11月 062010
 

記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方
池谷裕二,講談社,2001

脳科学における最先端(当時)の研究成果を踏まえて,「記憶」の正体および記憶力を高める秘訣を,科学的にかつ素人にもわかるように解説しているのは見事.実に素晴らしい.しかしながら,科学者が自分の研究を語るときに普通に見られる,科学者の底抜けの能天気さが気になる.

本書「記憶力を強くする」で池谷氏は,記憶力を向上させられる薬の可能性について言及している.そのような薬は実現されるであろうし,実際その実現に向けて研究も進められていると.そして,記憶力増強薬が開発された未来の社会を美しく描いている.その推論はこうだ.

記憶力の向上 → 勉強や仕事の効率の向上 → 時間のゆとり → 心のゆとり

だが,近代史を振り返ったとき,機械化が進んだ結果として,人間は時間的なゆとりを手に入れ,心のゆとりを持ち,より人間らしく生きられるようになっただろうか.確かに,洗濯機や掃除機や食器洗浄機のお陰で家事に要する時間は劇的に短くなった.しかし,家事から解放された女性の一部は男性と社会的地位を争い,そこに時間や心のゆとりが生まれたのかは疑問だ.男性と張り合うことの是非を言っているのではなく,ゆとりには結びついていないのではないかということだ.例えば,「「アエラ族」の憂鬱 「バリキャリ」「女尊男卑」で女は幸せになったか」(桐山秀樹,PHP研究所)がそのあたりの事情を教えてくれる.そればかりか,現実には,貧富の差が政策的に拡大され,働きたくても働けない人も増えている.働けないのだから,時間のゆとりはあると強弁できるにしても,心のゆとりには繋がっていないケースも多いだろう.もちろん,これは科学の問題ではないのかもしれない.(かもしれないというのは,本書によれば,この世のすべては物理・化学反応に過ぎないから.)しかし,歴史の示すところによれば,作業効率の向上は必ずしも幸福度の向上に結びついてこなかったのではないか.実際には,現状の社会制度の中で記憶力増強薬が開発されても,競争の舞台がさらに一段上のレベルに移行するだけで,時間のゆとりも心のゆとりも生まれはしないのではないか.科学の進歩は祝福したいが,科学者の底抜けの能天気さには不思議さを感じる.恐らく,核開発に携わった科学者達も希望に満ちた人類社会を思い描いていたのだろうし.

もう1つ,気になったことがある.本書「記憶力を強くする」で池谷氏は,ウィトゲンシュタインが「語りえぬもの」と認めたものを科学は語ってみせようとしていると書いている.しかし,ウィトゲンシュタインが言う「語りえぬもの」とは例えば倫理である.人を殺すな,裁くな,ものを盗むななどに対して,その理由を科学が雄弁に語りうるようになるのだろうか.池谷氏はこうも書いている.「この遺伝子を人に組み込むことは,技術的には可能でも,倫理上行ってはならないものです」と.この倫理とは何だろうか.どこから湧いて出てきたものなのだろうか.科学が倫理を見つけ出せるのか.それは,科学が分析対象である自然の中に神を見出すということだろうか.興味津々である.今後の成果に期待したい.

最後に,本書「記憶力を強くする」で紹介されている科学的な記憶力強化方法をメモしておこう.

  • 覚えたい対象に興味を持つ.積極的な姿勢で興味を持てば,海馬は自動的にθ波を作り出し,記憶力が強化される.
  • 1ヶ月以内に復習する.記憶の一時的な保管場所である海馬が記憶を保持するのは長くて1ヶ月.
  • 復習は1週間後,3週間後,7週間後に行うと効率的である.エビングハウスの忘却曲線より.
  • 覚えたその日に6時間以上眠る.
  • 関連づけて覚える.
  • 努力を継続する.記憶力の相乗作用には冪乗効果がある.

さらに,ある意味で恐ろしい研究成果もメモしておこう.

カナダの精神神経学者ミーニイが2000年のネイチャー神経科学誌に発表した研究によると,親に毛づくろいをしてもらうなど,愛情を一身に受けて育ったネズミの子は,海馬がより豊かに成熟し,記憶力のよいネズミに育つそうです.

フランスの心理生物学者アブラスが2000年の米国科学アカデミー紀要に報告した研究によれば,暗い巣の中を一日二時間ほど照明で照らすなどの方法で,妊娠中のネズミに精神的なストレスを与えると,生まれてくる子供の顆粒細胞の増殖率が悪くなってしまうそうです.しかも,気の毒なことに,この子ネズミは大人になってからも,ふつうのネズミより海馬のはたらきが弱く,一生,記憶力が劣ったままなのです.

本当に最後に,これを肝に銘じておきたい.

神経細胞の総数は歳とともに減っていきますが,シナプスの数はむしろ反対に増えていくことがわかります.(中略)この事実は,若い頃よりも歳をとったほうが記憶の容量が大きくなるということを意味しています.それなのに人は「歳のせいで覚えが悪い」と嘆きます.この嘆きはたいへんな間違いで,私から見れば,そういう人は単なる努力不足であるように思います.そしてまた,昔自分がものを覚えるために,どれほど努力したのかを忘れているのです.

面白い本だった.

目次

  • 脳科学から見た記憶
  • 記憶の司令塔「海馬」
  • 脳とコンピューターはどちらが優秀なのか?
  • 「可塑性」―脳が記憶できるわけ
  • 脳のメモリー素子「LTP」
  • 科学的に記憶力を鍛えよう
  • 記憶力を増強する魔法の薬
  • 脳科学の未来