11月 302010
 

クリスマスまで1ヶ月を切った.長男7歳と長女5歳に「早くクリスマスツリーを出して」とせがまれ,今年も遂にクリスマスツリーを引っ張り出してきた.

以前,「クリスマスツリー,クリスマスケーキ,そしてサンタクロースからのプレゼント」に書いたように,原則として,上半分の飾り付けはパパの担当,下半分は長男や長女の担当だ.

クリスマスツリーを組み立て,カラー電球を配置し,一番上に大きな星を置いて,いよいよ飾り付け開始.まずは,大小様々な赤や緑,金や銀のボールからだ.長男と長女は先を争ってオーナメントをツリーに飾る.

思い出のオーナメントで飾られたクリスマスツリー
思い出のオーナメントで飾られたクリスマスツリー

ディズニーのキャラクターものなどは全部,長男と長女に任せて,パパは思い出のオーナメントを慎重に飾り付ける.

最も大切なのは米国オハイオ州コロンバスに住んでいたときにオーナメント屋さんで購入したスノーマンとサンタクロース.この2つは価格も別格だ.その他の思い出深いのとしては,アメリカのホワイトハウス,NASAのスペースシャトル,ロスのポリスアカデミー,カナダのシャトー・レイクルイーズとジャスパー・パークロッジ,等々...ドイツのオーバーアマガウで購入した木製のオーナメントもある.

NASA,White House,Chateau Lake Louise,Snowmanなどのオーナメント
NASA,White House,Chateau Lake Louise,Snowmanなどのオーナメント

飾り付けが終わったところで,部屋の明かりを消して,スイッチオン.ところが,誰が最初にスイッチオンするかで,また長男と長女がバトルを繰り広げる.それでも,クリスマスツリーの電飾が灯ると,「わぁー,綺麗!」と一緒に喜んでいる.これで,我が家もクリスマスモードだ.

11月 292010
 

日曜日.久しぶりに,カブトムシの幼虫20匹の糞掃除をした.

コバエシャッター(大)2ケースの昆虫マットとフンを,スプーンですくい,篩で分ける.かなり糞が多い.そのぶんだけカサが減るので,新しい新型ビートルマットを追加する.作業は以前書いた「カブトムシとクワガタムシ(14) 幼虫34匹の糞掃除: 誰か欲しい?」とほぼ同様.所要時間は2時間弱.

糞掃除開始後すぐに,長女がやってきて,「○○ちゃんも手伝う」と言う.一緒にスプーンを持って,せっせと篩に昆虫マットとフンをすくいだす.ただ,長女の作業は遅い.長男は「幼虫大きくなってる〜?」と聞きに来たが,全く手伝う気配なし.お前の幼虫とちゃうんかい!

あと1回,12月に糞掃除をしたら,幼虫も冬眠モードになるかな?

11月 272010
 

AIChE Annual Meetingに参加するため,アメリカのソルトレイクシティ(Salt Lake City)に滞在したことは,既に書いたとおり.ここまで,研究とは関係ないことを書き連ねてきたが,1つだけ研究関連のことにも触れておこう.

アメリカでは,NSFも資金を出して,

  • SBE&S (Simulation Based Engineering and Science)
  • ICME (Integrated Computational Materials Engineering)

というものに取り組んでいる.

AIChE Annual Meetingでは,SBE&SのTopical Conferenceがあった.ASPENからの発表もあり,DOWやBASFの事例も紹介していたが,ダイナミックシミュレーションを用いて,プラント全体を対象とした運転の最適化,スタートアップの最適化を実施している.精緻なダイナミックシミュレータの構築は当然ながら多額の投資を必要とするが,ROIは3倍以上とのことで,継続的に投資していく方針とのことだった.

さらに,マルチスケール・シミュレーションの普及は凄い勢いで,物質レベルのモデルとプロセスレベルのモデルを併用して,プロダクト&プロセス設計をするなんていう事例もある.既にR&Dのコストと期間の短縮で大きな成果を挙げているところもある.

参考までに,レポートの在処などを示しておこう.

SBE&Sについて

World Technology Evaluation Center (WTEC)のレポート.

ICMEについて

来年,国際会議が開催される.

11月 242010
 

子どもの楽園で独楽を廻す

日曜日に,長男7歳と2人で,京都市の宝が池公園にある「子どもの楽園」に行ってきた.長女5歳は「○○君だけ行くのずるい!」と泣き叫んでいたのだが,熱が出ていたので自宅で養生させる.

全く予期していなかったのだが,どこの公園にもあるような遊具の他に,独楽,剣玉,竹馬などで遊べるエリアが用意されていた.長男は投げ独楽(なげこま)に夢中になり,昼食をはさんで2時間以上,ひたすら独楽で遊んだ.

独楽(コマ)で遊ぶ長男7歳@宝ヶ池子どもの楽園
独楽(コマ)で遊ぶ長男7歳@宝ヶ池子どもの楽園

粗悪な「チャイルドこま」に手を出してしまう

これだけ熱中するのなら独楽を買おうという話になり,子どもの楽園から自宅に帰る途中で,地下鉄から市バスに乗り換える北大路駅にある北大路ビブレに立ち寄った.

それほど広くはない玩具売り場で,店員さんに独楽はあるかと尋ねると,1種類だけあるとの返事.いかにも安っぽい98円の「チャイルドこま」という商品だ.やはり中国製.できれば木製の独楽が欲しかったのだが,ないものは仕方がない.長男と長女用に2個購入する.

長男が独楽を廻せるようになったのをママに見せたいというので,帰宅後,早速,購入した独楽で実演してみせる.ところが,

  • 撚紐(よりひも)の質が悪く,独楽に巻くのが難しい!
  • 独楽(こま)の質が悪く,うまく廻すのが難しい!

という事態に遭遇した.長男は,子どもの楽園で練習したようには,撚紐を巻けず,私が巻いたところで,うまく廻せず,結局,悔し泣きして実演を終了した.

子どもの楽園に置いてあった独楽は,鉄製の針を使った木製の独楽で,撚紐も巻きやすく,よく廻った.それと比較して,購入した98円の中国製「チャイルドこま」は明らかに粗悪品だ.安けりゃいいのか?という感じ.こんなものを製造するメーカーも,こんなものを売る店も,良心的ではない.全く酷い話だ.

我が家では,元々,安物買いの銭失いになるのを嫌って,子どものおもちゃには高品質なものを選ぶことにしている.「道具が悪いために,その興味を失うようなことがあってはならない」という発想だ.高額商品を買うというのではない.あくまで品質の良いものを選ぶ.例えば,積み木はネフ(naef)のネフスピールやキーナーモザイク,セラなど汽車レールセットはブリオ(BRIO)双眼鏡はPENTAX Papilio 6.5×21(ペンタックス・パピリオ 6.5倍 21mm)望遠鏡は星の手帖社「組立天体望遠鏡」とスコープテック・ラプトル50天体望遠鏡セット(屈折式簡易架台)などだ.大人でも楽しめるような玩具だとも言える.

今回は,すぐにママに見せたいという長男の希望を叶えようとして,慌てて独楽を買ったのが敗因だ.たかが200円のことではあるが,ゴミにしかならないようなものを購入してしまったことを深く反省する.

よく廻る「投げこま2寸」を買う

98円の中国製「チャイルドこま」が使い物にならないと判明したので,インターネットでよく廻る独楽を探すことにした.近所の玩具店で良質な独楽を購入できそうにないからだ.口コミも丹念に読み,子供に適した,安くてよく廻る投げ独楽を探したところ,「投げこま2寸色アソート」という商品に行き着いた.室内で廻せるようにと,木製針の投げ独楽にする.

色は選べないのだが,この「投げこま2寸」を2個,楽天経由でさいたま市の和敬静寂というお店から購入した.

楽天で注文した翌日の昼前に自宅に到着したので,早速,子供たちと独楽を廻してみる.色は青と緑.

  • 撚紐(よりひも)が巻きやすい.子供でも全く問題なし.
  • 独楽(こま)がよく廻る.子供もすぐに廻せる.

というわけで,やはり,良心的なつくりの「投げこま2寸」(367円)に比べると,中国製「チャイルドこま」(98円)は粗悪品としか言いようがない.値段が違うのだからなんてことは関係ない.廻らない独楽を作ることと売ることがダメなのだ.そんな独楽を最初に手にしてしまった子供は二度と独楽遊びをしようなどと思わないのではないか.メーカーと販売店はよく考えた方がいい.

購入した投げこま2寸(右2個)と投げこま・紅こま(左1個)
購入した投げこま2寸(右2個)と投げこま・紅こま(左1個)

今回,「投げこま2寸」と一緒に,3寸の「投げこま・紅こま」も購入してみた.大きくてインパクトはあるのだが,軸がずれているのか,回転が安定しない.「投げこま2寸」が綺麗に廻るのに対して,「投げこま・紅こま」はいまいちだ.

というわけで,独楽を買うなら,「投げこま2寸色アソート」がお勧めだ.

11月 222010
 

啓蒙とは何か 他四篇
カント(著),篠田英雄(訳),岩波書店,1974

自分のアホさを棚に上げて言わしてもらうと,訳が読めない.翻訳者は本当に意味を理解した上で日本語で書いたのか疑問だ.仮に理解していたとしても,カントが伝えようとした意味を読者に伝えようという意図があるのか疑問だ.仮にその意図があったとしても,本書でそれを実現できているのか疑問だ.というより,ハッキリ言えば,できてない.なんと読みにくい文章か.カントの原文が難解であるという言い訳が解説に書かれているが,そればかりではなく,徹底した逐語訳(原文を知らないが強くそう感じさせる)という訳し方の問題だろう.読んで疲れた.失礼ながら,翻訳の何たるかを知るために,「不実な美女か貞淑な醜女か」(米原万里,新潮社)を読ませてあげたい.

それでも,意味がわかったところには,興味深いことが書かれていた.カントの人間の本性に対する信頼が溢れていると感じた.

啓蒙とは何か

最初に,啓蒙が定義される.

啓蒙とは,人間が自分の未成年状態から抜けでることである,ところでこの状態は,人間がみずから招いたものであるから,彼自身にその責めがある.未成年とは,他人の指導がなければ,自分自身の悟性を使用し得ない状態である.ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある,とういのは,この状態にある原因は,悟性が欠けているためではなくて,むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである.

そもそも,本書「啓蒙とは何か 他四篇」を手にしたのは,師が人々を啓蒙するという行為について考えてみたかったからなのだが,この定義を読むと,カントのいう「啓蒙」と我々の普通の意味での「啓蒙」とが異なることは明らかだ.実際,広辞苑によると啓蒙は「無知蒙昧な状態を啓発して教え導くこと」であるが,カントは「他人の指導がなければ,自分自身の悟性を使用し得ない状態」を「未成年」と定義し,「他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを」もって,その「未成年状態から抜けでること」を「啓蒙」と呼んでいる.他人に頼るのではなく,自分の責任で成長しなければならないというわけだ.そういう意味では,カントが言っているのは,啓蒙というよりも,自己啓発?に近いだろうか.これも違う気はするのだが...

世界公民的見地における一般史の構想

人類の歴史とはいかにあるべきか,人類の発生と発展もその一部である自然が人類に何を求めているのかが論じられている.こんな考え方もあるのだと感心させられた.カントの論は順を追って,以下の9つの命題からなる.

  • 第一命題:およそ被造物に内具するいっさいの自然的素質は,いつかはそれぞれの目的に適合しつつ,あますところなく開展するように予め定められている.
  • 第二命題:人間にあっては,理性の使用を旨とするところの自然的素質があますところなく開展するのは,類においてであって,個体においてではない.
  • 第三命題:自然が人間に欲しているのは,次の一事である,すなわち−人間は,動物的存在としての機械的体制以上のものはすべて自分自身で作り出すということ,また人間が本能にかかわりなく,彼自身の理性によって獲得した幸福,或いは成就した完全性以外のものには取り合わない,ということである.
  • 第四命題:自然が,人間に与えられている一切の自然的素質を発展せしめるに用いるところの手段は,社会においてこれらの素質のあいだに生じる敵対関係にほかならない,しかしこの敵対関係が,ひっきょうは社会の合法的秩序を設定する原因となるのである.
  • 第五命題:自然が人間に解決を迫る最大の問題は,組織全体に対して法を司掌するような公民的社会を形成することである.
  • 第六命題:如上の問題は,最も困難であると同時に,また人類によって最後に解決されるべき課題である.
  • 第七命題:完全な意味での公民的組織を設定する問題は,諸国家のあいだに外的な合法的関係を創設する問題に従属するものであるから,後者の解決が実現しなければ,前者も解決され得ない.
  • 第八命題:人類の歴史を全体として考察すると,自然がその隠微な計画を遂行する過程と見なすことができる,ところでこの場合に自然の計画というのは,各国家をして国内的に完全であるばかりでなく,更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない,このような組織こそ自然が,人類に内在する一切の自然的素質を剰すところなく開展し得る唯一の状態だからである.
  • 第九命題:自然の計画の旨とするところは,全人類のなかに完全な公民的連合を形成せしめるにある.

自然の一部である人間という立場から出発して,最終的に,人類は公民的な世界的連合組織を形成せざるをえず,それは避けられない歴史の必然なのであると結論づける.ただし,そこに至る道程は決して平坦なものではなく,途中で酷い状態を経験せざるを得ないのだとも.

人類がこの最終の段階(すなわち諸国家の連合)に到達する前に,つまりこの連合の形成される過程のほぼ中途にさしかかったところで,極悪の状態を経験する,そしてその悪とは,うわべだけの繁栄というごまかしの仮面を被った福祉にほかならない.

大昔,まだ組織や社会なるものを持たなかった人間が社会を形成するようになったのは,それなしでは人間がまともに生活できない悲惨な状況におかれてしまうと痛感したからだ.そこで,個々の権利を阻害しうる個人連合組織(社会)を形成した.この現象が大きな規模で起こっていくと,国家間紛争の絶えない悲惨な状況の後に,個々の国家の権利を阻害しうる国家連合組織が形成されるのが歴史の必然であるというわけだ.

本論「世界公民的見地における一般史の構想」においては,最終的に国家レベルの連合組織にまで話が進むのだが,その前に,自然は人間に何を求めているのかが論じられている.個人レベルでは,むしろ,この指摘が心に強く残る.

自然は,人間に理性とこれに基づく意志の自由とを与えたのである.このことにかんがみても,人間の先天的素質に関する自然の意図は明白である.自然が人間に欲したのは,彼が本能によって指導されたり,或いは生得の知力に教えられて生活にいささかも不自由しないということではなくて,むしろいっさいのものを自分自身で作り出すことである.(中略)自然の狙いは,人間の安楽な生活というよりも,むしろ人間が自己の理性的価値を認識することにあったかのようである.(中略)いずれにせよ自然は,人間が安楽に生きることなどは,まったく考慮しなかったらしい.自然が深く心に掛けたのは,人間は,自分の行動に依って,自己の生活と身心の安寧とを享受するに値いするような存在になる,ということであった.

人類の歴史の憶測的起源

西洋人が人類の起源と言えば,当然,旧約聖書の創世記を指す.本論「人類の歴史の憶測的起源」では,人間は理性を持つ創造物であるという観点から,人間がどのように歩んできたか(歩まざるを得なかったか),その歴史を解説している.実に興味深い考察だ.当然,創世記の内容を知っていることが前提だが.

人類の最初の居所として,理性が人間に指示したのは無憂の楽園である,それにも拘わらず人間がこの楽園から出ていったのは,動物的な被造物の未開状態から人間性へ,本能といういわばあんよ車から理性の指導へ,換言すれば−自然の後見から自由の状態への移行にほかならない,ということである.

失楽園は,人間が本能のみで生きる動物的な状態から,理性と自由意志で生きる人間らしい状態に移行する際に必然的に生じたというわけだ.エデンの園に留まることは人間の責務でも使命でもなかった.もちろん,人間が学ぶためには失敗も必要である.だから,色々と悪いことも起きる.それは仕方がない.それでも,全体としては,善い方向に向かっているというのがカントの結論である.

このように哲学によって人類の最古の歴史を吟味した結果は,摂理と人事が全体として辿るところの過程とに満足するということになった.この過程は,善から始まって悪に趣くのではなくて,比較的に悪い状態からいっそう良い状態に向って次第に発展するのである.そして各人が,おのがじし分に随って力の及ぶ限りこの進歩に寄与することこそ,すなわち自然そのものによって人間に課せられた任務なのである.

途中,例えば,生活スタイルの違いから牧羊民族と農耕民族が対立するようになることが必然的であると指摘されているのは,カインとアベルの解釈である.このように創世記に沿う形で,理性を用いる人間が歴史を織りなしていく様子が描かれており,面白かった.

万物の終り

本論において,カントは次のように言明している.

我々が生涯を終えるまで我々の行状を支配している原理(善の原理にせよ,或いは悪の原理にせよ)は,死後もその支配を続けるのであって,この原理が来世,すなわち当に来るべき永遠において,変更されるなどと考える理由をいささかももつものでないということを,我々が自分自身について知る限りのこの道徳的状態にかんがみて,合理的に判断するよりほかはないのである.すると我々は,永遠の生活においても善もしくは悪の原理の支配下にあって,現在の道徳的功過に随いそれぞれの応報を受けねばならないであろう.このように考えると,我々が現世の生活を終える際の道徳的状態と,それから生じるところの応報とは,来世の生活に入ってからもやはり不変であるかのように行動するのが賢明である,ということになる.

今の人生が終わった後に控えているのが,永遠の生活(審判の日以降の天国か地獄かはともかく)なのか,輪廻転生による次の人生なのかはともかく,合理的に判断すれば,人間は善もしくは悪の原理の支配下にあって自分の道徳的功過の報いを必ず受けなければばならず,この因果応報を認識して現世の生活を送るべきだということになる.

まさに,原因と結果の法則であり,引き寄せの法則である.例えば,「[決定版]生きがいの創造」(飯田史彦,PHP研究所)「生きがいの教室―人生の意味を問う「生きがい教育」のすすめ」(飯田史彦,PHP研究所)に書かれている生きがい論というのも,このような法則に基づくものである.このような法則を論じる意図は異なっており,また,カントが考察によって結論を導き出しているのに対して,生きがい論は昨今の臨床データに基づいているという違いはあるにしても.

理論と実践

原題は「理論では正しいかも知れないが,しかし実践には役に立たないという通説について」.本論を書くにあたり,カントはかなり怒っている.

無知な人が,自分で実践と思いなしているところのものについて,理論はもともと不必要であり無くても済むものだなどと放言しているのは,まだしも我慢できる.しかし利口ぶった人が,理論とその価値とを,(ただ頭脳を訓練する目的だけの)学課としては認めるが,しかしいざ実践ということになると,様子ががらりと変ってくるとか,或いは学校を出て実社会に出ると,これまで空虚な理想や哲学者の夢に徒らに追随してきたことをしみじみと感じるとか,要するに,理論ではいかにも尤もらしく聞こえることでも,実践にはまったく当てはまらないなどと主張するにいたっては,とうてい我慢できるものではない.

結論は当然ながら,理論と実践は一致するということになる.

私は,人間の本性が悪のなかにすっかり沈没して人間の本性を愛すべきものとし顕示する時期が到来しない,と考えることはできないし,またそのように考えることを欲しないのである.それだから世界市民的見地においても,理性根拠にもとづいて理論に当てはまることはまた実践にも通用する,という主張には変りがないのである.

この問題提起から結論に至るまでに,様々な考察がなされているのだが,私が興味を持ったこと(当然ながら理解できた事柄に限定される)についてメモしておこう.

まず,人間の平等と不平等について,カントは以下のように述べている.

国家における従属者たる国民としての人間が,押しなべて平等であるということは,彼等の所有物の量や程度に関する最大の不平等とよく両立するのである.このような不平等は身体的もしくは精神的な優劣とか,或いは運不運に依存する外的財貨の多少とか,或いはまた一般に権利強弱ということもあるだろう.(中略)しかし人間としての権利について言えば,上に挙げたような不平等があるにも拘わらず,すべての人間は国民として互に平等なのである,何びとといえども公法によるのでなければ,他の何びとをも強制することができないからである.

公共体における従属者たる国民としての平等という理念から,また次のような方式が生じる.公共体の各成員は,その公共体における一個の身分を形成するいかなる階級にも達することが許されねばならない,すなわち何びとによらず自分の才能,勤勉および幸運によって,この地位に到達することができるのである.そして彼と同じく従属者であるところのものは,このような人とその子孫とを永久に抑えつけておくために,自分の世襲的特権(或る種の身分に与えられた先取特権の所有者として)かかる人の行路を妨げることは許されない.

カントは公法とその下での人間の権利に強い関心を寄せ,それらについて論じているのだが,平等と不平等についての捉え方は,福沢諭吉が「学問のすすめ」の冒頭に述べていることと同じだと思う.非常に有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉で福沢諭吉が主張しているのは,人は誰しも生まれながらにして平等だということではなく,貧乏なのはその人が学問しなかったからで自業自得,そうなるのが嫌なら学問しなさいということだ.これを,人権の立場からの主張であると勘違いする人々がいるのは,恐らく,古典の題目と著者と最初の一文を丸暗記させる日本国の国語教育の弊害だろう.あまりに浅薄で話にならない.一度は自分で読むべきだ.読んでもいないのに,題目と著者を覚えたところで無意味だ.

いや話が完全に逸れてしまったが,公法とその下での人間の権利に関するカントの考察は続く.

国民が,現行の或る立法のもとでは彼等の幸福を失う公算が多分にあると判断するとしたら,彼等はどうすればよいのだろうか,彼等は立法者に反抗してはいけないのだろうか.これに対する答えはただ一つしかあり得ない,国民としては,服従するよりほかに何ごともなし得ない,と.ここで問題となっているのは,従属者たる国民が公共体の制度或いは行政から期待し得る幸福ではなくて,何よりもまず公共体によって各人に保証せられるべき権利だからである.つまり問題は,公共体に関するいっさいの格律を発生せしめる源であるところの,そしてまた他のいかなる原理によっても制限せられ得ないところの最高原理はいかなるものか,ということなのである.

従属者たる国民が,彼等の不満を行動によって表示するために,最高の立法的権力に対して起こすところのいっさいの煽動や,また謀反につながるいっさいの暴動は,公共体において最高の刑罰に値いする犯罪である,かかる所行は,公共体の基礎を破壊するものだからである.

このように,カントは原理原則を徹底的に重視して考察を進めていく.どのような理由があろうとも,国民は最高の立法的権力に対して一切の不法行為を働いてはならないというのが結論である.およそ信頼できない国家権力の実像を目にしている国民にとっては,心情的に納得できない主張であるかもしれないが,国民が勝手に自分の解釈で正義を持ち出してしまえば,もはや社会は混乱を免れない.そうなれば,公共体の基礎は破壊されてしまう.

しかし,とカントは言う.国民は本当に国家に対して不満を抱いているのだろうか.国家を正そうと思っているのだろうか.彼はこう述べる.

これまで非常に長く存続してきた国家組織は,たとえ幾多の欠陥があるにせよ,、またこれらの組織がそれぞれいかに異なっているにせよ,けっきょく次の点で同じ結果を示すのである,すなわち−国民は現在の組織に満足している,ということである.

鋭い指摘だと思う.政治家や官僚を批判する日本国民だって,そのほとんどはマスコミのワイドショーか週刊誌レベルの伝言ゲームをしている程度でしかない.それに,口先で批判しているだけで,別に選挙に行くわけでもない.別に体制を変えようなどとは思っていないのだ.テレビや週刊誌を見て平々凡々としていても,日々の生活に窮するわけでもなく,ブランド品を買えないわけでもなく,戦役に駆り出されるわけでもなく,せいぜい年金が心配なくらいで,まあ,現状でもいいんじゃないのということだろう.

いや,また話が完全に逸れてしまったが,カントは本論「理論と実践」においても,人類が最終的には世界レベルの公民的連合組織を形成せざるを得ないとの結論に達している.とにかく,このことを主張したい様子だ.

国内の至る処で起きた暴力沙汰とそれから生じた困窮とは,けっきょく国民を強制して,理性がみずから彼等に指示して強制手段であるところの公法に服従して国家公民的組織を結成するという決意に達せざるを得なくした.同様に諸国家はしょっちゅう戦争を起こして互に侵略し合い,相手の国家を屈従せしめようとするが,こうして絶え間なく勃発する戦争から生じる困窮はこれらの国家をして,自己の意志に反してすら世界公民的組織を結成せしめざるを得なくするか,(中略)世界公民的公共体ではないにせよ,しかし共同で取極めた国際法に従うところの連合という法的状態を形成するに至らしめるのである.

目次

  • 啓蒙とは何か
  • 世界公民的見地における一般史の構想
  • 人類の歴史の憶測的起源
  • 万物の終り
  • 理論と実践
11月 192010
 

怒りについて 他二篇
セネカ(著),兼利琢也(訳),岩波書店,2008

著者のルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca)はローマ帝国の政治家であり,またストア派の哲学者である.キケロに続く哲人政治家といえよう.ドロドロの政争に巻き込まれ,一時は流刑の憂き目にあうが,ローマ皇帝ネロの養育係として宮廷に戻り,皇帝即位後もネロを支え,絶大な権力を手にした.しかし,最後には,ネロに自殺を命じられる.

セネカの著作を読むのは,「人生の短さについて 他二篇」(岩波書店,1982)に続き二作目.いずれからも,教訓を得まくりである.セネカは偉い.

摂理について

副題は「摂理が存在しながらも,なぜ善き人に災厄が起きるのか」.

「ルーキーリウス,君は私に尋ねた.いったいなぜ,世界が摂理によって導かれているのに,善き人々に数多の悪が生じるのか,と」で始まるのが本作「摂理について」.その答えを短く一言で言い表すなら,「労苦は最善の者を呼び求める」となる.

持てる能力を発揮する場が与えられなければ,能力の有無はわからない.善き人々を試し,その能力を発揮させるために,苦難が善き人々に与えられる.

本作「摂理について」は,要するにこれだけのことを言っている(と私は解釈した)のだが,非常に長い.長ったらしい.どうしてこんなにダラダラと書かないといけないのかと思うくらいに.誰がどうした,何を言ったというエピソードが数多く挿入され,表現は仰々しい.修辞パフォーマンスの行き過ぎかと思う.

もう一点気になるのが,剣闘士の比喩だ.

剣闘士は,劣った相手との組み合わせを屈辱とみなし,危険なく勝てる相手を負かしても栄光にならないことを知っている.運命のふるまいも,またしかり.みずからの相手に勇猛果敢な男子を求め,ある者たちは顔を背けて素通りする.そして,大胆不敵にして正義にあふれる者に対し,己が暴威をぶつけようと突進する.ムーキウスに火を,ファブリキウスに窮乏を,ルティーリウスに追放を,レーグルスに拷問を,ソークラテースに毒を,カトーに死を試す.凶運以外が偉大な模範を見出せたためしはない.

このように,至る所で剣闘士や兵士を例に挙げて説明しており,わかりやすくはあるが,どうも平和的でないのが気になる.それはともかく,苦難を乗り越えるに相応しい人々に苦難が与えられるのだと人生を解釈すれば,苦難に満ちた人生をも積極的に受け入れようと鼓舞されるのではあるまいか.

賢者の恒心について

副題は「賢者は不正も侮辱も受けないこと」.なお,最古の写本では,こちらが本題らしい.

だが,「賢者は不正も侮辱も受けない」というのは俄には信じがたい.ソクラテスに死刑の判決が言い渡され,彼が毒杯をあおいだことを例に挙げれば十分だろう.このストア派のパラドックスに答えるのが本作「賢者の恒心について」である.

セネカは「賢者は安泰である.いかなる不正にも侮辱にも動じない.」と言う.そう,賢者は動じないのだ.不正や侮辱を働くような人達とは,精神的には別の次元に暮らしているから.そう解釈すれば,納得できもする.

本作において,最もグサッときたのは,次の言葉だ.

われわれは,途方もない浅薄さに至った結果,苦痛はおろか,苦痛の想念に悩まされている始末である.実に幼稚だ.

怒りについて

怒りとは何か.広辞苑には「おこること。はらだち。立腹。」とあるが,これらは怒りを同義語に言い替えているにすぎない.怒りとは何か.怒りとは欲望であるとセネカはいう.

怒りとは,不正に対して復讐することへの欲望である.

そして,怒りは不要なもの,手放すべきものであるとする.「賢者は誤っている人々に怒らない」と.禁欲的なストア派らしい.その上で,怒らなくなるための心掛けについて述べている.ただ,セネカ以前の哲学者が必ずしも怒りを不要と見なしていたわけではない.例えば,アリストテレスの言説について,こう書かれている.

アリストテレースは言う.「怒りは必要である.それなくして戦闘は不可能である.それが心に充満し,精神と意気に火を点けるのでなければ無理だ.ただし,指導者ではなく兵士として用いられなければならない」.これは誤っている.

怒りはどれほど悪いのか.贅沢,悪意,嫉妬よりも悪いのだとセネカはいう.

怒りは贅沢より悪い.なぜなら,贅沢が堪能するのは自分の快楽であるのに対して,怒りが楽しむのは人の苦しみだからだ.怒りは悪意と嫉妬を打ち負かす.それらは相手が不幸になるのを欲するのに対して,怒りは不幸にするのを欲するからだ.

その上で,怒りを遠ざける最良の方法は遅延であると,繰り返し述べられている.

  • 怒りに対する最良の対処法は,遅延である.怒りに最初にこのことを,許すためではなく判断するために求めたまえ.
  • 遅延こそ,怒りの最良の治療である.そうすれば,怒りの最初の沸騰が弱まり,心を覆っていた靄がなくなるか,薄くなる.
  • 怒りの原因は不正を受けたという思い込みであるが,容易にこれを信じてはならない.明々白々な場合ですら,ただちに受け入れてはならない.偽りの中には,真実の姿を装うものがあるからだ.いつでも時間を与えるべきである.一日が真理を明らかにしてくれる.

遅延の他,怒らないための心得として,以下のようなことが述べられている.

  • たいていの人間は,犯された罪にではなく,罪を犯した者のほうに怒る.われわれは,みずからを振り返って自分自身に考察を向ければ,ずっと穏健になれるだろう.「はたしてわれわれ自身も,何かこうしたことを犯しはしなかったか.こんなふうに間違わなかったか.そんなことを罰して,われわれのためになるのか」.
  • われわれを怒りっぽくしているのは,無知か傲慢である.悪人が悪事をしでかしたところで何の不思議があるか.敵が害をなす,友人が傷つける,息子がぐれる,奴隷がへまをやることの,どこが目新しいというのか.ファビウスは,将軍にとって最も恥ずかしい弁解は「思っていなかった」だ,と言ったものである.私は,人間にとって最も恥ずかしい言い訳だと思う.あらゆる事態を思い,予期しておきたまえ.
  • デーモクリトスのあの健全な勧告がわれわれに役立つだろう.われわれが私的公的を問わず,多くの仕事を,あるいは実力以上の難事を背負うのをやめれば,平静な境地が現れる.数多の世事に忙殺される者が,人からであれ,仕事からであれ,心を怒りへ向かわせる厄介事が何も起きずに一日を過ごせるような,そんな幸運に恵まれることはありえない.
  • まずは不正を受けないように努めよう.われわれはよく耐える術を心得ていないのだから.ごく穏やかで気立てがよくて,神経質でも気難しくもない人とともに暮らすべきである.性格は日頃付き合う仲間から取り込まれる.
  • すべてを目にし,すべてを耳にするのは当を得たことではない.多くの不正は,われわれを通り過ぎるに任せよう.たいていの場合,気づかない人には不正にならないものだ.あなたは怒りっぽくなりたくはないだろう.詮索好きにならないことだ.
  • われわれはわれわれのものを比較せずに喜ぼう.より幸せな人間に苦しめられる者は幸せになれないのだから.
  • 他人のものを眺めると,誰でも自分のものが気に入らなくなる.それでわれわれは神々にも怒りを向ける.自分より先を行く人がいるから,というわけだ.だが,われわれは,後ろにどれほど大勢がいるか,わずかな人を嫉んでいる者がどれほど大きな嫉みにあとをつけらえらているか,気がつかないでいる.とにかく人間のずうずうしさは限度を知らない.

いやぁ,耳が痛い.仰せごもっともである.

自分のことを棚に上げて,自分の無知や傲慢のために,他人に怒りをぶつけるようなことがないようにしよう.

仕事を抱え込みすぎて,ストレスでイライラしないようにしよう.

付き合う仲間を選び,自分に関係のないことを野次馬根性で見聞きして,めくじら立てることがないようにしよう.

今の自分,今の環境に満足しよう.感謝しよう.

もう1つ,怒らないということではないが,心に留めおくべき教訓が書かれていた.

これまで何も学んでこなかった者は,学ぶことを欲しないものだ.彼には必要以上に自由に説教した.そのせいで,君は彼を改善できず,気持ちを傷つけた.今後は,君の言っていることが真実かどうかだけでなく,聞かされる側が真理に耐えられるかどうか,気をつけるがいい.善き人は注意されるのを喜ぶが,だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受けとるものだ.

肝に銘じたい.私は注意されるのを喜べるだろうか.

目次

  • 摂理について
  • 賢者の恒心について
  • 怒りについて
11月 172010
 

今回のアメリカ訪問(グロトンとソルトレイクシティ)で,ANAマイレージクラブの「プラチナサービス」の要件を満たし,事前プラチナサービスが提供される状態になった.8月に「ブロンズサービス」に到達してから約3ヵ月.これで,ANAスーパーフライヤーズカードへの切替ができるようになった.ちなみに,「ダイヤモンドサービス」には到達できる気が全くしない...

もちろん,ANAのウェブサイト(ANA SKY WEB)の色もプラチナに変わった.プラチナというか,青だけど.

ブロンズサービスの画面@ANA SKY WEB
ブロンズサービスの画面@ANA SKY WEB

プラチナサービスの画面@ANA SKY WEB
プラチナサービスの画面@ANA SKY WEB

ところで,米国内で利用したユナイテッド航空のフライトマイルが中途半端にしか加算されていない.全く加算されていなければ,処理がまだなのだと納得できるが,一区間のみ加算されていて,残りは全滅.ボーディングパスの表記を見て怪しかったので,ゲートで確認したのに,このざまだ.「きちんと登録されているから大丈夫」って,大丈夫じゃないやん!

つくづく,日本人の仕事は丁寧だと思う.

11月 162010
 

先週ソルトレイクシティで開催されたAIChE Annual Meetingで,アメリカ在住の研究者(日本人も含む)から聞いた話.

日本政府が高等教育費をケチりたいために,元々先進国の中で最低レベルであった大学への公的支出が,日本ではさらに減らされている.当然,大学教員(研究者)への待遇も酷いものであるが,程度の差こそあれ,国家財政(あるいは景気)が大学に影響を与えるのはどこでも同じだ.

リーマンショックで多大な負の影響を被ったアメリカでは,自業自得だが,大学の経営も影響を受けた.その結果,多くの大学が教授(若いassistant professorクラス)の新規採用を見送ってきた.しかし,若い優秀な研究者を確保し続けないと,その専攻,研究科,さらには大学の競争力が低下し,ランクが下がりかねない.そうなれば,深刻な悪循環に陥る.今年になって,景気の見通しが上向いてきた結果,採用を再開する大学が増え,これまでの分も取り返そうとするため,優秀な候補者の激しい争奪戦が繰り広げられている.今年も含めて2〜3年は採用活動がかなり活発になるだろうと予測されている.

というわけで,アメリカでアカデミックポジションを取るなら今がチャンスだ.

もちろん,競争は熾烈だ.1つのポジションへの応募数は100件にもなるらしい.書類審査で見込みありと判断されれば,学会などで大学側からコンタクトがあり,最終的に若干名が面接へと進む.化学工学分野では,AIChE Annual Meetingが大学側が候補者に接触する非常に重要な機会となっている.各大学の教授・准教授(密偵)が候補者の発表を聞いて,評価をするわけだ.仮に採用されたとしても,テニュアを取らないといけないので,これも大変だ.

リーマンショックに関連して,もう1つ聞いた話がある.UCなんとか(どこか忘れた,少なくともSBではなかった)では,教授の給料を14%カットしたらしい.アメリカの教授も楽ではない.

11月 152010
 

今回のアメリカ出張では,まず,コネチカット州グロトンにあるファイザー社の研究所を訪問するために,次に,ユタ州のグレートソルトレイクに浮かぶアンテロープ島州立公園を訪問するために,Hertzでレンタカーを借りた.

1つめのレンタカーは,ロードアイランド州のプロヴィデンス空港からグロトンのホテルまでの往復が目的で,搭乗者は自分一人だけだったので,コンパクトカー(Compact)を利用した.予約では,車種は”Chevrolet Cobalt または同クラス車”であり,フルカバレッジで3日間のレンタル料金が240.78US$だ.

実際に借り出したのは,NISSAN VERSAという車.見た目からして,いかにも安い車だが,オートクルーズを65mile/hで設定し,ひたすらI-95を走ったところ,直進性の貧弱さが気になった.どうも走りに安定感がない.ちなみに,日本で普段乗っているのはマツダのアテンザ.

NISSAN VERSA@コネチカット州グロトン
NISSAN VERSA@コネチカット州グロトン

2つめのレンタカーは,ソルトレイクシティのマリオットホテルで借り出し,グレートソルトレイクに浮かぶアンテロープ島州立公園を訪れるのが目的で,搭乗者は5人だったので,フルサイズカー(Full Size)を利用した.予約では,車種は”Chevrolet Impala または同クラス車”であり,フルカバレッジで1日間のレンタル料金が101.55US$だ.

実際に借り出したのは,TOYOTA CAMRYという車.先のNISSAN VERSAと比べると,車格が異なるのが一目瞭然で,内外装共にレベルが違う.オートクルーズを65mile/hで設定し,ひたすらI-15を走ったが,やはり安定している.アメリカでホンダ・アコードと人気を二分するトヨタ・カムリだけのことはある.

TOYOTA CAMRY@グレートソルトレイクのアンテロープ島州立公園
TOYOTA CAMRY@グレートソルトレイクのアンテロープ島州立公園

今回は2回もレンタカーを利用したが,Hertz #1 Gold Club会員のため,レンタカー会社のカウンターで手続きする必要がなく,駐車場に用意されている車を確認し,そのまま乗り込むだけ,返却も駐車場に置いておくだけなので非常に楽だった.お勧めのサービスだ.

11月 132010
 

ソルトレイクシティと言えばグレートソルトレイク

AIChE Annual Meetingの最終日.すべてのセッションが午前中で終了するので,午後にグレートソルトレイク(Great Salt Lake)を訪れることにした.グレートソルトレイクは,その名の通り,巨大な塩湖(死海)だ.湖の大きさは琵琶湖の9倍という.

レンタカーを借りるこの機会を利用して,アメリカ初体験という学生達に,ホテルとコンベンションセンターだけでなく,アメリカの普通の生活も体験してもらおうと,ソルトレイクシティ(Salt Lake City)からI-15を北上して,Laytonのショッピングセンターに向かい,ウォルマート(Walmart)で買い物(見物?)をして,近くのレストランで昼食をとる.

アンテロープ島州立公園へ

グレートソルトレイク(Great Salt Lake)を見るだけなら,どこでも見られるのだが,折角の機会なので,野生のバイソン(バッファロー)などが見られるというアンテロープ島州立公園(Antelope Island State Park)へ行くことにした.アンテロープ島はグレートソルトレイク最大の島で,湖上を走る道路を通って自動車で行くことができる.

グレートソルトレイクに浮かぶアンテロープ島への道
グレートソルトレイクに浮かぶアンテロープ島への道

Laytonからさらに少しだけI-15を北上し,Exit 332でおりて,ひたすら西へと進む.まっすぐ.

ソルトレイクシティから1時間弱で,アンテロープ島州立公園の入口に到着する.入園料として9US$を払い,湖上道路をさらに西へと進む.まっすぐ.

まっすぐに続く道@アンテロープ島州立公園
まっすぐに続く道@アンテロープ島州立公園

道路の両岸には独特の風景が広がっている.塩分が多いため,普通の植物は育たないのだろう.薄茶色の乾燥に強そうな草だけが生えている.さらに進むと,湖上道路から,グレートソルトレイクの向こうにアンテロープ島が見える.ワサチ山(Wasatch Mountains)と青空が湖面に映って美しい.

グレートソルトレイクに浮かぶアンテロープ島
グレートソルトレイクに浮かぶアンテロープ島

ビジターセンターでバイソンに出会う

まずは,ビジターセンターへ.アンテロープ島州立公園(Antelope Island State Park)の情報や,バイソンが見られるポイントなどの情報を仕入れる.ビジターセンターは少し高いところにあり,そこからグレートソルトレイク(Great Salt Lake)を見下ろすことができる.

グレートソルトレイクを望む@アンテロープ島州立公園
グレートソルトレイクを望む@アンテロープ島州立公園

ビジターセンターの外で,いきなり,バイソンを3頭見掛けた.ラッキー! 大きい.糞も大きい.しばしバイソンを眺めてから,次のポイントへ移動する.

ビジターセンター近くで見掛けたバイソン@アンテロープ島州立公園
ビジターセンター近くで見掛けたバイソン@アンテロープ島州立公園

バッファローポイント

ビジターセンターから島内を少し南下したところに,バッファローポイントがある.山になっているが,その中腹まで車で行ける.

駐車場があるエリアは展望台になっており,閉まっていたがレストランもある.展望台からは,広大な草原,干潟?,その奥にワサチ山を眺めることができる.

アンテロープ島州立公園の風景
アンテロープ島州立公園の風景

バッファローポイントからは,バイソンが数頭見えた.かなり遠いため,黒い塊だが.よく見ると,バイソンがいる近くまで道がある.そこまでは車で行けそうだ.駐車スペースもある.というわけで,バイソンを間近に見るために移動する.道は舗装されていないため,ノロノロ運転だ.

バッファローポイントから確認した駐車スペースまで来ると,なんとそこにバイソンが3頭も来ていた.車から数メートルという至近距離だ.まるでサファリパーク.しかし,我々が車から降りると,バイソンは走り去ってしまった.

バイソンが逃げた方向にトレイルがあったので,バイソンがいる方向へとトレイルを歩く.我々が近づくと,バイソンは逃げる.かなり警戒しているようだ.

バッファローポイントから見えたバイソン@アンテロープ島州立公園
バッファローポイントから見えたバイソン@アンテロープ島州立公園

グレートソルトレイクの湖水をなめる

バイソンを間近で見られたことに大満足しつつ,次に,グレートソルトレイクの湖水を触りに行こうということになった.

バッファローポイントからビジターセンターへ戻る途中に,駐車場があって,湖岸に降りられるようになっていたので,そこに車をとめる.ところが,駐車場から塩湖までは遠い.凄い干潮になったかのように,広大な砂浜が横たわっている.

広大な砂浜@アンテロープ島州立公園
広大な砂浜@アンテロープ島州立公園

湖岸ははるか遠いが,ここで諦めるわけにはいかないと,砂浜を歩き出す.途中からは走り出す.水辺まで来ると,白い泡が大量にできていた.指を水につけて舐めると,猛烈に塩辛い.まさにソルトレイク(塩湖)だ.

塩湖岸の泡@アンテロープ島州立公園
塩湖岸の泡@アンテロープ島州立公園

しばらく湖岸で戯れていると,夕方5時近くになり,西の空が赤く染まってきた.

グレートソルトレイクの夕日@アンテロープ島州立公園
グレートソルトレイクの夕日@アンテロープ島州立公園

バイソンを見ることができて,グレートソルトレイク(Great Salt Lake)の水を舐めることができて,アンテロープ島州立公園(Antelope Island State Park)を満喫したところで,ソルトレイクシティに戻ることにする.

トヨタ・カムリでグレートソルトレイクへ
トヨタ・カムリでグレートソルトレイクへ