心寺駅龍安寺駅等持院駅

昼総合点★★★★ 4.0

10月 222010
 

不実な美女か貞淑な醜女か
米原万里,新潮社,1997

評判のよい本として時々見掛けていたのだが,「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」というタイトルを文字通りに受け取り,全く興味を示さずにいた.ところが先日,「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(米原万里,角川書店,2004)を読んで,その面白さに惹かれたので,タイトルは好かないまま,米原氏の本書「不実な美女か貞淑な醜女か」も読んでみることにした.そういう意味では,大江健三郎氏が,「わが読売文学賞の歴史において最悪のタイトル」と称したのも頷ける.

ちなみに,優れた日ロ同時通訳者である米原氏が「不実な美女か貞淑な醜女か」で意図したのは,美しいが原文と掛け離れた通訳(不実な美女)か,原文には忠実だが聞くに堪えない通訳(貞淑な醜女)かの二者択一だ.もちろん,通訳者としては貞淑な美女を追求するわけだが,逐語訳的な原文への忠実さを追い求めれば,簡潔で美しい通訳には成り得ない.一方,原文に忠実でなければ簡潔さも美しさも無意味になる.その狭間で米原氏は,発言者が伝えたいことの核心を掴み取り,余分なところはバッサリと切り落とすことを潔しとする.不要と判断した言葉は敢えて訳さないという大胆な態度だが,コミュニケーションを成立させるのが通訳者の責務と割り切る.それでこそ,顧客から信頼される通訳者に成り得たのだろう.

私も国際会議で何度か同時通訳のお世話になったことがある.講演前の打ち合わせで,専門用語や講演内容についての通訳者の疑問に答えたりするのだが,全く専門外の講演を同時通訳するなどというのは神業としか思えない.本書には,そんな同時通訳者の実態が面白可笑しく描かれている.いや,本当に面白く書かれているのだが,通訳者の苦悩や苛立ちがヒシヒシと伝わってくる.

本書「不実な美女か貞淑な醜女か」の前半では,通訳と翻訳の違いを指摘しつつ,通訳者の実態が語られる.そして後半,日本語と外国語,語学教育,民族のアイデンティティなどについて,米原氏の持論が炸裂する.厳しい意見を発しつつも,ユーモア溢れる文章になっているのは,流石だ.

日本語とロシア語を職業として使いこなす同時通訳者の立場から,言葉を操る能力について,こう断じている.

私どもにとっての母語,つまり生まれてこのかた最初に身につけた言語,心情を吐露しモノを考えるときに意識的無意識的に駆使する,支配的で基本的な言語というのは日本語である.第二言語すなわち最初に身につけた言語の次に身につける言語,多くの場合外国語は,この第一言語よりも,決して決して上手くはならない.単刀直入に申すならば,日本語が下手な人は,外国語を身につけられるけれども,その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない.コトバを駆使するという能力というものは,何語であれ,根本のところで同じなのだろう.

ここ日本には,英語を身に付けなければならないという恐怖感に取り憑かれている人が多いが,もっと日本語の能力を高めることに関心を寄せるべきではないのか.外山滋比古氏の「日本語の論理」からの引用がある.

幼児にはまず三つ児の魂(個性的基本)をつくるのが最重要である.これはなるべく私的な言語がよい.標準語より方言がよい.方言より母親の愛語がよい.ここで外国語が混入するのはもっともまずいことと思われる.(中略)方言,標準語,外国語が三つ巴になって幼児の頭を混乱させるからである.(中略)家族づれで外国生活をしてきた家庭の子供にしばしば思考力の不安定なものが見受けられるのは,幼児の外国語教育がもし徹底して行なわれると,どういうことになるかというひとつの警告とうけとるべきであろう.

グローバル化という言葉が溢れ,国際人などという怪しげなものが持て囃され,日本語よりも英語で子供を教育しようとするような風潮があるが,米原氏はこう言い放つ.

自分の国を持たないで,自分の言語を持たないで,国際などあり得るか.

どんなに英語が上手くとも,自国を知らず,自国語を知らない人間は,それこそ国際的に見て,軽蔑の対象であって,尊敬の対象にはなり得ない.

全くその通りだと思う.日本に閉じ籠もっている人には,それが分かりにくいのだろう.外国人と付き合うと,日本語,日本という国,その文化や歴史を強く意識するようになる.日本人とは何者なのかと.

その上で米原氏は,自身がプラハのソビエト学校と日本の公立学校の双方で学んだ経験から,いかに日本で日本語教育が疎かにされているかを指摘している.

日本の区立の小学校に通っていた私は,彼らにとっての母語に当たるロシア語の授業と,日本の学校での「国語」の教え方とのあまりの違いに驚いた.

まず,アルファベットを習い覚えた入学半年目で,ロシア語の授業は文学と文法にハッキリ分けられ,三年までは,一週間二十四コマのうち半分を占める.四年五年で三十コマ中十〜十二,すなわち三分の一以上,六年以降は四分の一以上を占める配分になっている.

文学の授業は,次の四点を特徴とする.

その一.子供用にダイジェストされたり,リライトされていない文豪たちの実作品の多読.学校付属図書館の司書が,学童が借りた本を返す都度,読み終えた本の感想ではなく,内容を尋ねる.本を読んでいない人にも,その内容を分かりやすく伝える訓練を,こうして行う.そのうえで,もちろん感想も聞かれる.

その二.古典的名作と評価されている詩作品や散文エッセーの主なものの暗唱.低学年では,週二篇ほどの割合で大量の詩作品を暗記させられていく.

その三.小学校三年までは日本で過ごした私の経験では,国語の時間,「では何々君読んでください」と先生に言われて,間違いなく読めたら,それでおしまい,座ってよろしいだったのが,ソ連式授業では,まずきれいに読みおえたら,その今読んだ内容をかいつまんで話せと要求される.一段落か二段落読ませられると,その都度,要旨を述べない限り座らせてもらえない.(中略)

その四.作文の授業は,主題を決めると,そのテーマに関する名作を数篇まず教師が読んで聞かせる.例えば「友人について」という題で作文を書く場合は,ツルゲーニェフの「アーシャ」のアーシャや,トルストイの「戦争と平和」のナターシャ・ロストーワという女主人公の描写の場面の抜き書きを読ませた上で,そのコンテを書かせる.(中略)

実は,ロシア語の授業に限らず,歴史も地理も数学も生物も物理も化学も○×式のテストは一切なく,すべて,口頭試問か,小論文形式の知識の試し方であったから,プレゼンテーション能力を要求するものであり,結局ロシア語による表現力を鍛えるものであった.

このようなロシア語教育に対して,日本における日本語教育はどうか.

中学二年の三学期に日本に帰国し,近所の区立中学校に編入した私は,高校受験用として覚えさせられる文学史に載るような作品を,ほとんど同級生の誰もが読んでもいないことにショックを受け,作文の際,点(,)の打ち方について教師に尋ねて,納得のできる答を得られず驚き呆れ,国語のテストで,「右の文章を読んで得た感想を,左のア〜オのなかから選べ」と求められたのにぶったまげた.

我々が経験してきたことだ.そして恐らく,今の小中学生も経験していることだろう.とてもじゃないが,日本語を大切にしているとは思えない.その証拠に,小学校でも英語を教えることになった.日本語も中途半端なのに?と疑問を抱いている人も多いだろう.それが自然な感覚だと思う.その結果はかなり容易に想像できる.それは,日本語も英語もできない似非国際人の量産だ.おまけに教養もないときたら,国際社会で馬鹿にされるだけだろう.

米原氏の指摘は,民族のアイデンティティにも及ぶ.そして,それが通訳の存在価値へと繋がる.

(二度の大戦を通して)名前を広く知られていないような,どんな小さな国の人も自らの母語で,一番自由に駆使できる,一番分かりやすい,一番伝えやすい,その母語で発言する権利があるのだということを,この民族自決権の思想とともに,いや正確には民族自決権を裏づけるための不可欠の要素として,人々は認めるようになった.どの民族も平等であるという思想が背景にある.

言葉は,民族性と文化の担い手なのである.その民族が,その民族であるところの,個性的基盤=アイデンティティの拠り所なのである.だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言する機会を与えることが大切になってくるのだ.それを支えて可能にするのが通訳という仕事,通訳という職業の存在価値でもある.

随所に笑いと下ネタを挿入しながら,通訳者の生態を生き生きと描き出し,言葉や文化,民族にまで鋭い指摘が及ぶのは流石だ.今後,通訳者のお世話になる機会があるとしたら,決して次のようには思われないようにしたい.

もっとも今でも,往生際の悪い私は時おり通訳しながら,「ああ,何でこんなアホで恥知らずなことを私の耳使って聞き取り,口使って言わなきゃならないんだろう」と心のなかでつぶやいていたりする.

目次

  • 通訳翻訳は同じ穴の狢か―通訳と翻訳に共通する三大特徴
  • 狸と狢以上の違い―通訳と翻訳の間に横たわる巨大な溝
  • 不実な美女か貞淑な醜女か
  • 初めに文脈ありき
  • コミュニケーションという名の神につかえて
10月 202010
 

もちろん,「アキレスと亀」の話は知っている.等比級数の和を計算すれば,たとえ無限個の数字を足し合わせないといけないとしても,アキレスが亀に追いつく場所と時間は分かる.

でも,そんなことではない.それでゼノンが提示したパラドックスを解決したと思うようでは愚劣なのだ.

遅ればせながら,そんなことを知った.自分の愚劣さを晒すばかりだが,ひょっとしたら私以外にも同類がいるかもというわけで,ちょっと紹介.

「アキレスと亀」のパラドックス

ゼノンが言うには,「俊足のアキレスでさえ,のろまな亀に追いつけない」とのこと.

なぜか.まず,アキレスは競争を始めるときに亀がいた位置まで走らなければならない.しかし,その間にも亀は前に進む.そこで再び,アキレスは亀の位置を確認し,そこまで走るわけだが,その間に亀はさらに前に進む.この,アキレスが進むと亀はさらにその先へという一連の動きはどこまでも永遠に続く.こうして,いつまでたっても,アキレスは亀に追いつけない.

アキレスと亀:アキレスが進むと亀はさらにその先へ
アキレスと亀:アキレスが進むと亀はさらにその先へ

アキレスは亀に追いつく

しかし現実には,アキレスは亀に追いつき,そして追い越す.それも,いとも簡単に.

具体的に考えて見よう.最初,アキレスは亀の後方 1m のところからスタートし,アキレスが 1m/s,亀がその半分の速さで動くとする.

1回目.アキレスが亀が元いた位置に行くのに,1m ÷ 1m/s = 1s かかる.この 1s の間に,亀は 1s × 1/2m/s = 1/2m だけ進む.

2回目.アキレスが亀が元いた位置に行くのに,1/2m ÷ 1m/s = 1/2s かかる.この 1/2s の間に,亀は 1/2s × 1/2m/s = 1/4m だけ進む.

3回目.アキレスが亀が元いた位置に行くのに,1/4m ÷ 1m/s = 1/4s かかる.この 1/4s の間に,亀は 1/4s × 1/2m/s = 1/8m だけ進む.

これが永遠に続く.つまり,アキレスが亀に追いつくために必要な時間は,

1 + 1/2 + 1/4 + 1/8 + … = 2

となる.この計算は簡単で,仮に

X = 1 + 1/2 + 1/4 + 1/8 + …

とすると,両辺に 1/2 を掛けて,

1/2 X = 1/2 + 1/4 + 1/8 + …

となるので,上の式から下の式を引くと,

1/2 X = 1

を得る.したがって,X = 2 となる.つまり,アキレスが亀に追いつくために必要な時間は 2s であり,追いつくまでにアキレスが走った距離は 2m である.

アキレスと亀:アキレスは亀に追いつく
アキレスと亀:アキレスは亀に追いつく

ゼノンはアホだったのか

このように,恐らく高校で勉強する等比数列の和を計算すれば,アキレスが亀に追いつくことは明らかである.

こんなのパラドックスでも謎でも何でもない.ゼノンって人は,アホだったのか?

普通の人は,ここで思考が停まっているのではないだろうか.私はそうだった...

ゼノンが問うたもの

ゼノンがパラドックスの形を借りて主張したのは,「アキレスは亀に追いつけない」なんて,どうでもいいことではない.

では,ゼノンが問うたものは何だったのか?

難しいことはさておき,次の問いに答えて欲しい.

アキレスには,亀がいた位置に到達するごとに,数を数えてもらう.では,アキレスが亀に追いついたとき,アキレスは何番目の数を数えていたのか?

何番目かが難しければ,奇数か偶数かだけでも教えて欲しい.

アキレスと亀:数を数えるアキレス
アキレスと亀:数を数えるアキレス

「そんなの無限に決まっている」と答える人に問いたい.

計算が正しければ,アキレスは2秒で亀に追いつくのですよね.つまり,2秒で数え終わったんですよね???

さて,どうなっているのだろうか...

世の中,本当に色々なモノの見方があるものだ.自分がいかに表面的にしか物事を考えずに,それで満足しているか.そのことに愕然とする.

この話は,「無限論の教室」(野矢茂樹,講談社,1998)で勉強した.

10月 182010
 

大学に所属しているなら,図書館等を通して,様々な文献データベースを活用して,自在に論文などの文献検索ができるはず.ところが,企業では,文献検索ができないということもあるらしい.実態がどうなっているのかはよく知らないのだが,文献検索の方法について尋ねられることもある.そこで,無料で(つまり文献検索ができないという企業であっても)文献検索ができるサイトをいくつかリストアップしておこう.

なお,私はEndNoteというソフトウェアで文献検索からPDFファイル整理までを行っているので,以下に示す検索サイトの使い方をきちんと把握して紹介しているわけではないことに注意.

Google Scholar (日本語) | Google Scholar (English)

いわずと知れたGoogleの文献検索サイト.通常のGoogleウェブ検索と同じ感覚で検索すると,論文など文献情報のリストを瞬時に表示してくれる.「Scholar 検索オプション」を使えば,著者名,雑誌名,出版年などで(絞り込み)検索ができる.また,Googleウェブ検索で使用できる演算子のほとんどをサポートしているので,Googleウェブ検索のパワーユーザなら,高度な文献検索ができる.

著者名順にソートするとか,出版年順にソートするとか,そういうことはできない.ウェブ検索と同様,Googleが決める順位がすべてだ.

検索結果の文献(論文)タイトルにリンクが張られており, Elsevier ScienceDirectやWiley Online Library,日本の文献ならJ-STAGEなどで,アブストラクト(論文要旨)くらいまでの情報は確認できる.また,検索結果には引用元(被引用数)も表示されるので参考になる.

ジャーナルに掲載された論文や国際会議の予稿だけでなく,ウェブサイト上のファイルも検索される.このため,文献データベースを使用する場合に比べると,ユーザは自分で取捨選択することを要求される.

Scirus

Elsevier社が提供する無料の科学技術情報検索サイト.Elsevier社のScienceDirectの他,MEDLINE/PubMed(医薬学関係)や各研究機関のリポジトリなども検索対象としてる.

ArticleFinder

Infotrieve社が提供する無料の科学技術情報検索サイト.

とりあえず,このあたりから始めれば良いのではないだろうか.

上記のような無料検索サイトで論文を探り当てたとして,その本文が入手できなくて困るという人がいるかもしれない.出版社と契約していればPDFファイルをダウンロードできるが,そうでない場合は,ファイル毎に購入しなければならない.出版されている著者校正も済んだ最終版原稿については,その通りだ.しかし,最近は,大学など研究機関ごとにリポジトリ(repository)が整備されているので,文献検索して,著者の所属機関が把握できたら,そこのリポジトリで検索してみるとよい.そうすれば,著者から出版社へ送付された最終原稿段階のファイルが入手できる(かもしれない).かもしれないというのは,文献が100%リポジトリに収集・公開されるわけではないからだ.

例えば,京大の場合,京都大学学術情報リポジトリ(KURENAI)なるものがある.

最後に,もう1つ.ウェブサイトで入手できない論文が欲しければ,著者に「論文を送って下さい」と連絡すればいい.著者のメールアドレスは論文情報に掲載されている.無視される可能性もあるが,大抵は,すぐに送ってくれるはずだ.

10月 162010
 

世界でもっとも美しい10の科学実験
ロバート・P・クリース(著), 青木薫(訳),日経BP社,2006

「そもそも実験が美しいってどういうことだ? 実験装置がピカピカってことか? まさかな.では,美しいって一体何なんだ?」

本書のタイトルを読んで,このような疑問を抱く感性のある人は,本書「世界でもっとも美しい10の科学実験」を大いに楽しめるだろう.というのも,本書は単に実験を紹介しているだけではなくて,科学における美とは何かという哲学的問題を一貫して扱っているからだ.プラトンのイデア論など多少の哲学の知識はあった方が良いのは言うまでもない.それでも,そういった知識がなくても,偉大なる科学実験がどのように行われ,それらが世界の常識をどのように覆したかを知ることは大変興味深い.本書では,紀元前の実験から始まり,量子力学の実験に至るまで,10の科学実験が時系列に並べられているので,壮大な科学史を窺い知ることもできる.

投票で選ばれた,これら10の科学実験には共通点がある.その1つが「美しい」ということなのだが,美しくあるための要素として,シンプルなのにインパクトが強烈であることが挙げられる.本書では,デモンストレーションという言葉が使われている.例を挙げよう.

  • エラトステネスは地球の外周の長さを測定したが,もちろん,地球にメジャーを巻き付けたわけではない.棒の影の長さを計っただけだ.それで,地球の大きさが分かるなんて!
  • ガリレオはピサの斜塔から球を落として,地面に落ちるまでの時間は重さに関係ないことを示したとされる.小学生にもできる実験だが,重いものが速く落ちると感じてしまう人間の常識を覆した!
  • ニュートンは誰でも知っているプリズムを使って,白色光は様々な色の光が集まったものであることを示した.それまでは,白は白でしかないと信じられていたのに!
  • フーコーは巨大な振り子を使って,地球の自転を人々に見せた.これにはナポレオンも度肝を抜かれた!
  • ヤングは2つの細い隙間(二重スリット)に光をあてて,光が波であることを示した.科学界の大御所たちは光は粒子だと宣言していたのに!
  • そして,ファイマンは光の代わりに電子を二重スリットに打ち込んだ.すると,弾丸が小さな穴を通ったかのように,壁(写真乾板)に電子の銃痕ができる.ところが,電子を次々と撃つと,やがて壁には干渉縞が現れる.つまり,電子は波でもある.発射したとき,電子1つがあった.着弾したとき,電子1つがあった.その間,一体全体,電子はどこにいたのか? 右のスリットも左のスリットも通ったから干渉縞ができた.ファイマンの実験は思考実験であったが,後に実際に実験が行われた.人類の世界観を根底から覆す実験が!

この最後の二重スリット実験が,世界で最も美しい実験に選ばれた.

目次

  • 移り変わる刹那
  • 世界を測る―エラトステネスによる地球の外周の長さの測定
  • 球を落とす―斜塔の伝説
  • アルファ実験―ガリレオと斜面
  • 決定実験―ニュートンによるプリズムを使った太陽光の分解
  • 地球の重さを量る―キャヴェンディッシュの切り詰めた実験
  • 光という波―ヤングの明快なアナロジー
  • 地球の自転を見る―フーコーの崇高な振り子
  • 電子を見る―ミリカンの油滴実験
  • わかりはじめることの美しさ―ラザフォードによる原子核の発見
  • 唯一の謎―一個の電子の量子干渉