11月 222010
 

啓蒙とは何か 他四篇
カント(著),篠田英雄(訳),岩波書店,1974

自分のアホさを棚に上げて言わしてもらうと,訳が読めない.翻訳者は本当に意味を理解した上で日本語で書いたのか疑問だ.仮に理解していたとしても,カントが伝えようとした意味を読者に伝えようという意図があるのか疑問だ.仮にその意図があったとしても,本書でそれを実現できているのか疑問だ.というより,ハッキリ言えば,できてない.なんと読みにくい文章か.カントの原文が難解であるという言い訳が解説に書かれているが,そればかりではなく,徹底した逐語訳(原文を知らないが強くそう感じさせる)という訳し方の問題だろう.読んで疲れた.失礼ながら,翻訳の何たるかを知るために,「不実な美女か貞淑な醜女か」(米原万里,新潮社)を読ませてあげたい.

それでも,意味がわかったところには,興味深いことが書かれていた.カントの人間の本性に対する信頼が溢れていると感じた.

啓蒙とは何か

最初に,啓蒙が定義される.

啓蒙とは,人間が自分の未成年状態から抜けでることである,ところでこの状態は,人間がみずから招いたものであるから,彼自身にその責めがある.未成年とは,他人の指導がなければ,自分自身の悟性を使用し得ない状態である.ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある,とういのは,この状態にある原因は,悟性が欠けているためではなくて,むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである.

そもそも,本書「啓蒙とは何か 他四篇」を手にしたのは,師が人々を啓蒙するという行為について考えてみたかったからなのだが,この定義を読むと,カントのいう「啓蒙」と我々の普通の意味での「啓蒙」とが異なることは明らかだ.実際,広辞苑によると啓蒙は「無知蒙昧な状態を啓発して教え導くこと」であるが,カントは「他人の指導がなければ,自分自身の悟性を使用し得ない状態」を「未成年」と定義し,「他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを」もって,その「未成年状態から抜けでること」を「啓蒙」と呼んでいる.他人に頼るのではなく,自分の責任で成長しなければならないというわけだ.そういう意味では,カントが言っているのは,啓蒙というよりも,自己啓発?に近いだろうか.これも違う気はするのだが...

世界公民的見地における一般史の構想

人類の歴史とはいかにあるべきか,人類の発生と発展もその一部である自然が人類に何を求めているのかが論じられている.こんな考え方もあるのだと感心させられた.カントの論は順を追って,以下の9つの命題からなる.

  • 第一命題:およそ被造物に内具するいっさいの自然的素質は,いつかはそれぞれの目的に適合しつつ,あますところなく開展するように予め定められている.
  • 第二命題:人間にあっては,理性の使用を旨とするところの自然的素質があますところなく開展するのは,類においてであって,個体においてではない.
  • 第三命題:自然が人間に欲しているのは,次の一事である,すなわち−人間は,動物的存在としての機械的体制以上のものはすべて自分自身で作り出すということ,また人間が本能にかかわりなく,彼自身の理性によって獲得した幸福,或いは成就した完全性以外のものには取り合わない,ということである.
  • 第四命題:自然が,人間に与えられている一切の自然的素質を発展せしめるに用いるところの手段は,社会においてこれらの素質のあいだに生じる敵対関係にほかならない,しかしこの敵対関係が,ひっきょうは社会の合法的秩序を設定する原因となるのである.
  • 第五命題:自然が人間に解決を迫る最大の問題は,組織全体に対して法を司掌するような公民的社会を形成することである.
  • 第六命題:如上の問題は,最も困難であると同時に,また人類によって最後に解決されるべき課題である.
  • 第七命題:完全な意味での公民的組織を設定する問題は,諸国家のあいだに外的な合法的関係を創設する問題に従属するものであるから,後者の解決が実現しなければ,前者も解決され得ない.
  • 第八命題:人類の歴史を全体として考察すると,自然がその隠微な計画を遂行する過程と見なすことができる,ところでこの場合に自然の計画というのは,各国家をして国内的に完全であるばかりでなく,更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない,このような組織こそ自然が,人類に内在する一切の自然的素質を剰すところなく開展し得る唯一の状態だからである.
  • 第九命題:自然の計画の旨とするところは,全人類のなかに完全な公民的連合を形成せしめるにある.

自然の一部である人間という立場から出発して,最終的に,人類は公民的な世界的連合組織を形成せざるをえず,それは避けられない歴史の必然なのであると結論づける.ただし,そこに至る道程は決して平坦なものではなく,途中で酷い状態を経験せざるを得ないのだとも.

人類がこの最終の段階(すなわち諸国家の連合)に到達する前に,つまりこの連合の形成される過程のほぼ中途にさしかかったところで,極悪の状態を経験する,そしてその悪とは,うわべだけの繁栄というごまかしの仮面を被った福祉にほかならない.

大昔,まだ組織や社会なるものを持たなかった人間が社会を形成するようになったのは,それなしでは人間がまともに生活できない悲惨な状況におかれてしまうと痛感したからだ.そこで,個々の権利を阻害しうる個人連合組織(社会)を形成した.この現象が大きな規模で起こっていくと,国家間紛争の絶えない悲惨な状況の後に,個々の国家の権利を阻害しうる国家連合組織が形成されるのが歴史の必然であるというわけだ.

本論「世界公民的見地における一般史の構想」においては,最終的に国家レベルの連合組織にまで話が進むのだが,その前に,自然は人間に何を求めているのかが論じられている.個人レベルでは,むしろ,この指摘が心に強く残る.

自然は,人間に理性とこれに基づく意志の自由とを与えたのである.このことにかんがみても,人間の先天的素質に関する自然の意図は明白である.自然が人間に欲したのは,彼が本能によって指導されたり,或いは生得の知力に教えられて生活にいささかも不自由しないということではなくて,むしろいっさいのものを自分自身で作り出すことである.(中略)自然の狙いは,人間の安楽な生活というよりも,むしろ人間が自己の理性的価値を認識することにあったかのようである.(中略)いずれにせよ自然は,人間が安楽に生きることなどは,まったく考慮しなかったらしい.自然が深く心に掛けたのは,人間は,自分の行動に依って,自己の生活と身心の安寧とを享受するに値いするような存在になる,ということであった.

人類の歴史の憶測的起源

西洋人が人類の起源と言えば,当然,旧約聖書の創世記を指す.本論「人類の歴史の憶測的起源」では,人間は理性を持つ創造物であるという観点から,人間がどのように歩んできたか(歩まざるを得なかったか),その歴史を解説している.実に興味深い考察だ.当然,創世記の内容を知っていることが前提だが.

人類の最初の居所として,理性が人間に指示したのは無憂の楽園である,それにも拘わらず人間がこの楽園から出ていったのは,動物的な被造物の未開状態から人間性へ,本能といういわばあんよ車から理性の指導へ,換言すれば−自然の後見から自由の状態への移行にほかならない,ということである.

失楽園は,人間が本能のみで生きる動物的な状態から,理性と自由意志で生きる人間らしい状態に移行する際に必然的に生じたというわけだ.エデンの園に留まることは人間の責務でも使命でもなかった.もちろん,人間が学ぶためには失敗も必要である.だから,色々と悪いことも起きる.それは仕方がない.それでも,全体としては,善い方向に向かっているというのがカントの結論である.

このように哲学によって人類の最古の歴史を吟味した結果は,摂理と人事が全体として辿るところの過程とに満足するということになった.この過程は,善から始まって悪に趣くのではなくて,比較的に悪い状態からいっそう良い状態に向って次第に発展するのである.そして各人が,おのがじし分に随って力の及ぶ限りこの進歩に寄与することこそ,すなわち自然そのものによって人間に課せられた任務なのである.

途中,例えば,生活スタイルの違いから牧羊民族と農耕民族が対立するようになることが必然的であると指摘されているのは,カインとアベルの解釈である.このように創世記に沿う形で,理性を用いる人間が歴史を織りなしていく様子が描かれており,面白かった.

万物の終り

本論において,カントは次のように言明している.

我々が生涯を終えるまで我々の行状を支配している原理(善の原理にせよ,或いは悪の原理にせよ)は,死後もその支配を続けるのであって,この原理が来世,すなわち当に来るべき永遠において,変更されるなどと考える理由をいささかももつものでないということを,我々が自分自身について知る限りのこの道徳的状態にかんがみて,合理的に判断するよりほかはないのである.すると我々は,永遠の生活においても善もしくは悪の原理の支配下にあって,現在の道徳的功過に随いそれぞれの応報を受けねばならないであろう.このように考えると,我々が現世の生活を終える際の道徳的状態と,それから生じるところの応報とは,来世の生活に入ってからもやはり不変であるかのように行動するのが賢明である,ということになる.

今の人生が終わった後に控えているのが,永遠の生活(審判の日以降の天国か地獄かはともかく)なのか,輪廻転生による次の人生なのかはともかく,合理的に判断すれば,人間は善もしくは悪の原理の支配下にあって自分の道徳的功過の報いを必ず受けなければばならず,この因果応報を認識して現世の生活を送るべきだということになる.

まさに,原因と結果の法則であり,引き寄せの法則である.例えば,「[決定版]生きがいの創造」(飯田史彦,PHP研究所)「生きがいの教室―人生の意味を問う「生きがい教育」のすすめ」(飯田史彦,PHP研究所)に書かれている生きがい論というのも,このような法則に基づくものである.このような法則を論じる意図は異なっており,また,カントが考察によって結論を導き出しているのに対して,生きがい論は昨今の臨床データに基づいているという違いはあるにしても.

理論と実践

原題は「理論では正しいかも知れないが,しかし実践には役に立たないという通説について」.本論を書くにあたり,カントはかなり怒っている.

無知な人が,自分で実践と思いなしているところのものについて,理論はもともと不必要であり無くても済むものだなどと放言しているのは,まだしも我慢できる.しかし利口ぶった人が,理論とその価値とを,(ただ頭脳を訓練する目的だけの)学課としては認めるが,しかしいざ実践ということになると,様子ががらりと変ってくるとか,或いは学校を出て実社会に出ると,これまで空虚な理想や哲学者の夢に徒らに追随してきたことをしみじみと感じるとか,要するに,理論ではいかにも尤もらしく聞こえることでも,実践にはまったく当てはまらないなどと主張するにいたっては,とうてい我慢できるものではない.

結論は当然ながら,理論と実践は一致するということになる.

私は,人間の本性が悪のなかにすっかり沈没して人間の本性を愛すべきものとし顕示する時期が到来しない,と考えることはできないし,またそのように考えることを欲しないのである.それだから世界市民的見地においても,理性根拠にもとづいて理論に当てはまることはまた実践にも通用する,という主張には変りがないのである.

この問題提起から結論に至るまでに,様々な考察がなされているのだが,私が興味を持ったこと(当然ながら理解できた事柄に限定される)についてメモしておこう.

まず,人間の平等と不平等について,カントは以下のように述べている.

国家における従属者たる国民としての人間が,押しなべて平等であるということは,彼等の所有物の量や程度に関する最大の不平等とよく両立するのである.このような不平等は身体的もしくは精神的な優劣とか,或いは運不運に依存する外的財貨の多少とか,或いはまた一般に権利強弱ということもあるだろう.(中略)しかし人間としての権利について言えば,上に挙げたような不平等があるにも拘わらず,すべての人間は国民として互に平等なのである,何びとといえども公法によるのでなければ,他の何びとをも強制することができないからである.

公共体における従属者たる国民としての平等という理念から,また次のような方式が生じる.公共体の各成員は,その公共体における一個の身分を形成するいかなる階級にも達することが許されねばならない,すなわち何びとによらず自分の才能,勤勉および幸運によって,この地位に到達することができるのである.そして彼と同じく従属者であるところのものは,このような人とその子孫とを永久に抑えつけておくために,自分の世襲的特権(或る種の身分に与えられた先取特権の所有者として)かかる人の行路を妨げることは許されない.

カントは公法とその下での人間の権利に強い関心を寄せ,それらについて論じているのだが,平等と不平等についての捉え方は,福沢諭吉が「学問のすすめ」の冒頭に述べていることと同じだと思う.非常に有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉で福沢諭吉が主張しているのは,人は誰しも生まれながらにして平等だということではなく,貧乏なのはその人が学問しなかったからで自業自得,そうなるのが嫌なら学問しなさいということだ.これを,人権の立場からの主張であると勘違いする人々がいるのは,恐らく,古典の題目と著者と最初の一文を丸暗記させる日本国の国語教育の弊害だろう.あまりに浅薄で話にならない.一度は自分で読むべきだ.読んでもいないのに,題目と著者を覚えたところで無意味だ.

いや話が完全に逸れてしまったが,公法とその下での人間の権利に関するカントの考察は続く.

国民が,現行の或る立法のもとでは彼等の幸福を失う公算が多分にあると判断するとしたら,彼等はどうすればよいのだろうか,彼等は立法者に反抗してはいけないのだろうか.これに対する答えはただ一つしかあり得ない,国民としては,服従するよりほかに何ごともなし得ない,と.ここで問題となっているのは,従属者たる国民が公共体の制度或いは行政から期待し得る幸福ではなくて,何よりもまず公共体によって各人に保証せられるべき権利だからである.つまり問題は,公共体に関するいっさいの格律を発生せしめる源であるところの,そしてまた他のいかなる原理によっても制限せられ得ないところの最高原理はいかなるものか,ということなのである.

従属者たる国民が,彼等の不満を行動によって表示するために,最高の立法的権力に対して起こすところのいっさいの煽動や,また謀反につながるいっさいの暴動は,公共体において最高の刑罰に値いする犯罪である,かかる所行は,公共体の基礎を破壊するものだからである.

このように,カントは原理原則を徹底的に重視して考察を進めていく.どのような理由があろうとも,国民は最高の立法的権力に対して一切の不法行為を働いてはならないというのが結論である.およそ信頼できない国家権力の実像を目にしている国民にとっては,心情的に納得できない主張であるかもしれないが,国民が勝手に自分の解釈で正義を持ち出してしまえば,もはや社会は混乱を免れない.そうなれば,公共体の基礎は破壊されてしまう.

しかし,とカントは言う.国民は本当に国家に対して不満を抱いているのだろうか.国家を正そうと思っているのだろうか.彼はこう述べる.

これまで非常に長く存続してきた国家組織は,たとえ幾多の欠陥があるにせよ,、またこれらの組織がそれぞれいかに異なっているにせよ,けっきょく次の点で同じ結果を示すのである,すなわち−国民は現在の組織に満足している,ということである.

鋭い指摘だと思う.政治家や官僚を批判する日本国民だって,そのほとんどはマスコミのワイドショーか週刊誌レベルの伝言ゲームをしている程度でしかない.それに,口先で批判しているだけで,別に選挙に行くわけでもない.別に体制を変えようなどとは思っていないのだ.テレビや週刊誌を見て平々凡々としていても,日々の生活に窮するわけでもなく,ブランド品を買えないわけでもなく,戦役に駆り出されるわけでもなく,せいぜい年金が心配なくらいで,まあ,現状でもいいんじゃないのということだろう.

いや,また話が完全に逸れてしまったが,カントは本論「理論と実践」においても,人類が最終的には世界レベルの公民的連合組織を形成せざるを得ないとの結論に達している.とにかく,このことを主張したい様子だ.

国内の至る処で起きた暴力沙汰とそれから生じた困窮とは,けっきょく国民を強制して,理性がみずから彼等に指示して強制手段であるところの公法に服従して国家公民的組織を結成するという決意に達せざるを得なくした.同様に諸国家はしょっちゅう戦争を起こして互に侵略し合い,相手の国家を屈従せしめようとするが,こうして絶え間なく勃発する戦争から生じる困窮はこれらの国家をして,自己の意志に反してすら世界公民的組織を結成せしめざるを得なくするか,(中略)世界公民的公共体ではないにせよ,しかし共同で取極めた国際法に従うところの連合という法的状態を形成するに至らしめるのである.

目次

  • 啓蒙とは何か
  • 世界公民的見地における一般史の構想
  • 人類の歴史の憶測的起源
  • 万物の終り
  • 理論と実践

  2 Responses to “啓蒙とは何か 他四篇”

  1. 三批判書の訳者を批判するのは結構ですが、まずご自分でカントの原著を繙いてみてはいかがでしょう。純理でも実理でも、文体がどれだけ破格しているかおわかりになると思います。

    • 申し訳ありません.原文を読めるほどの力量がありません.カントのがということではなく,日本語と英語以外はダメです.

      その上で感想を書きましたが,原著がどうであれ,この訳は日本語としてこなれていないと思います.

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