3月 222011
 

これからの「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル(Michael J. Sandel)(著),鬼澤忍(訳),早川書房,2010

正義には大きく3つの立場がある.第一は,正義とは功利や福利を最大にすることだという功利主義の立場.第二は,選択の自由を尊重する自由至上主義や平等主義の立場.そして第三は,正義とは美徳を涵養することと共通善について判断することだという立場.それぞれの立場がいかなるものかを吟味し,いずれの立場が現代を生きる我々にとって最善であるかを考えてみる.

これが,本書「これからの正義の話をしよう」の主旨だろう.本書を読んで色々なことを考えさせられた.非常に刺激的だ.以下では,本書で議論されている内容をまとめてみよう.

功利主義

功利主義の原理を確立したジェレミー・ベンサムは,誰もが快楽を好み,苦痛を嫌うという事実を認め,苦痛に対する快楽の割合,すなわち効用を最大化することが道徳の至高の原理であると説く.

わかりやすいが,なんだか俗っぽい考え方だと思う.

自由至上主義

リバタリアン(自由至上主義者)は,人間の自由の名において,自由市場を支持し,政府の介入に反対する.ロバート・ノージックによれば,「契約を履行させることおよび,暴力,盗み,詐欺から国民を守ることに権限を限定された最小国家だけが,正当な存在である.それ以上の権限を持つ国家は,何かを強制されないという個人の権利を侵害するため,正当な存在とは言えない」そうだ.リバタリアンは,富の再分配は富者の基本的権利を侵害していると主張する.

よく耳にする意見だが,これに与したくはないと思う.

功利主義と自由至上主義の共通点と問題点

兵役を題材にして,功利主義と自由至上主義について考えてみる.

功利主義者は,社会全体の効用を最大化するためには,全員を機械的に徴兵するよりも,兵役に従事したくない者は兵役を免れ,何らかの見返りを受けて兵役に従事したい者は従事する制度をよしとする.極論すれば,少数の者に兵役を強要しても,社会全体の効用が最大化されるのであれば構わないという立場だ.

リバタリアンはもちろん徴兵制に反対する.それは強制であり,個人の自由を侵害するからだ.

このように,功利主義者もリバタリアンも徴兵制よりも志願兵制が望ましいと主張する.しかし,志願兵制は公平なのだろうか.近年,アメリカ上流階級の子弟は兵役に就かないらしい.志願兵の多くは低所得者層に属しており,経済的な事情から入隊を希望していると指摘されている.これは一種の強制であり,不公平ではないだろうか.

さらに,市民の義務という観点からも疑問が湧く.兵役なんて他人事だという圧倒的多数のアメリカ人は,恵まれないアメリカ人を雇って戦争をさせる一方で,自分のことだけにかまけている.これは正しいことなのだろうか.

ジャン=ジャック・ルソーは「社会契約論」において,「公共への奉仕が市民の仕事ではなくなり,彼らが自分の体ではなく金銭で奉仕するようになると,国家の滅亡は近い.戦場に赴く必要があるときに,彼らは金で軍隊を雇い,自分たちは家に引っ込んでいる」と述べている.

功利主義への批判

イマヌエル・カントは,普遍的人権の基盤となっている「道徳形而上学原論」において,道徳とは幸福やその他の目的を最大化するためのものでなく,人格そのものを究極目的として尊重することだと論じ,功利主義を徹底的に批判した.当然だが,多数派に快楽を与えるものが正しいとは限らない.

人間には理性の能力と自由の能力があり,この二つが組み合わさることで,人間は動物と一線を画する.ただし,カントの言う自由は,個人の好き勝手ではない.快楽を求め,苦痛を避けている人間は,生理的欲求と欲望の奴隷であり,真に自由ではない.自由な行動とは自律的な行動であり,自然の命令や社会的な因習ではなく,自分が定めた法則に従って行動することである.この自律的に行動する能力こそが,人間に特別な尊厳を与える.カントによれば,ある行動が道徳的であるかどうかは,行動の結果ではなく,行動の意図,すなわち動機で決まる.

功利主義者にとって,理性の役割は,欲望を満たして効用を最大化する方法を見つけることである.トマス・ホッブスは理性を「欲望の偵察者」,デイヴィッド・ヒュームは「情熱の奴隷」と呼んだ.しかしカントは,道徳に関わる実践理性は,道具としての理性でも情熱の奴隷でもなく,「いっさいの経験的目的にとらわれずに,ア・プリオリに法則を定める純粋実践理性」であると述べている.

平等とは何か

社会契約(共同体の生活を律する原理)を公正に定めるためには,どうすればよいのだろうか.ジョン・ロールズは,全員が「無知のベール」をかぶらなければならないと「正義論」で主張している.無知のベールをかぶると,自分の人種,性別,宗教,階級,貧富,学歴などがわからなくなるため,誰もが平等の原初状態で選択を行うことになり,公正な仮説的同意に至るはずだと考える.

この平等の原初状態では,功利主義的な原理もリバタリアンが信奉する自由市場の原理も選択されない.なぜなら,自分が少数派になって多数派に権利を侵害されたり,自分が恵まれない人となって社会から切り捨てられたりしたくはないからだ.つまり,平等の原初状態で選択されない功利主義や自由至上主義は公正とは言えない.

では,仮説的社会契約で選択される原理とは何だろうか.ジョン・ロールズは2つの原理を掲げる.第一原理は,言論や信仰などの基本的自由を全員に平等に与えること.第二原理は,社会で最も不遇な人々の利益になるような不平等,つまり富の再分配のみを認めること.

さらにジョン・ロールズは実力主義にも異議を唱える.「社会のどこに生まれるかを自分では決められないように,生来の資質も自分では決められない.能力を開花させるために努力するという優れた性質を備えているからと言って,それは自分にその価値があるからだと考えるのも問題だ.このような性質は,恵まれた家庭や幼少期の社会環境など,自分の功績とは呼べないものによるところが大きいからである」.個人が持つ才能だけでなく,ある時代に社会が重視する資質もまた道徳的に恣意的である.

現実には,成功している人々は,自分の成功が偶然の産物であることを見逃しがちだ.

不平等で何が悪い!

ミルトン・フリードマンと妻のローズは「選択の自由」において,「人生は公平でない.自然がもたらした結果を政府が修正できると信じたい気持ちもわかる」と平等主義者の主張を認めた上で,「しかし嘆かわしい不公平さから,われわれがどれほどの利益を得ているかに気付くことも大切だ」と自由市場経済を擁護している.

こうも臆面もなく自己中心的な見解を開陳できる根性は大したものだ.このような独善的主張を,ジョン・ロールズは「正義論」で批判している.「このような考え方は,折に触れて不正を見逃す口実となっている.まるで不正を黙認するのを拒むのは,死を受け入れられないのと同じことだとでもいうように.自然による分配は公正でも不公正でもない.人が社会の特定の場所に生まれることも同じだ.どちらも自然の事実にすぎない.公正か公正でないかは,組織がこうした事実をどのように扱うかによって決まる」.

美徳の涵養

アリストテレスは,国家は善の促進という目的に邁進しなければならず,法は市民を善良で公正な者とするための生活の掟であるべきだという.

政治の目的を美徳の涵養とするアリストテレスは,「理想的な国制がどのようなものか検証する前に,まず最も望ましい生き方とはどのようなものかを決める必要がある」と述べている.

労働の正義について考えるとき,リバタリアンにとっては,労働者が労働と賃金を自由に交換したかどうかが決め手になる.自由に交換していれば,その労働は公正だ.ジョン・ロールズはさらに,労働の自由な交換が公平な条件の下に行われることを要求する.アリストテレスにとっては,それでも不十分であり,その労働がその人の本性に適していなければならない.やりがいがない労働は正義ではないというのがアリストテレスの立場だ.

正義は中立であるべきか

美徳の涵養が目的だとして,果たして,全員が同意できるような美徳というものは存在するのだろうか.イマヌエル・カントとジョン・ロールズにとって,善良な生活に関する特定の考え方に基づく正義の理論は,価値観の押し付けであり,自由とは相容れない.このため,カントとロールズはアリストテレスの目的論を退ける.善良な生活の概念に対して正義は中立であるべきとする考え方は,道徳的個人主義の自由観を反映している.

確かに,私の責任は私が引き受けたものに限られるという道徳的個人主義は,私自身の自由な選択に基づく同意(約束)のみが義務の根拠となることを主張するものであり,解放感がある.しかし,このような考え方からは,連帯責任も,前の世代が犯した歴史的不正の道徳的重荷を背負う義務も発生しない.生まれる前の戦争に同意していないからだ.

個人の権利と選択の自由のために社会保障制度を擁護する平等主義者にとっても,自分の金は自分のものという理屈で自由市場を擁護するリバタリアンにとっても,多元的社会における道徳的・宗教的論争に政治を巻き込まなくて済むため,中立を求める正義論は非常に魅力的だ.

この独善的な道徳的個人主義の自由観は現代社会の至るところで姿を現すが,選択の自由は正しい社会に適した基盤ではない.

物語る存在

アラスデア・マッキンタイアは「美徳なき時代」において,人間は物語る存在だと説いている.我々は誰しも特定の社会的アイデンティティの担い手として自分の置かれた状況に対処する.私はある人の子供であり,ある国の国民であり,ある民族に属する.その私にとっての善とは,そうした役割を生きる人達にとっての善であるはずだ.こうして,我々は,自分の家族,国,民族の過去から様々な負債,遺産,正当な期待,債務を受け継ぐ.それらは私の人生に与えられたものであり,私の道徳的出発点となる.

あるアメリカの議員は,自分は奴隷を保有したことはないという理由で過去の奴隷制度への補償に反対した.あるドイツ人は,戦後生まれの自分はナチスの行為と何の関係もないと信じる.マッキンタイアは,これらの態度に道徳的な浅薄さを見てとる.マッキンタイアの物語的な考え方は,道徳的個人主義の自由観と対照的である.

多元的社会では最善の生き方について意見が一致しないが,道徳的・宗教的問題から目をそらせて正義や権利について議論することはできない.達成不能な中立性を装いつつ重要な公的問題を決めるのは,反動と反感をわざわざつくりだすようなものだ.本質的道徳問題に関与しない政治をすれば,市民生活は貧弱になってしまう.偏狭で不寛容な道徳主義を招くことにもなる.リベラル派が恐れて立ち入らないところに,原理主義者はずかずかと入り込んでくるからだ.

ここまでのまとめ

正義には3つの立場がある.第一は,正義とは功利や福利を最大にすることだという功利主義の立場.第二は,選択の自由を尊重するリバタリアンや平等主義の立場.そして第三は,正義とは美徳を涵養することと共通善について判断することだという立場.

功利主義的な考え方には欠点が2つある.1つは,正義と権利を計算の対象としていること.もう1つは,あらゆる善を唯一の基準で評価し,その質的な違いを考慮しないこと.

自由に基づく理論は,権利や正義を単なる計算対象とは見なさず,その尊重を訴える.しかし,尊重に値する権利を選び出すことはせず,人々の嗜好をあるがままに受け入れる.

しかし,公正な社会は,効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは達成できない.公正な社会を実現するためには,善良な生活の意味を我々が考え,避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなければならない.

結論

最後に,マイケル・サンデル教授の結論を引用しておく.

多元的社会の市民は,道徳と宗教に関して意見が一致しないものだ.(中略)この数十年で我々は,同胞の道徳的・宗教的信念を尊重するということは,それらを無視し,それらを邪魔せず,それらに−可能なかぎり−関わらずに公共の生を営むことだと思い込むようになった.だが,そうした回避の姿勢からは,偽りの敬意が生まれかねない.(中略)そこから反発と反感が生じかねないし,公共の言説の貧困化を招く恐れもある.言説の貧困化とは,1つのニュースから次のニュースへと渡り歩きながら,スキャンダラスでセンセーショナルで些細な事柄にもっぱら気を取られるようになることだ.(中略)我々は,同胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく,もっと直接的にそれらに注意を向けるべきだ−ときには反論し,論争し,ときには耳を傾け,そこから学びながら.(中略)道徳に関与する政治は,回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない.公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ.

言説の貧困化.なるほど,これが昨今の日本人の状態をよく言い表している.

目次

  • 正しいことをする
  • 最大幸福原理─功利主義
  • 私は私のものか?─リバタリアニズム(自由至上主義)
  • 雇われ助っ人─市場と倫理
  • 重要なのは動機─イマヌエル・カント
  • 平等をめぐる議論─ジョン・ロールズ
  • アフォーマティブ・アクションをめぐる論争
  • 誰が何に値するか?─アリストテレス
  • たがいに負うものは何か?─忠誠のジレンマ
  • 正義と共通善