4月 252011
 

原子力発電に関しては,宇沢弘文氏が言った「社会的費用」を誰も払わず,結局,これから数百年間にわたる我々の子孫につけをまわしてしまった.今,我々がみずからの責任で大転換を果たさないなら,我々の世代は無責任で軽蔑すべき世代として歴史に刻まれるだろう.それも永久に.

「社会的費用」というのは,受益者負担の原則が貫かれていないために,社会全体が被っている損失のことである.宇沢弘文氏はその著書「自動車の社会的費用」(岩波書店)において,自動車を例として取り上げ,自動車を利用している人達がその社会的責任を全うせず,社会全体に押し付けているコスト,つまり自動車の社会的費用を算出しようとした.

自動車のもたらす社会的費用は,具体的には,交通事故,犯罪,公害,環境破壊というかたちをとってあらわれるが,いずれも,健康,安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し,しかも人々に不可逆的な損失を与えるものが多い.このように大きな社会的費用の発生に対して,自動車の便益を享受する人々は,わずかしかその費用を負担していない.逆にいうならば,自動車の普及は,自動車利用者がこのような社会的費用を負担しないでもよかったからこそはじめて可能になったともいえるのである.

宇沢弘文氏の痛烈な指摘は,そのまま原発問題にもあてはまる.

従来,公共投資の優劣を判断する根拠として,社会的便益と社会的費用の差を指標とするコスト・ベネフィット分析が用いられてきた.この分析では,社会的便益から社会的費用を引いた差が大きければ大きいほど素晴らしい公共投資だという結論になる.それが,どれほど環境に致命的な損傷を与えるとしても.

その結果,実質的所得配分はさらにいっそう不平等化する.なぜなら,低所得者層ほど環境破壊などの影響を深刻に受けるためである.例えば,公害が発生した場合,高所得者層はその土地から離れることができても,低所得者層にそのような選択をする余裕はない.原子力発電所は都会に設置されないし,みなが受け入れたくない施設が高級住宅街に建設されることもない.そして,ホフマン方式が示すとおり,低所得者が被る損害は少額にしかなりえない.

今,我々が生きている日本の現状から目を逸らすな!

福島原発事故のために,どれだけ多くの人々が苦しんでいるかを.彼らは誰のために苦しまなければならないのか.東電から電力供給を受けてきた人達は,その犠牲の上に,便利この上ない都会の生活を満喫してきたのではないのか.他の地域でも同じことだ.関西人なら,福井の人達に社会的費用を押しつけて,安価な電気を浪費してきた.そのような所業を無視していては,日本は変わらない.

しかも,原発事故の被害は,もはやお金で解決できるようなレベルを超えている.

人命・健康,さらには自然環境の破壊は不可逆的な現象であって,ここで考えられているような社会的費用の概念をもってしては,もともと計測することができないものである

なぜ,これまで,不適切な社会的費用の計算方法がまかり通ってきたのか.それは,社会的費用の計算根拠を,新古典派経済理論に求めてきたことに原因がある.宇沢氏は新古典派経済理論の問題点を2つ指摘している.1つは,生産手段の私有制が基本的な前提条件となっていること.つまり,共有される社会的資本に対する思慮が欠落しているという問題.もう1つは,人間をたんに労働を提供する生産要素として捉えるという面が強調され,社会的・文化的・歴史的な存在であるという面が捨象されていること.つまり,基本的人権や市民的権利など眼中にないという問題.このため,学者が好む新古典派経済理論は,都市問題や環境問題など現代社会においてもっとも深刻な社会的・経済的問題を引き起こしている現象を解明するための理論的フレームワークを提供していない.役立たずだ.

では,どうすればよいのか.自動車について,宇沢氏はこう考えた.

自動車を所有し,運転する人々は,他の人々の市民的権利を侵害しないような構造をもつ道路について運転を許されるべきであって,そのような構造に道路を変えるための費用と,自動車の公害防止装置のための費用とを負担することが,社会的な公正性と安定性という観点から要請されてくる.

いま,歩行,健康,住居などにかんする市民の基本的権利の内容について,ある社会的合意が成立しているとしよう.自動車の通行をこのような市民的権利を侵害しないようにおこなおうとすれば,道路の建設・維持にどれだけの追加的な費用を必要とし,自動車の無公害化のためにどれだけの投資をしなければならないか,ということを計算する.

これと同様の計算を,我々は原子力発電に対して実施すべきだ.本当は,もっと早くに実施すべきだった.しかし,そうはしなかった.だから,今,原子力発電の社会的費用を計算すべきだ.

しかも,今生きている我々の基本的権利だけを考慮するのではなく,我々の子供たち,その先の未来の世代の基本的権利も当然守らなければならない.これができないような世代は軽蔑されて当然だろう.

宇沢氏の結論はこうだ.

この投資基準は,たんに自動車通行のための道路だけでなく,一般に社会的共通資本の建設にさいして適用することができる.このような基準にもとづいて,公共投資をさまざまな用途,たとえば代替的な公共交通機関や道路に配分するとき,社会的な観点から望ましい配分をもたらすものである.この基準を適用するとき,どのような地域に住む人々も,またどのような所得階層に属する人々も,社会的な合意をえて決定された市民の基本的権利を侵害されることがない.また,他人の基本的権利を侵害するような行動は社会的に許されないという原則が貫かれる.そして,すべての経済活動に対して,その社会的費用は内部化され,福祉経済社会への転換が可能となり,わたくしたち人間にとって住みやすい,安定的な社会を実現することができるといえよう.

繰り返す.

この大震災と原発事故を機に,我々日本人はこれまでの所業を改め,日本の進路を大転換しなければならない.そのためにも,今ここで,原子力発電の社会的費用を計算すべきだ.今を生きている我々世代の基本的権利だけを考慮するのではなく,我々の子供たち,その先の未来の世代の基本的権利を絶対に守るという決意を持って.

それができず,原子力発電の社会的費用を無視し続けるなら,我々は軽蔑すべき世代として歴史に刻まれよう.