7月 302011
 

父親が,定年後も雇用延長で勤めていた会社を,70歳になったのを機に辞めた.苦労しつつも自分を育て上げてくれたことへの感謝の気持ちを込めて,両親を食事に誘った.元々,4月に行こうと言っていたのだが,私のスケジュールがあわず,ようやく今日,3人で岩さきを訪れることができた.

3人での食事なんて,いつ以来だろう.記憶をさかのぼってみると,2007年夏にメキシコ旅行をプレゼントしたときに違いない.カリブ海リゾートのカンクンで開催された国際会議に参加するときに,両親を一緒に連れて行った.会議中は身動きがとれないので,現地の日本人向け旅行社に頼んで,両親の面倒を見てもらいつつ,一緒に古代マヤ文明の遺跡チチェン・イッツァを訪れたり,セノーテで泳いだりと,貴重な体験に恵まれた旅だった.

京都市営地下鉄の烏丸御池駅で待ち合わせ,御池通りを西へ,釜座通りを少し上がったところに,岩さきはある.落ち着いた店構えで,カウンター6席と奥に個室がある.今回は,3人で話ができるようにと,カウンターの角を用意していただいた.

お店には我々が一番乗りで,ご主人と奥さんに丁重に挨拶をしていただき,席に着く.食前酒は梅酒のシロップ割り.氷の粒が入っている.

日本料理らしく野菜が中心で,控えめな味付けながら,とても美味しい.お造りはシマアジとタイ,焼き物はスズキ,その他にハモをいただいた.最初にビール,次に冷酒をいただきながら,普段は会うことも話をすることもほとんどない両親と,色々と話をする.

ご飯ものは,釜で炊いた白飯に,すっぽんちりめん,お味噌汁とお漬け物.

デザートには,スイカとキウイ,それに自家製のわらび餅.

たっぷり2時間をかけて,大変美味しくいただいた.料理もサービスも素晴らしく,両親も満足してくれたようだ.是非また訪ねてみたいお店だ.

ちなみに,今回は,お祝いということもあり,8000円の料理をお願いした.昼だと,もっと安いコースもある.あと,クレジットカードが使えるのは夜だけとのこと.昼は現金のみ.

岩さき 懐石・会席料理 / 烏丸御池駅二条城前駅丸太町駅(京都市営)

昼総合点★★★★★ 5.0

7月 292011
 

いつもは東京で開催している日本学術振興会のとある研究会を,京都で開催することになり,いつものように懇親会の手配を請け負った.日本全国から参加されるため,京都らしい場所や食事が好まれる.このため,よく行くのは祇園だが,7月なので納涼川床にしようかと考えた.

確かに,鴨川の川床であれば,初体験の方も多いであろうし,京都らしさを楽しんでもらえそうだ.しかし,夏の京都はとんでもなく蒸し暑い.下手すると,納涼どころか,灼熱川床になりかねない.そんなわけで,事前にアンケートをとった.1)暑くても川床,2)祇園,3)とにかく美味しい京料理.

その結果,圧倒的な支持を集めたのが,「暑くても川床」だった.そこで,リーズナブルに川床を楽しめそうな店を探したところ,行き着いたのが,先斗町の「The みます屋」というわけだ.

今回は18名で利用した.予約したのは4200円のコース料理.飲み放題はつけなかった.とりあえず,生ビールで乾杯.

幸い,涼しい日で,雨に降られることもなく,快適な納涼川床を満喫できた.お腹いっぱい食べて,大いに飲んで,1人7000円弱.川床初体験の方が多かったが,大いに楽しんでもらえた様子だった.コストパフォーマンスは高い.一度,川床に行ってみたいという方にもお勧めだ.

The みます屋 創作料理 / 祇園四条駅河原町駅三条駅

夜総合点★★★☆☆ 3.5

7月 282011
 

続・日本人の英語
マーク ピーターセン(Mark Petersen),岩波書店,1990

ショックを受けた「日本人の英語」の続編.本書「続・日本人の英語」では,日本の映画や文学に多くの題材が求められている.日本近代文学を専攻した著者は,こう言う.

「悔しい」や「偉い」,「可愛い」,「優しい」などの,どう考えても一つの形容詞として英語の表現にならない日本語が私は好きである.

著者が書いているとおり,ただの続編ではない.随分と雰囲気が異なる.

本書では似て非なる表現が数多く取り上げられている.例えば,hearingとlistening,seeingとlookingとwatching.

“hearing”は,音が耳にはいること.「きこえる」と言うときは,”hear”を用いて,”listen”を用いない.”hearing”は,先方のことをこちらへききとること.”listening”は,きこうと思ってきくこと,こちらから先方をきく.

大まかに言えば,”seeing”は,目という”道具”でもって,あるものをvisual informationとして頭脳に入れることである.”looking”は,一応注意してみることではあるが,時間の経過をあまり感じない表現である.”watching”はまさに時間の経過して行く間,ものの変化を意識する,「観察」に近いことである.

この使い分けは習ったような気がする.他に,使役動詞のmakeとletとhave.

同じ「書かせた」とはいっても,英語の表現としては,

I made my mother write the letter.

I let my mother write the letter.

I had my mother write the letter.

の三つは,まるで「世界」が違う.

I made my mother write the letter.

というのは,いくらお母さんに嫌だと言われても,「無理やりに,強制的に書いてもらった」ということになる.要するに,

I forced her to write it – against her will.

ということになる.

“let”はその逆である.”let (someone) do (something)”は,単なる「させる」というのではなく,「することを許す」あるいは「することをゆずる」という意味が基本であるので,

I let my mother write the letter.

と言われたら,母に頼まれて娘が書かせてあげることにした,という場面などが浮かんでくる.要するに,

She wanted to write it, and I decided to allow her to do so.

ということになる.

“had”は,”made”と”let”の真ん中にあり,中立的な存在である.書くことに関しては,お母さんに嫌がられていたわけでもなければ,やりたがられていたわけでもない,ただ,なぜか「母に書いてもらった」だけというケースなら,

I had my mother write the letter.

と言ってもよい.ただし,”have (someone) do (something)”という表現は,多少ビジネスぽいニュアンスがあるので,身内の人に対しては,かならずしもふさわしい表現ではない.それに,何と言っても,”have (someone) do”は,「やってもらうのは当然だ」という事情を示すので,使い方がそれだけ限られている.

ん~,この使い分けは意識していなかった気がする.

「日本人の英語」に引き続き,本書「続・日本人の英語」でも,冠詞の使い方が取り上げられている.

“the Japanese”という表現には,すべての日本人を,一人残らず,一つのものとして取り上げて構わない,それぞれ個人の差があると思わなくてよい,という前提がある.この”the Japanese”という言い方は,ある種の修辞法にすぎないが,恐ろしいことに,ネイティブ・スピーカーの多くは,その言い方を無意識に使ってしまいがちである.しかも,逆に,同国人に関しては,アメリカ人は決してthe Americansとは言わない.

確かに,言われてみれば,そうか.意識したことがなかったが...

続編である本書もお勧めだ.

目次

7月 272011
 

「日本人の英語」(マーク・ピーターセン,岩波書店,1988)を読んで,顔面蒼白になったと書いた.

その本から,あと少しだけ,前置詞やコンマの使い方についての指摘を紹介しておこう.その意図は,英語が上手ではないけど論文や文章を書かないといけない人に,本書「日本人の英語」を読んでみようかなと思ってもらうことだ.

Clean out your desk!(机の中を片付けてきれいにしなさい)

Clean off your desk!(机の上を片付けてきれいにしなさい)

参考までに,ただの”clear your desk”だけだったら,机を洗って汚れを落とすような意味になる.

Keep out of this room!(この部屋に入るべからず)

Keep off the grass!(芝生に入るべからず)

She took out her raincoat.(彼女はレインコートを取り出した)

She took off her raincoat.(彼女はレインコートを脱いだ)

つまり,outというのは三次元関係を表し,動詞に「立体感のあるものの中から外へ」という意味を与える.それに対して,offというのは二次元関係を表し,動詞に「あるものの表面から離れて」という意味を与えるわけである.

ファーストフードの店の

Is this for take-out?(お持ち帰りですか)

という言い方と,飛行機に関しての

the moment of take-off(離陸の瞬間)

という言い方にも同じ「中から外へ」と「表面から離れて」との使い分けがはっきりと反映されている.

本書「日本人の英語」で繰り返し強調されているのは,英語という言語は極めて論理的であるということだ.前置詞にしても,冠詞にしても,その他にしても,一貫して同じ論理に基づいており,その論理さえ理解できれば,英語で表現することは難しくないという.日本人が日本語で書いた英文法の本には例外が多く登場するが,それは「執筆者が英語の論理を理解していないから」ということになる.

句読点の正しい付け方を覚えるために,コンマのことをカッコと考えたらよいと思う.

「私が去年受賞したノーベル賞はとても光栄でした」のような日本語を,コンマ抜き(限定的用法)で,

The Nobel Prize which I received last year was a great honor.

という英語に直してしまったら,それは今度受賞したノーベル賞は初めてではなく,自分は前にも受賞したことがあるということになる.しかも,その英語のニュアンスとしては,「前に受賞したやつはともかく,今度の場合は光栄です」というひびきも多少あるので,これは注意すべき点だと思う.いうまでもなく,非制限的関係節にして,次のように直せば意味は正しく伝わる.

The Nobel Prize, which I received last year, was a great honor.

ここでコンマについての指摘を持ち出したのは,最近ある大学教員が「コンマなんて読みやすくするためだけのもの」と言うのを耳にしたからだ.読みやすさもあるけれども,それは日本人が読みやすいかどうかではないし,そもそもコンマの有無で意味が変わることを忘れてはいけない.

thereby(by this specific action)とthus(in this general way)は,両方ともかっちりした英文に非常に大切な表現である.hence(for this reason/therefore)という言葉も論文にとてもふさわしい.

繰り返すが,本書は一読の価値がある.

なお,綺麗な英文を書きたいのであれば,”The Elements of Style”は手元に置いておくといい.良い例と悪い例を並べて,どういう英文を書くべきかを丁寧に教えてくれる.例えば,あなたはコンマ,セミコロン,コロンを正しく使い分けられるだろうか.自信がないなら,”The Elements of Style”だ.

7月 262011
 

日本人の英語
マーク ピーターセン(Mark Petersen),岩波書店,1988

日本文学に造詣の深い著者が,日本人の英語にありがちな問題を指摘している.対象は,英語の苦手な一般日本人だけではない.その日本人が使っている英文法の教科書の説明も全く不可解だとバッサリやられている.これでは,中学高校で英語を6年間勉強してもダメなわけだ...

ともかく,本書「日本人の英語」を読んで,何度も顔面蒼白になった.「そんな英語はない!」と断じられている表現を,一体どれだけ平気で使用してきたことか...

例を挙げよう.

thereforeという言葉は,非常に堅い論理的関係を表し,学術論文には大切なものである.thereforeは,書き言葉のaccordinglyやconsequentlyより,さらに改まった印象がある.「その理由で」という意味で,推論の正確さや精密さを示し,特に数学や法律などの形式ばった文章に目立つ言葉である.

日本人の書いた英文には,センテンスの冒頭に”Therefore,”がいやに多い.thereforeに関してもっとも勧めたいのは,原則として冒頭にコンマで区切った”Therefore,”を一切使わないことである.どんなことを書こうとしても,この書き方だけは使う必要はないのである.

告白するが,”Therefore,”のない論文を書いた記憶がない...

その他の「べからず」集も見ておこう.

現実問題として,日本人の書いた学術英語論文を見ると,受身の単なる使いすぎが実に目立つ.単純な例であるが,

The following results of this experiment were obtained:

のような弱々しい英文もよく見かける.それをまずもう少し慣用語法にかなった順序に直せば,次のようになる.

I this experiment, the following results were obtained.

これで形が英語らしくなってきたが,この受身には,虚弱な雰囲気がまだある.同じ内容で,もっと自信を持った,迫力のある表現はいくつも考えられるが,それは

We obtained the following results in this experiment:

とか,

The experiment yielded the following results:

とか,あるいは

The results of this experiment are as follows:

という文章のように,すべて能動態である.

この「離れすぎ問題」は実に多い.さまざまな形で現れるけれども,私個人のもっとも嫌いなのは”… was investigated.”である.その表現をもう二度と見かけなければと常に思う.誰が調査したかを隠すことが別になければ,やはり主体を明白にし,能動態にした方がはるかに現代学術論文らしくなる.他にも”… was determined”や”… was reported”なども.

日本人の書いた英文には,センテンスの冒頭に”Especially, …”という言葉をよくみかける.いうまでもなく,それは日本語のセンテンスの冒頭によくでてくる「特に,」あるいは「とりわけ,」のつもりで書かれたものにすぎないであろうが,英語にはそういう表現はない.「特に,」あるいは「とりわけ,」という意味をもつespeciallyは確かに単語としては存在するけれども,上の形でセンテンスの冒頭にでてくる”Especially, …”は,英文をいくら探しても,見つかるはずがない.この言い方はないのである.上のセンテンスを直す方法はいくつも考えられるが,早い話が”Especially, …”を”In particular, …”にする.

英語のネイティブ・スピーカーの書いた英語論文より,日本人の書いた英文には”Accordingly, …”や”Consequently, …”が圧倒的に多い.それは必ずしも間違いではないかもしれないが,私の見てきたかぎりでは,半分以上は不自然な言い方で,添削を経て生き残るものは少ない.

英語論文を書くとき:

  1. “…, so”は「だから」と「だからさ」の中間くらいで,論文には口語的すぎるので,一切使わない.
  2. sinceとbecauseの堅さはちょうど論文にふさわしい程度で,そういう意味で自由に使ってよい.ただし,因果関係を示すのにいかにも「素朴」という感じで,ソフィスティケーションの足りないような印象を与えかねない.
  3. becauseという意味をもつasという言い方は,学術論文,とりわけ科学論文には使わない方がよい.
  4. 文学や恋文などを書いていないかぎり,”…, for”を使わない.

「それは当然だよね.フン」と鼻であしらえるような指摘もあるが,耳が痛すぎる指摘もある.本当に本書「日本人の英語」を読んで良かった.

大学で研究なんてものをしていると,英語で論文を書かずにはいられない.このため,下手は下手なりに,英語で文章を書くことには慣れてくる.何度も添削をしてもらっていると,初歩的な文法ミスなどは防げるようになる.一方,なかなか使い方を習得できないのが,冠詞と前置詞だ.特に,冠詞は酷い.a,the,無冠詞,複数形をどう使い分けたらいいか判然としないことが少なからずある.この点については,本書では以下のように指摘されている.

少なくとも「冠詞を名詞につける」というような非現実的な考え方を避けるだけでも,作る英語は大分よくなると思う.英語で話すとき-ものを書くときも,考えるときも-先行して意味的カテゴリーを決めるのは名詞でなく,aの有無である.glassという名詞の意味は不定冠詞のaに「つけられた」ことによって決まってくる.あるいは,これは文脈にもよるが,”a glass”に対して,たとえば,定冠詞の”the glass”は「例の一杯」という意味に,無冠詞の”glass”は「硝子」という意味になることもある.一つの形の決まった,単位性をもつ物ならば,a chicken(ある1羽の鶏),a song(ある1つの歌),a man(ある1人の男),単位性のない,何の決まった形もない,材料的な物,集合的な概念ならば,chicken(鶏肉),song(詩歌という芸術,歌うこと),man(人類そのもの)となる.

英語を勉強し始めてから今まで,「冠詞を名詞につける」というような非現実的な考え方を教え込まれてきたような気がするのだが,気のせいか...

日本の英字新聞に掲載されたエッセイの冒頭センテンス:

The international understanding is a commonly important problem in both the West and Japan.

英語として冒頭センテンスが与える印象は支離滅裂である.

なんと言っても,”the”という言葉があるために,筆者の考え方が確実でないような不安に駆られ,主旨を理解するのが困難になるのである.theはaと同じく,名詞につけるアクセサリーのようなものではなく,意味的カテゴリーを決め,その有無が英語の論理の根幹をなすものである.”the international understanding”になると,読者は,まずいらいらして,”What!?!”と聞かずにはいられない.上のセンテンスは”The”から始まるので,ある特定のa certain specifically identified international understandingを指しているかのようにみえる.

さらに,上述の”a commonly important problem in both the West and Japan”という表現も,通常の英語では意味がとれない.英語の理解では「国際理解」はproblem(困ること)ではなく,issue(課題)である.problemというのは「国際理解の足りないこと」である.

残る問題は”commonly important”という,具体的な意味のない英語をどう考えたらよいかという問題である.大ざっぱにいえば,ふつう常識で考えられる解釈は二つある.一つは,”commonly considered to be important”(重要と一般に思われている)という意味でとる.しかし,そういう意味だったら,英語ではそうはっきりといわなければならない.もう一つの解釈は,”commonly important”は「幅広くいろいろな面で重要」という意味にとる.それだったら,

International understanding is an issue of wide importance to both Japan and the West.

に直せばよい.

これまで,支離滅裂な文章を大量生産してきたに違いない.振り返るのが恐ろしい.

冠詞theについては,次のような指摘もなされている.

本当はU.S.A.にtheがつくのは固有名詞だから,あるいは国名だからではなく,普通名詞のstatesがあるからである.The Mississippi Riverも同じである.川の名前だからではなく,普通名詞のriverがあるからtheがつくのである.

まだまだ続く.

英語では,いきなり”her cat”で紹介した場合,それはher one and only catという意味になる.もしそうでなければ,つまり,彼女の家に猫が数匹いるとすれば,猫のことを最初に言い出すとき,英語では”one of her cats”と言う.むろん,一度その猫を紹介しておけば,それ以後,「例の,その猫」という意味でher catあるいはthe catというのもあるけれども,それは日本語の「は」と「が」の使い方と同じようなものである.

日本人の中には,このように「文脈がtheが使えるほど十分に限定しているかどうか」であるという点についての混乱が多少あるようである.私の英文添削に対して,”Notes on the Writing of Scientific English”という題名に対して,「scientific Englishのwritingのことを一般的にいっているから,別にtheがなくてもよいのではないか」ときかれたことがある.

このポイントは非常に大事で,”~ing+of+名詞”のパターンもよくあれば,ofなしの”~ing+名詞”もよくあり,しかも,前者はtheのカテゴリーに入るが,後者は入らないというポイントである.つまり,”on the writing of scientific English”も,”on writing scientific English”も正しいが,on writing of scientific Englishも,on the writing scientific Englishも正しくないのである.

実は,この理屈というのはまた上述の「文脈がtheが使えるほど十分に限定している」かどうかに基づいているのである.前者の場合は,of scientific Englishのofがあるから,writingとscientific Englishの関係が修飾関係であえる.つまり,どのwritingかというと,writing of scientific Englishである.他ではなく,of scientific Englishがwritingの意味の範囲を限定している.それに対して後者の場合は,scientific Englishがwritingの「目的」にすぎず,修飾関係ではないので,十分な限定にならないのである.だから,”on the writing scientific English”という言い方はありえないのである.

以上は,本書「日本人の英語」に記載されている指摘のほんの一部である.このレベルの指摘が耳の痛いなら,とにかく本書を読んでみるべきだろう.

最後に,昨今話題の日本(人)の国際化についての指摘に耳を傾けてみよう.

英語だからといって,人の名前を逆さまにする時代はとっくに終わっている気がする.アメリカのニュースでは中国人や韓国人の名前は,Mao Tse Tung(毛沢東)とか,Kim Dae Jung(金大中)といっているのであって,けっしてTse Tung MaoとかDae Jung Kimとはいわない.ところが,日本人の名前になると,おかしなことにYasuhiro NakasoneとかNoboru Takeshitaとなってしまうのである.これは日本人自身が順序を逆さまにしてきたから,そうなっているにすぎないのである.しかし,そのために,ふつうのアメリカ人は,これが日本人のほんとうの名前だと思い込んでしまっているのである.日本の国際化のためには,このような明治時代からの考え方をこのあたりでやめてもよいような気がするが,どうであろうか.

目次

7月 262011
 

株式会社オメガシミュレーションの全面的支援の下,日本学術振興会プロセスシステム工学第143委員会ワークショップNo.27「プロセス制御技術」の有志で開発した,酢酸ビニルモノマー製造プラントのシミュレーションモデルと専用実行環境の無償提供を開始しました.下記サイトからダウンロードしていただけます.

ダウンロード: Visual Modeler 体験版

このモデルを,下記のような問題のベンチマークとして実行することができます.

  • プラントワイド制御系の構成
  • PID制御検討
  • 異常検知・異常診断
  • 最適運転
  • 窒素パージからのスタートアップ運転
  • 運転状態の変更操作

訓練用シミュレータとしても産業界で広く活用されているVisual Modelerの機能をフル活用して,極めて精緻なプラントモデルが構築されていますので,様々なシナリオで現実的なダイナミックシミュレーションを実行することができます.大学や企業での研究・教育等に是非ご活用下さい.

酢酸ビニルモノマー製造プラントの概要については,次の文献を参照して下さい.

  • Hiroya Seki, Morimasa Ogawa, Toshiaki Ito, Shigeki Ootakara, Hisashi Murata, Yoshihiro Hashimoto, and Manabu Kano: Plantwide Control System Design of the Benchmark Vinyl Acetate Monomer Production Plant. Computers & Chemical Engineering, Vol.34, Issue 8, pp.1282-1295 (2010)
7月 252011
 

7月2度目のユニバーサルスタジオジャパン(USJ).今回のお目当ては,夏限定のウォーター・サプライズ・パーティ(Water Surprise Party)だ.

とりあえず,初回は最前列中央しかないだろ!ということで,彼女と義母に子供2人を託し,1人で場所を確保する.レジャーシートを広げ,快晴で強烈な日差しの中,真昼に1時間,じーっと身動きもせずに座っている.

ビショ濡れになっても構わないように,慎重にスニーカーをビーチサンダルに履き替え,でも,日焼け対策はせずに...

これが失敗だった.海やプールへ行けば入念に日焼け止めを塗るのに,場所取りで日焼け止めを塗らないなんて馬鹿げている.おかげで,腕は真っ黒,膝から太ももの中央にかけては真っ赤になった.

ともかく,最前列中央でウォーター・サプライズ・パーティ(Water Surprise Party)を見る(?)ことになった.

まずは,セサミストリートのエルモを筆頭に,キャラクターたちの登場だ.長女5歳はキティちゃんに大喜び.でかすぎて,ちょっとビビリ気味だが...

エルモらキャラクターの登場@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)
エルモらキャラクターの登場@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)

ハロー・キティのダンス@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)
ハロー・キティのダンス@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)

当然ながら,USJ10周年記念のウォ,ウォウ,ウォーウ,グッキー!のダンスも踊る.ウォーター・サプライズ・パーティ(Water Surprise Party)でも,このダンスを教えてもらえるので,もはや完璧だ.

このダンスタイムの後,リンボーダンスが始まる.ちびっ子たちが中央に行って,リンボーダンスに挑戦する.といっても,普通にくぐっている子供がほとんどだ.リンボーの何たるかなんて,誰も気になどしない.

ダンスタイムが終わると,キャストも観客も全員がウォーター・シューター(水鉄砲)の準備をする.いよいよ戦闘モードに突入といった雰囲気だ.

エルモやクッキーモンスター,キティちゃん,スヌーピーなどキャラクターたちは,ビニール傘を持っている.防戦モードに突入だ.

ウォーター・シューターとビニール傘を用意@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)
ウォーター・シューターとビニール傘を用意@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)

防戦モードのエルモたち@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)
防戦モードのエルモたち@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)

号令とともに,一斉に激しい水合戦がはじまる.観客の子供たちはウォーター・シューターでキャラクターやキャストに水をかける.集中砲水を浴びるキャストは大変だが,ウォーター・シューターで反撃してくる.

しかし,そんな攻防も束の間.ウォーター・シューターを手放したキャストは,バケツで水をかけてくる.

いや,それどころではない.ホースで放水してくる.

バケツで水をかける@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)
バケツで水をかける@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)

もはや防御しようがない放水@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)
もはや防御しようがない放水@ウォーター・サプライズ・パーティ(USJ)

ウォーター・サプライズ・パーティ(Water Surprise Party)が終わる頃には,というか途中ですでに,全身ズブ濡れ.プールに飛び込んできたかのような状態だ.

いや,これは面白い.

結局,1日に3回開催されるウォーター・サプライズ・パーティの1回目と3回目に参加した.1回目は最前列に座って,2回目は2列目に立って.

今回は,マジカル・スターライト・パレード(Magical Starlight Parade)も見たので,朝から晩まで約12時間しっかりユニバーサルスタジオジャパン(USJ)を満喫した.

クッキーモンスターになる長男長女@ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)
クッキーモンスターになる長男長女@ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)

さて,前回7月2日にUSJで遊んだときには,なんとビデオカメラをなくしてしまい,泣きそうになったが,「やっぱり日本は凄いぞ!ユニバーサルスタジオジャパンUSJでの出来事」で報告したとおり,そのビデオカメラは無事に帰ってきた.今回は,そのビデオカメラは自宅待機として,2年前にハワイ家族旅行のために購入した防水デジタルカメラCANON PowerShot D10を持参した.もちろん,ウォーター・サプライズ・パーティ(Water Surprise Party)対策だ.

7月 172011
 

7月の京都と言えば,祇園祭.全国的には,コンコンチキチンコンチキチンの祇園囃子,宵山,そして山鉾巡行が祇園祭という印象であろうが,実際の祇園祭は,7月1日に始まり,約1ヶ月間にわたって続く.その歴史は869年に創始された祇園御霊会まで遡るそうだ.

今年は,山鉾巡行が三連休中日の日曜日ということもあって,人出も凄いのだろう.幸い,天候にも恵まれているが,この暑さは凄まじい.

その山鉾巡行を明日に控えた本日,長男8歳と長女5歳に浴衣を着せて,宵山に出掛けた.子供の友達つながりで,南観音山の町内の方が山にのせて(拝観させて)くれるという.子供たちは初体験のはずだ.

南観音山から出てくる長男@京都祇園祭宵山
南観音山から出てくる長男@京都祇園祭宵山

祇園祭の山鉾巡行というと,やはり先頭を行く長刀鉾が有名だろう.まずテレビに映るのも長刀鉾だ.一方,南観音山は32基ある山鉾の最終,殿をつとめる.また,宵山の最後に行われる「あばれ観音」でも知られている.南観音山のもう1つの特徴は,女人禁制ではないということだろう.女性でも拝観できる.

それにしても暑い.南観音山をおりて,すぐにかき氷を食べた.

7月 172011
 

既に夏の恒例行事となっているセブン-イレブン ポケモン スタンプラリー 2011.このスタンプラリーは,毎年,映画の公開にあわせて実施されている.今年のポケモンムービーは黒白2体のポケモンが主役で,それぞれ「ビクティニと黒き英雄ゼクロム」,「ビクティニと白き英雄レシラム」として別々の映画になっており,映画館でいずれかを選んで観るらしい.

ちなみに,現在テレビで放映しているポケモンは「ベストウィッシュ」というシリーズだが,このシリーズが新しくなるたびに,登場するポケモンが総入れ替えになる.実に商魂たくましい.継続して登場するポケモンは,ピカチューとニャースだけだろう.

さて,このポケモン・スタンプラリーだが,セブン-イレブンの店舗を巡って,ポケモンのスタンプを4個集めたらシールが,8個集めたらポスターがもらえる.長男8歳と長女5歳が行きたいというので,スタンプラリー開催初日の朝から早速参戦してきた.長男は自分の自転車で,長女は私が自転車に乗せて,一気にセブンイレブンを8店舗をまわる.

そうして手に入れたのが,このポスターだ.なんと,スタンプを8個集めたら,ポスターが2枚もついてきた.2人で合計4枚だ.

ゼクロムとレシラムのポスター@セブン-イレブン ポケモン スタンプラリー 2011
ゼクロムとレシラムのポスター@セブン-イレブン ポケモン スタンプラリー 2011

ちなみに,このポケモン・スタンプラリーでは,同じポケモンスタンプを押したらダメというルールがある.このため,効率的にスタンプを集めるためには,デタラメにセブンイレブンの店舗を訪れてはいけない.そこで,どの店舗にどのポケモンスタンプがあるのかを事前にウェブで確認し,いわゆる巡回セールスマン問題として定式化し,暗算で最適解を求める.我が家の最適解は,これだ.

巡回セールスマン問題@セブン-イレブン ポケモン スタンプラリー 2011
巡回セールスマン問題@セブン-イレブン ポケモン スタンプラリー 2011

なお,制約条件として,同じポケモンスタンプを押してはいけないことの他にも,子供が絶対に押したいというスタンプがある店舗を外さないこと,京都は北に向かって標高が高くなること(自宅のある金閣寺界隈は高低差が結構ある)も考慮しなければならない.

救いは,セブンイレブン店舗がそこそこ密集して存在してくれていることだろう.それでも,8店舗をまわるのに一時間ほどかかった.京都のこの暑さの中を自転車で駆け回るので,帰宅したときには汗びっしょりだ.もちろん,ささやかながら,セブンイレブンの売上にも貢献させていただいた.

7月 172011
 

現代における知識人の文明史的地位を要約するならば,それは,現代の高度産業社会の展開によってもたらされた一種の不適応グループであり,現代社会における一種の後進地帯を形成するものという見かたもできないわけではありません.その言論は,しばしば,いわゆる進歩的ないしは急進的な形を取りますが,そのはたす機能は,じつは,文明の進歩に対しては,しばしばブレーキとして作用することがおおい.意外に,保守的あるいは場合によれば反動的役わりをはたすグループであろうとおもいます.

「文明の生態史観」(梅棹忠夫,中央公論社)において,梅棹忠夫はこのように述べている.現代知識人が不適応グループであるのはなぜだろうか.この見方も,知識人の言説についての経験から導かれている.梅棹忠夫が発表した「文明の生態史観」は大きな反響をよんだが,文明史の一つの見方を提示したと考える氏の予想に反して,そこから,だから日本はこうあるべきであるというような主張を導き出そうとする知識人が非常に多かった.

わたしは,日本の知識人の「べき」ごのみに,たじたじとなったのであります.それほどまでに,実践的姿勢がつよいとは,じつはあまりおもっていなかったのであります.わたしはもともと,理論というものは,そのような実践的立場からいちおう自己をときはなつことによって,はじめて成立しうるものであると信じてきたのでありますが,じつは,よく気をつけてみていますと,日本のいわゆる論壇における議論というものは,ほとんどが,実践的立場の表明であり,当為の主張であるということを発見したのであります.一般には,わたしが信じてきたのと反対に,「論」あるいは「理論」というのは,じつは「べき」の指針をあたえることであったのかと,あらためて感心したのであります.

この「べき」好みは一体どういうわけなのか.梅棹忠夫は次のように分析してみせる.

わたしは,日本の知識人の主流は,やはりできることなら政治家になるはずの人たちであったのではないか,とかんがえています.はじめから,つよい政治的志向性をもって人間形成をおこなったのであるが,たまたま条件がゆるさなかったので,じっさいの政治家にはならなかった.いわば,なれなかった政治家なんです.あるいは,挫折した政治家なんです.だから,状況さえゆるせば,いつでも政治家に横すべりできるような人間,あるいは横すべりしたいとのぞんでいる人間が,官僚群のなかだけではなく,言論界にも,教育界においてさえ,たくさん存在するのであります.

確かにその通りであるように思われる.とにかく政治談義をしていたい人達は多そうだ.

しかしながら,じっさいには,大多数の知識人には,政治家への横すべりの条件はととのわないし,政権担当の機会はおとずれてこないものです.かれらは,しょせん政治家にはなれない人たちなのです.しかし,それにもかかわらず,その意識は一種の為政者意識というべきものになっている.(中略)ところが,いつまでたっても政権はまわってこないのですから,かれらはそこでフラストレーションをおこす.じつは,現代インテリの政治談義というものは,-こういう表現はいささか暴論めいて恐縮でありますが-一種の欲求不満の表明であるといえないこともない,とおもうのであります.

まあ,それでも,しょせん政治家にはなれないことがわかっているからこそ,お気楽に適当臭いことを言っていられるのだろう.政治談義は欲求不満の捌け口として悪くないのかもしれない.むしろ,政治家になってしまった場合が恐ろしい.

ところで,どうして日本では,欲求不満だらけの,政治家にはなれない知識人が量産されることになったのか.梅棹忠夫の考察はその原因へと向かう.

江戸時代における政学一致については,さきにいったとおりですが,そのときには,人口的にもほぼ固定された為政者階級に,高等教育をほどこしているのですから,その場合は分裂がおこりようがない.ところが,明治以降は階級のわくをはずして教育が進行しはじめるから,必要な為政者の人口わくを超過して,知識人が量産されてくる.必然的に,じっさいの為政者と,意識だけの為政者とに分離してくる.後者が,フラストレーテッド知識人として,もっぱら政治論議を展開する役をする,というわけです.

なるほど.原因の1つは教育の普及にあるというわけだ.

もうひとつの原因は,日本の産業化の進行にともない.治国平天下的な学問ではとうてい政治が運営できなくなってきます.そこで,伝統的な政と学とのからみあいよりも,むしろ,産業あるいは実業と政治とのからみあいのほうが,はるかに重要になってくる.さらにのちには,技術と政治とのからみあいも,ひじょうに重要となってくる.実業あるいは技術は,伝統的な型の知識人の,いわば盲点になっている.そこで,文化的インテリにかわって,実業インテリ,技術インテリともいうべきグループが頭をもたげてきて,それが政治とむすびついて,現代の社会を運転しはじめる.そうなると,文化人的インテリはますます疎外されて,ますますフラストレーションの度をくわえてくる,ということになります.

こういう視点で政治談義をしている巷間の知識人を眺めると,彼らの言説や行動を理解しやすいのかもしれない.