9月 292011
 

ぼくらの頭脳の鍛え方
立花隆,佐藤優,文藝春秋,2009

こういう本を読むと,自分がいかにモノを知らないかがわかって,冷や汗をかく.自分の無知を自覚することができるだけでも,読む価値があるというものだろう.

本書「ぼくらの頭脳の鍛え方」は,立花隆氏と佐藤優氏の対談をまとめたものであり,副題「必読の教養書400冊」の通り,この二人が自分の書棚から100冊ずつ,書店の文庫・新書の棚から100冊ずつを選び,合計400冊のリストを示している.

こういう本を読むとき,当然ながら,教養を身に付けたいと思っているものだ.ところで,教養とは何か.立花氏は次のように定義している.

「人間活動全般を含むこの世界の全体像についての幅の広い知識」

「その人の精神的自己形成に役立つすべてのもの」

「現代社会を支えている諸理念の総体」

「知っていないと恥ずかしい知識の総体」

「各界で教養人と見なされている人々と恥ずかしくない会話を持続的にかわせるだけの知的能力」

最後の「各界で教養人と見なされている人々と恥ずかしくない会話を持続的にかわせるだけの知的能力」などという定義は,あまり格好は良くないかもしれないが,卑近でわかりやすい.

大学では教養課程がなくなって久しい.専門知識だけ叩き込んでおけばいいという風潮がある.社会が教養を求めなくなった経緯については,竹内洋氏が「教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化」(中央公論新社)にまとめている.結論は以下の通りだ.

新中間大衆文化は,隣人と同じ振る舞いを目指し,すべて高貴なものを引きずりおろそうとするフリードリッヒ・ニーチェのいう「畜群」(衆愚)道徳に近いものではなかろうか.(中略)あるいは,ホセ・オルテガ・イ・ガセットがいった凡俗に居直る−「凡俗な人間が,自分が凡俗であるのを知りながら,敢然と凡俗であることの権利を主張し,それをあらゆる所で押し通そうとする」(『大衆の反逆』)−大衆平均人の文化といったほうが実態に即している.「サラリーマン」型人間像つまり大衆平均人間にむけて強力な鑢をかける文化である.こうした意味での「サラリーマン」文化の蔓延と覇権こそ教養主義の終わりをもたらした最大の社会構造と文化である.

本当に教養は必要ないのだろうか.私には,そうは思えない.教養について,立花隆氏が次のようにまとめている.

今,教養という言葉は死語になりつつある.また,万巻の書を読みつくせる人はいません.結局は,人生の残り時間を確認しながら,最大の成果を得られるように計画を作るしかない.そのとき,知識の系統樹が頭に入っていることが大切です.それとやはり紙媒体に書かれたものを読む,つまり読書が必要なのです.なぜなら,最初の話に戻りますが,人類はそうやって脳を発達させてきたからです.

現代においては,必ずしも紙媒体に書かれたものを読む必要があるとは思わないし,そうやって脳を発達させてきたから今後もそうすべきだという理屈が論理的に正しいとも思わないが,やはり,いわゆる教養というものを身に付けておきたいと思う.

この立花隆氏の意見は,「最大の成果をあげるために教養が必要」と主張しているように読める.確かに,それはそうだろうが,私としては,「成果とは何であるかを自分で考えるために教養が必要」とも思っている.人によって成果の中身は異なるからだ.しょうもない成果を出すことに満足してしまわないためにも,成果をよく定義したいものだ.

本書では,次のよう指摘もなされている.

立花:東大の大学院は東大の学部よりレベルが低いと言われています.

佐藤:これ,非常に危ないですよね.

立花:学部より大学院が上という常識が崩れている東大の研究科が沢山あります.

佐藤:ロシア語のことわざに「魚は頭から腐る」というのがありますが,東京大学大学院がそういう状況だと他は推して知るべしですよ.

立花:日本の教育はガタガタで,経済的な破綻の根っこには,知的な破綻があるんですよね.しかもそういうことに気づかない連中が国を仕切っている.

確かに,その通りだろう.

さて,本書の対談では,実に様々な話題が取り扱われている.そのうちのいくつかを紹介しておこう.

1つはニセ科学の話題.ポパーの反証主義に絡めて,反証不可能な議論は論外だと断じられている.反証できないものと言えば,細木数子の「このままだと地獄に堕ちるわよ」が有名だろう.こんなものを有り難がるというのは,知的訓練がなされていない証左と言える.

立花:ポパーの主張の要点は,反証不可能な議論は,科学においても,政治においても,経済においても,すべて間違いであるということです.そこから出発している.神様が出てくると反証不可能になってしまいます.

佐藤:公理系をどう考えるか,ゲーデルの「不完全性定理」とポパーとの整合性をどう考えるかという問題だと思うんです.議論を組み立てる上で,絶対に疑い得ない,反証不可能な何かー公理から出発しなければならないですよね.

立花:公理から出発しなければならない,と考えるのは一つの立場です.そう考えたとたん公理系が存在することが前提とされ,その人の考えは公理系の中に閉じ込められてしまうことになる.大切なのは,そういうことを前提とせず,公理系があるかどうかわからないけど,とりあえず,確実と思われる体験事実を積み上げていくことで世界認識を深めていこうと考えるオープンマインドネスなのではないかな.

ニセ科学については,佐藤優氏が以下のように強い懸念を表明している.

ニセ科学の破壊力は現在,かつてないほど大きくなっているからです.私はニセ科学の問題を理解するときに非常に参考になるのは,ユルゲン・ハーバーマスの「晩期資本主義における正統化の諸問題」だと思います.(中略)何でこんなに科学技術が進んで識字率が高くなっているのにみんなつまんないことを信じちゃうの? それを一言で言うと,順応の気構えというものがあるからだと.現代人は,ある情報について,一つ一つ検証していけば,全部検証する基礎的な学力,別の言い方をすれば,論理連関を追う能力はある.しかし,検証すべき情報が厖大であると,一つ一つ自分で検証していたら疲れてしまうでしょう.そうなると,とりあえず識者が言っていることは事実として受け止める.自分自身はひっかかって理解できなくても,誰かが説明してくれるだろう,という気構えができるんです.この順応の気構えによって受動的になってしまう.だから,テレビを観ると順応の気構えがついてくる.ワイドショーの有識者のコメンテーターが説明してくれることはとりあえず確かだろうと受け入れる.これが怖いんです.そして,順応の気構えとテクネー(技術)が結びつくと,もっとひどい世の中になる.

他には,世知辛い世の中を生きていくための知識.

立花:大学の教養課程でも,「暗黒社会論」,「悪の現象学」的なコースを設けるべき.悪徳政治家,悪徳企業のウソを見破る技法,メディアに騙されない技法を教えることが現代の教養には欠かせません.

佐藤:あと,私は「嘘をつくな」という教育も必要だと思うんです.優等生は嘘をつくんですよ.(中略)外務省で部下が嘘をつくと外交戦争が起こることがあるからなんです.

仮に「暗黒社会論」や「悪の現象学」みたいな科目を教えるとしたら,大学が相応しいのだろうか.これらの知識が本当に必要だとしたら,中学高校くらいで教えとかないといけないような気もする.大学に行かない人も多く,大学までに思考方法はかなり固まってしまうからだ.

このように必要な教養は多種多様であるが,日本人に最も欠落している教養は何か.それは地政学だと立花隆氏と佐藤優氏は言う.

立花:日本人に欠けている最大の教養アイテムはゲオポリティクスだと思います.

佐藤:その通りですね.

立花:ゲオポリティクスがないから歴史もよくわからない.

さらには,こんな話題も.

佐藤:イスラエル軍は,不登校の高校生で,ゲームオタクの少年たちを集めて,軍が運営する学校のような施設を造ったんです.何をさせるかと言ったら,TVゲーム機のプレイステーションでひたすらゲーム.無人飛行機を操縦させるんですよ.2006年のレバノン戦争で実際に投入されました.

立花:戦争はゲーム化せざるをえない側面がありますね.(中略)戦争に参加する人たちが,リアルに人を殺すという感覚を持たないような時代になっています.

佐藤:イスラエルの情報屋も心配していましたよ.ゲームオタクの少年たちは,現時点でイスラエルの国益に貢献しているけれども,彼らには命の感覚がわからない.イスラエル社会で今後何か大変なことが起こるんじゃないかって.

ともかく,私は,本書で紹介されている本のいくつかを読んでみようと思うし,実際に読み始めている.

目次

  • 読書が人類の脳を発達させた―狂気の思想、神は存在するか、禅の講話
  • ブックリスト1 知的欲望に満ちた社会人へ―書斎の本棚から二百冊
  • 二十世紀とは何だったのか―戦争論、アメリカの無知、スターリンの粛清
  • ニセものに騙されないために―小沢一郎、官僚は無能だ、ヒトゲノム
  • 真の教養は解毒剤になる―マルクス、貧困とロスジェネ、勝間和代
  • 知の全体像をつかむには―東大生・立花隆、神学生・佐藤優、実践読書術十四カ条
  • ブックリスト2 すぐ役に立つ、すぐ買える―文庫&新書二百冊
9月 262011
 

小川洋子の「言葉の標本」
小川洋子,福住一義,文藝春秋,2011

まだ発売前の本だが,献本していただいたものを既に読んだので記録しておく.

本書は「小川洋子がこれまでに書いた小説二十四冊の中から,エッセンスとなる言葉を,採集.標本にして展示した,紙上の「言葉の標本」博物館」と帯に書かれているように,1つの小説あるいは短編集といったものではない.恐らく,小川洋子ファンのための本という位置づけになると思う.

私はほとんど小説を読まないので,小川洋子の作品と言われてもピンと来ない.せいぜい「博士の愛した数式」くらいのものだ.そんな私に,どうして本書『小川洋子の「言葉の標本」』が献本されたかと言うと,本書巻末の「写真撮影」という欄に自分の名前が記載されているからだ.

ポーランドでアウシュヴィッツ強制収容所を見学したときに撮影した写真をブログに掲載していたところ,本書の企画段階で関係者の目にとまり,ブログに使用していないものも含めて写真を提供することになった.そのときに,本が完成したら1冊送ってもらうという約束をした.そういう経緯だ.

こんなことは一生に一度だろうから,贈呈してもらった本を記念に大切にしよう.

目次

  • 博物館長からのご挨拶
  • 1階 小川洋子の物語の場所とは
  • 2階 前期小説十二冊による小川洋子の「言葉の標本」
  • 3階 小説が生まれる現場で,どのようなことが起こっているか
  • 4階 後期小説十二冊による小川洋子の「言葉の標本」
  • 5階
  • 地下n階 言葉を標本にするとは,どういうことなのか
9月 192011
 

台風と大雨の影響で,予定していたキャンプに行くことができなかったため,その代わりに,日帰りで南丹市美山町自然文化村で川遊びとバーベキューをすることになった.京都市北区の自宅から北へ車で2時間弱.

子供も大人もライフジャケットを着用して,とりあえず,魚捕りに夢中になる.親子川の学校で訓練されているため,魚を捕まえるのは上手になっている.

南丹市美山町で川遊び
南丹市美山町で川遊び

大量に捕まえることができたのがイモリだ.2匹は飼育するため自宅へ持ち帰ることにした.

イモリとカジカ?@南丹市美山町
イモリとカジカ?@南丹市美山町

同じく本流で捕まえることができたのがシマドジョウだ.こちらは川底の土の中に隠れているので,探すのも捕まえるのも難しい.結局,私は捕まえることができなかった.

捕るのが難しいシマドジョウ@南丹市美山町
捕るのが難しいシマドジョウ@南丹市美山町

支流や本流の浅瀬にはヨシノボリがたくさんいた.どこの川にもいる,名前を知らない小さな魚も.

南丹市美山町で川遊び
南丹市美山町で川遊び

水は冷たいが,泳げるくらいの水温だった.ライフジャケットを着用していたため,プカーと浮かんで下流へと流されていくのを楽しんだ.結局,4時過ぎまで川遊びをして,自然文化村内でお風呂に入ってから,帰途へ.思い切り楽しんだ一日だった.

9月 152011
 

国立大学が独立法人化されてから,大学は産業界(または社会)に役立つような研究をすべきという雰囲気が強くなったように思う.この「役立つ」という言葉が一体何を意味しているのかが明確でないが,昨今の企業を見ていると,恐らく近視眼的な貢献(すぐに役立つこと)を主に意味しているのだろう.例えば,投資は少なくとも3年で回収できることといった具合に.それはどうかと思うものの,元々,「大学の研究者のくせに,あいつは何をやってるんだ?」という目で見られがちな産学連携(共同研究)を積極的に実施してきた私にとっては,研究をやりやすい雰囲気になったとも言える.

本日,計測自動制御学会のセレモニーがあり,日本学術振興会プロセスシステム工学第143委員会ワークショップNo.27「プロセス制御技術」の有志による「モデル不要PID調整法E-FRITの開発と実用化」の功績に対して,計測自動制御学会技術賞が贈呈された.改めて,受賞者を代表し,ワークショップのメンバーをはじめ,ご支援いただいた方々に感謝したい.

この受賞に関連して強調したい事実は,開発者(受賞者)が「企業4社5名と2大学3研究者」というところ,特に,企業が1社ではないという点だ.このような企業横断型産学連携あるいは産産学連携で,論文が書けるだけでなく,現場で実際に役に立つ顕著な成果を出せることを示せたことを大変嬉しく,また有難く思っている.

もちろん,研究開発の多くの分野では,複数企業が協調することは難しいだろう.自社を差別化できる製品や技術の開発が重要なのだから当然だ.しかし,そうではない分野はあり,積極的に技術交流を進め,技術を高める努力をすることは重要だと思う.現状に甘んじて学ぼうとしないような姿勢は論外であるし,実際,学ぶべきことはいくらでもあるはずだ.

ここで強調したいのは,学ぶ対象は同業他社に限定されないということだ.むしろ,異業種にこそ学びの種がある.ある産業で当然のことが,異なる産業では全く知られていないというのは,よくあることだ.ところが,他業種の技術にまでアンテナを張っている人は決して多くない.しかし,だからこそ,他業種に学ぼうとする姿勢は強みになる.ここ数年ほど,様々な講演で,実例を挙げながら,このことを強調している.

ここで重要だと考えるのが「場」だ.学ぶ場.共同作業する場.そういう場があるかないかは非常に大きな差となる.今回技術賞を受賞した「モデル不要PID調整法E-FRITの開発と実用化」にしても,場があったからこそ,この成果が生まれた.その場となった日本学術振興会プロセスシステム工学第143委員会は基本的に石油・化学産業を対象としており,同業の集まりという雰囲気がある.今考えているのは,全く異なる産業に属する企業の技術者が集まれる場を作ることだ.

最後に,今回,技術賞受賞という形で,技術開発に尽力していただいた方々に報いることができたことを本当に嬉しく思っている.もちろん,現場で成果を出すことを最優先して取り組んできたわけであり,実際に成果を出したわけだが,受賞は別の意味で社内評価を高めるだろうし,何より履歴書にも書ける.履歴書を書く機会はあまりないかもしれないけれども.

モデル不要PID調整法E-FRITは,さらに進化していきます.まだ利用したことがないというプロセス制御技術者の方々,要チェックですよ.

9月 112011
 

またもや,ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)へ行ってきた.

9~10月にかけては,USJがハロウィン(Halloween)モードになる.テーマパーク全体が,オレンジ,カボチャ,オバケ一色になっている.エルモも,キティも,スヌーピーも,何もかもが.

ハロウィンのオバケ@USJ
ハロウィンのオバケ@USJ

キティも魔女に@USJ
キティも魔女に@USJ

ポップコーンを入れる容器のエルモもオバケになっていて,今回は,このオバケ・エルモの容器を購入した.容器がちゃんとオバケの形になっていて,しかもエルモが帽子もかぶっている.

ポップコーン容器のエルモもオバケ@USJ
ポップコーン容器のエルモもオバケ@USJ

ところが,これがまた揉め事の種に.普通のエルモの容器(絵が描いてあるだけ)を持っている長女が,長男だけズルイとすねる.

長女: ○○君だけ,オバケのエルモ,ずるい!

長男: ○○ちゃんは,もうエルモの持ってるやんか!

長女: ○○ちゃんも,オバケのがいいの!

長男: でも,もうエルモの持ってるやんか!

長女: だって,前はオバケのなかったもん!

とまあ,こんな具合だ.どうでもいいようなことで,いつも,こんな具合だ.ドッと疲れる...

ともかく,今回のUSJでのメインイベントは,ハロウィーン・パレード「パレード・デ・カーニバル」を見ることだ.小学生以下の子供を優先するキッズエリアが設定されており,その付近がメインのダンスエリアにもなるため,場所取りをしておく.2時間以上も前から...いや,まじめな話,そこまでしないと最前列を確保するのは難しい.ハロウィーン・パレード「パレード・デ・カーニバル」の前に,10周年記念のショーがあるのだが,その時点から既に場所取りが行われているためだ.ちなみに,このパレードでも,最前列は座って,2列目以降は立っての観覧となる.

それにしても,パレードを見るために場所取りする人の数が凄かったのだが,これは,週末のハロウィーン・パレード「パレード・デ・カーニバル」には有名人が登場するからなのかもしれない.今後登場する有名人の例を少しだけ挙げておくと,アッキーナ,ベッキー,エビちゃん,押切もえなど.アントニオ猪木も来る.

ちなみに,本日の有名人はDAIGOだった.というわけで,生ウィッシュ!を見た.

DAIGOの生ウィッシュ!@USJ
DAIGOの生ウィッシュ!@USJ

9月中にもう1回,10月にも1回,USJに行く予定なので,上記有名人の誰かは見られるだろう.しかし,また場所取りが凄いことになるのだろう.それでも,今日みたいな強烈な日差しの中で2時間もじっとしている必要はなくなるだろうから,状況はましになる.隣で場所取りしていた高校生くらいの女の子とか,日傘もなく,完全に無口になってたもんな.

で,このハロウィーン・パレード「パレード・デ・カーニバル」では,最後にアクセサリーを配ってくれる.おもちゃのネックレスみたいなやつだ.ほぼ最高のポジションにいた,うちの子供たちは,すぐにアクセサリーを渡してもらってご機嫌だったのだが,当然,そんなものが全員に行き渡るはずもなく,パレード終了後にアクセサリーを配っていたUSJのクルーは暴徒集団に襲われたような状態になっていた.しかも,群がっているのは大人だし...気の毒だ.なお,決して最前列でないともらえないわけではない.後ろにもクルーが投げてくれる.

さて,9月は長女5歳の誕生月なので,USJ行きは義務となっていた.7月にUSJに行ったき,Birthdayシールを胸に貼っている長男7歳が,スタジオ内の至るところで,ウォーターワールドの俳優さんまでも含めて,「誕生日おめでとう!」と声をかけてもらうのを見て,長女5歳がすねていたためだ.

9月 062011
 

なぜ人はニセ科学を信じるのか Ⅱ 歪曲をたくらむ人々
マイクル・シャーマー(Michael Shermer),岡田靖史(訳),早川書房,2003

なぜ人はニセ科学を信じるのか Ⅰ 奇妙な論理が蔓延するとき」に続く後半.前半では,超常現象,エドガー・ケイシー,臨死体験,異星人(UFO)との遭遇,魔女狩りの現代版である記憶回復運動,そしてエイン・ランドの客観主義が取り上げられた.後半にあたる本書では,創造論とホロコースト否定論が取り上げられている.

創造論は,進化論と対極をなす主張で,要するに「宇宙(地球)は神がつくられた」というものだ.特に原理主義的な創造論者は,旧約聖書に記載されているとおり,宇宙(地球)は6日間でできたと主張する.比喩ではなく,正確に6日×24時間で宇宙(地球)ができたというのだ.まあ,そう信じたい人は信じるのもいいだろう.それは信仰の自由だ.リチャード・ドーキンスなら,「信仰の自由だと,ふざけるな!そんな妄想が罷り通ってたまるか!」と一喝するだろうが...

ともかく,創造論者が独りで妄想に取り憑かれているだけなら,別に問題はない.厄介なのは,創造論を学校で教えろ,進化論を教えるなと創造論者が息巻くことだ.もちろん,創造論者がいくら騒いだところで,良識のある市民が取り合わないというなら,社会的な問題にはなりえない.ところが,アメリカで実際に起こったことは,進化論に対する創造論の勝利なのだ.全く信じられないような話だが,何も中世の話をしているのではない.そもそもアメリカにそんな長い歴史はない.つい最近の出来事だ.

グラビナーとミラー:
「彼らは世論を見方につけたと信じてはいたが,1920年代後半の進化論者は,そもそもの議論の争点である,『高校で進化論を教える』という事柄については事実上,負けを喫した.スコープス裁判以後,高校の生物の教科書にある進化論の平均記載率が低下してしまったからである」

メンケン:
「このように停滞したわびしい土地で,常識も良識も欠く一人の狂信者に導かれてネアンデルタール人が組織化を進めているぞという,国中への注意の喚起なのである.テネシー州では,それを拒否する動きがあまりに消極的で遅きに失したために,いまや法廷は伝導集会所に姿を変え,権利宣言が警察官にまであざわらわれるしまつである」

当時の様子がこのように伝えられている.20世紀の話だ.しかも,進化論が息を吹き返すのは,なんと1960年代になってから,それも,ソ連が人類初の人工衛星スプートニク一号を打ち上げたショックが原因でというお粗末さだ.

事態は30年以上にわたってなんら変わることがなかったが,ついに1957年10月4日,ソビエト連邦による最初の人工衛星スプートニク一号の打ち上げにともない,国家機密とは異なり,大自然の秘密は隠すことができない-いかなる国家も自然の法則を独占することはかなわない-という事実をアメリカは思い知らされることになる.このスプートニク恐慌をきっかけに,アメリカでは科学教育再興の動きが起こり,進化論も学校教育の場へと復活を果たしたのである.1961年,全米科学財団は生物科学教育構想に関連して,進化論教育における基本要綱をまとめ,さらに生命誕生は進化論にもとづいているという内容の,生物学の双書を刊行した.

それで,21世紀の今,進化論対創造論の戦いに決着はついたのか.面白いことに決着はまだついていないらしい.それどころか,1990年代になって,「宇宙自然界に起こっていることは機械的・非人称的な自然的要因だけではすべての説明はできず,そこには『デザイン』すなわち構想,意図,意志,目的といったものが働いていることを科学として認めよう」というインテリジェント・デザイン説が提唱され,進化論に対抗しようとしている.

ちなみに,カトリック教会ですらインテリジェント・デザイン説を支持してはおらず,むしろ,進化論を認めている.このため,創造論者やインテリジェント・デザイン論者はバチカンを批判したりもする.それって罰当たりじゃねぇの!?

おや,そこのあなた,今,「これだからアメリカは・・・」と鼻で笑いませんでしたか?

日本にもあるんですよ.「創造デザイン学会」という学会が.「ダーウィニズムこそは、現在の青少年問題を始めとする、この世界を覆う精神的狂いの元凶だと言ってよい」と断言している学会が!

さて,本書「なぜ人はニセ科学を信じるのか」の話に戻ろう.本書でかなりの頁数を割いて解説しているのが,ホロコーストはあったかなかったかという議論だ.著者は,ホロコースト否定論者の論法のまちがいは,創造論者のようなほかの過激派グループのまちがいに不気味なほどよく似ていると指摘している.次のような共通点があるらしい.

  1. みずからの見解に関する最終的結論をほとんど述べずに,相手の弱点を集中攻撃する.
  2. 対抗する主張の主たる学者たちが犯した失策を利用し,相手の結論が少しばかりまちがっていたからという理由で,その結論は「まったく」のまちがいだとほのめかす.
  3. 自分たちの意見に説得力を与えるために,有名な主流派の言葉を断片的に引用する.
  4. ある分野における特定の問題点に関する学者たちの純粋無垢の議論を,その分野全体の是非にかかわる論争だと誤解している.
  5. 一般に知られていないものには注目するが,知られていることは無視し,また都合のいいことは強調するが,都合の悪いことは軽視する.

私は,神や霊がいてもいいと思っているし,私の気に障らない限りは信仰の自由も認めてもいいと思っている.(ちなみに,無分別な信仰の自由なんて権利はありえないと思っている.そんな権利を認めたら,殺人でも何でも認めなくてはならなくなる.)それでも,科学的な態度は大切にしたい.

目次

進化論と創造論

  • はじまり
  • 創造論者との対決
  • 科学は弁護し、定義した

歴史と偽史

  • ドナヒューの行動
  • 誰がホロコーストはなかったと言ったのか、なぜそう言ったのか?
  • どうすればホロコーストがあったことがわかるのか
  • ピジョンホールと連続体

希望は決して潰えない

  • ティプラー博士、パングロス博士に会う
  • なぜ人々は奇妙な物事を信じるのか?
9月 052011
 

なぜ人はニセ科学を信じるのか Ⅰ 奇妙な論理が蔓延するとき
マイクル・シャーマー(Michael Shermer),岡田靖史(訳),早川書房,2003

懐疑主義者として大学で教鞭を執り,テレビ番組にも多数出演する著者が,なぜ人はニセ科学や迷信やトンデモ話を信じてしまうのかを,具体例を挙げながら解説するのが本書「なぜ人はニセ科学を信じるのか」.取り上げられている事例はニセ科学に限らず,超常現象,臨死体験,異星人との遭遇,魔女狩りの現代版である記憶回復運動,客観主義,創造科学,ホロコースト否定論など多岐にわたる.

なぜ人はニセ科学や迷信やトンデモ話を信じてしまうのか.本書で紹介されている身近な例をみてみよう.

同じ部屋にいる30人の中に,誕生日が同じ者がふたりいれば,何か神秘的な力がはたらいていると考えてしまう.(中略)同室に会した30人のうち,ふたりの誕生日が重なる確率は71パーセントである.

友だちのボブに電話しようとしたやさき,当のボブから電話がかかってくる.そのとき「うわー,なんて偶然だい? こんな偶然は滅多にない.ボブとぼくはもしかしたらテレパシーみたいなものでつながっているのかもしれない」と考えてしまう.(中略)ボブに電話をかけようとして向こうからかかってこなかった,あるいはそのときほかの人間からかかってきた,または考えてもいないときにかかってきた,そのそれぞれの回数に関しては全く考慮されていない.

いずれも,ありそうな話だ.では,これらの例が明らかにしている問題は何だろうか.それは,確率や統計への無理解である.何も難しいことを言っているわけではない.普通のサイコロを振ると,1の目が出る確率は1/6だというだけのことだ.これがわからないような人は,このブログを読んではいないだろう.ところが,ちょっとした応用問題になると,途端に正しい筋道で考えることができなくなる.というか,そもそも考えようともしなくなる.そればかりか,考えていないことを棚に上げて,あてにならない直感だけに頼ろうとする.そういうことが日常茶飯事なわけだ.

嘘には3種類ある.「嘘,どうしようもない嘘,統計」である.これは統計ビジネスの分野では,ディズレーリの分類(またの名をマーク・トウェインの解釈)として知られる古い寸言である.もちろん,現実の問題は統計の濫用にあるわけだが,これをもっと平たくいえば,ほとんどの人々が統計と確率を誤解したまま,現実の世界にあてはめているということになる.

職業柄,私もあちこちで講演させていただく機会があるのだが,データ解析屋として,確率や統計の誤用がいかに日常的に行われているかをクイズ形式で示すことにしている.簡単なクイズなのだが,多くの人が間違え,数問目には訳がわからなくなる.自分の判断に全く自信がなくなってしまうのだ.

この現実に気付いてもらうことが重要だと考えている.我々は一社会人として,日常的に様々な意志決定(何らかの選択)をしている.その際,ある出来事が起こる確率と,その出来事が起こったときの影響の大きさを考慮して,適切な判断をしているわけだ.プロフェッショナルによる危機管理もこうして行われる.理想的には.

しかし,クイズで明らかになるのは,我々が頭に思い浮かべる,ある出来事が起こる確率というのが,全く信用ならないということだ.つまり,意志決定の根拠が間違っていることが多いということだ.事態を打開するには,まず,このことに気付く必要がある.

原子力発電所は絶対に安全だという思い込みが,どのような意志決定に繋がり,どのような事態を引き起こすかも,全く関係のない話ではない.

さて,本書の内容に戻ろう.まず,懐疑主義の立場を確認しておく.

懐疑主義には,過去に起こったことで,すでに荒唐無稽だとされているものを好んで暴きたてようとする,実に人間くさい傾向がある.他人の考えちがいを確認するのはたしかに愉快だが,それだけの理由ではない.われわれは,懐疑的で批判的な思想家と同じように,感情に流されないようにしなければならないのだ.これまでに人々がどれだけの過ちをおかしてきたか,科学がどれだけ社会の圧力や文化的影響を受けやすいかを理解することこそが,世界のしくみを理解する大きな助けになるのだから.科学とニセ科学双方の歩みを学ぶ重要性はそこにある.高い視点からこのふたつの流れがどう展開しているのかを見つめなおし,そしていかにして方向をまちがえたかを見抜くことができれば,きっと同じ過ちはおかさずにすむはずだ.17世紀オランダの哲学者バルーク・スピノザがまさにぴったりの言葉を残している.「わたしが惜しみない努力を注いできたのは,なにも人間の行為を馬鹿にしたり,嘆いたり,軽蔑したりするためではなく,そういった行為を理解するためである」と.

このような立場から,著者は,様々な怪しげな話がどのように非科学的であるかを論じていく.このため,科学とは何か,科学的であるとはどういうことかを明確にしておく必要がある.本書でも,各論に入る前に,科学と懐疑主義についての説明がなされている.

物事のしくみに対する好奇心こそ,科学のすべてなのだ.ファイマンもこう分析している.「言ってみれば”はまった”というやつだろう-子供のころにとてもすばらしいものをもらった人が,それからずっとそれを探しつづけるようなものだ.わたしもずっと探しつづけているんだ,まるで子供みたいにね.その驚異をいつか見つけられるとわかっているから-いつでもというわけにはいかないけれど,何度かに一度は見つかるはずだよ」.となれば,教育において「子供たちが世界を探求し,楽しみ,理解するのに役立つものは何か?」ということが最重要課題になる.学校ではさまざまなことが教えられているが,中でも科学と,どんな主張にも疑いをいだく心の育成には,何よりも重点が置かれるべきである.

科学を人間のほかのあらゆる活動から区別しているのは,すべての結果を一時的なものと考える約束ごとである.科学に究極の答えはなく,あるのはめまぐるしく変化する蓋然性だけなのだ.科学的「事実」と呼ばれるものさえ,一時的に妥当だと思われる範囲で認められている結果にすぎず,その承認も不動のものではない.科学の意義は,ひとくくりになった意見を肯定するのではなく,いつでも反証を受けいれる間口の広さをもち,検証可能な知識の集合体の構築を目的とした確認作業にこそある.科学においては,知識は流動的で確実だと思ってもすぐに過ぎさってしまう.その限界の中心部に科学の意味がある.そして何よりも偉大な強さも.

科学の理論は絶対ではない.あくまでも検証され続ける仮説である.このため,科学者はもちろん,科学を心得ている者であれば,「絶対正しい」などとは安易に口にしないし,「絶対正しい」などという言説を信用したりもしない.まず疑ってかかるという態度を身に付けている.

しかし,そうは言うものの,科学者にとっても,社会に広く受け入れられているパラダイムを捨てるのは容易ではない.容易ではないが,それでも,いかに広く受け入れられている理論であっても,検証がなされ,反証されれば新しい理論に置き換えられていくのが科学の営みである.たとえ,どれほどの時間がかかろうとも.

もちろん,多くの理論が間違っていたからといって,科学が役に立たないということにはならない.そうやって一歩一歩,世界を理解していくのだから.

科学だけではなく,日々の暮らしの中でも,われわれは根本的なパラダイムの変化をなかなか受け入れようとしない.社会科学者ジェイ・スチュアート・スネルスンはこれを<思想の免疫システム>と呼んだ.「教養があり理性的で,いまの生活に満足している成人なら,基本的な前提を変えるようなことは滅多にしない」.スネルスンによれば,個々の知識が蓄積されればされるほど,そして自説がゆるぎないものになればなるほど,人は自分の思想に強い確信をいだくのだという.しかしこの結論では,われわれは前からある考えを補強しない,新しい考えに対する「免疫」をつくっていることになる.科学史家はこれを,物理学者マックス・プランクにちなんで<プランクの問題>と呼んでいる.彼の観察によれば,科学における革新に対しては必ずふりかかる問題だという.「重大な科学の革新が,少しずつその反対者を説得し転向させ,主流となるなどということは滅多にない.サウロが突然パウロに変わることがないのと同じように,ほとんどの場合,反対者側が少しずつ死んで数を減らし,生まれたときから新しい考えに慣れ親しんだ世代が育ってはじめて交代が起きるのである」.

本書の第Ⅰ巻では,超常現象,エドガー・ケイシー,臨死体験,異星人(UFO)との遭遇,魔女狩りの現代版である記憶回復運動,そしてエイン・ランドの客観主義が取り上げられている.

ここでは,記憶回復運動についてのみ紹介しておこう.かなり恐ろしい話だ.

「記憶回復運動」として知られるようになった活動は,おぞましさという点で中世の魔女騒ぎに勝るとも劣らない.回復されるのは,犠牲者本人によって封じられた子供時代の性的虐待の記憶とされているが,思いだすのは何十年も経ったあとであり,しかも特殊な治療法,たとえば誘導的な質問,催眠術,催眠術による年齢の退行,透視術,アモバルビタール(自白剤)の注射,そして夢判断などを使用する.そしてこの現象の情報交換の加速率は,フィードバック・ループにあてはまる.セラピストたちが相手にするのは,記憶の回復に関する書物を読み,トーク番組のビデオを見聞きし,また記憶を取りもどしたほかの女性たちとともに,集団カウンセリングに参加したような客ばかりである.セラピーの最初の段階を抜くと,数週間から数カ月で,子供のころに受けた性的虐待の記憶が特殊な治療方法を駆使してでっちあげられる.そこであげられる名前は-父親,母親,祖父,叔父,兄,父親の友人らのものなのだ.そして法廷での対決となるわけだが,当然のように被疑者はそんな告発は否定するし,また彼らとの関係は完全に絶えてしまう.家庭の崩壊という結末が待っているのだ.

こんなもので有罪にされたらかなわないが,実際にアメリカでは相当数の人が刑務所にぶち込まれたらしい.もちろん,弁護人を雇えないような貧乏な人達ばかりだったそうだが...それはまたニセ科学とは別の話だ.

目次

科学と懐疑主義

  • 「われ在り,ゆえにわれ思う」
  • 人間にとって何よりも大切なもの
  • 思いちがいのメカニズム

ニセ科学と迷信

  • 逸脱
  • 霊の世界を通じて
  • 誘拐
  • 告発の流行
  • ありそうにないカルト
9月 032011
 

国際会議に参加するためにミラノまで来ているのだし,実際,ミラノ到着翌日の朝から帰国日までずっと会場で缶詰になるのだから,お土産なんて気にする必要はないわけだが,そうは言っても留守中に迷惑をかけるお詫びという意味合いもあるし,日頃の感謝の気持ちを込めてということもあるし,お土産を買わないわけにもいかない.

自宅向けというか,彼女向けには,ミラノ到着早々にFURLAで鞄と財布を購入した.自分用には,ボロボロになった財布とキーケースの替わりを探して,それぞれグッチとヴィトンで購入した.我ながら,なぜイタリアに来てヴィトンなんだ?という気もするが,プラダ本店なども見てまわった結果だ.ちなみに,ダミエやモノグラムなどいかにも的なデザインではなく,一見してヴィトンのだとはわからないようなキーケースだ.でも,上質で柔らかい皮を使っている.

さて,問題は,その他のお土産をどうするかだ.基本的に,お土産は食べ物にすることに決めている.というのも,後に残るものは邪魔になりかねないからだ.アメリカ人みたいに大きな家に住んでいれば,どこかに置いておくこともできるだろうが,狭い日本の家ではそうもいかない.かといって,お土産を捨ててしまうのも気が引ける.そうすると,消えてなくなる食べ物がいいということになる.あくまで,私はそう思うというだけのことだが.

それでも例外はあって,例えばチェコ共和国のプラハに行ったときは,お土産にボヘミアングラスを大量に購入した.決して安いものではないので,かなりの出費になるが,持って帰るのにも相当気を遣うが,それだけの価値はあるという判断だ.

食べ物というと,お菓子が定番,というか無難だろう.ただ,個人的にチョコレートは買わないことにしている.面白みがないからだ.甘ったるいだけのチョコレートは好きでないし,そもそも日本にいても大抵のチョコレートは買える.ただし,ここでも例外があって,ベルギーのブリュッセルに行ったときには,お土産に大量にチョコレートを買い込んだ.ベルギー王室御用達といっても,ゴディバなどは全く希少価値がない(でも日本より遙かに安い)が,他所では買えないMARYのチョコレートなど.

さて,今回のミラノのお土産をどうするか.ホテルに近いスーパーマーケットに行ってみたが,これというものがなく,ドゥオーモに近いデパート「ラ・リナシェンテ」にも行ってみたが,これというものがなく,結局,ガイドブックに掲載されていたPECKという高級食材店に行ってみることにした.

DUOMOの近くにある高級食材店PECK@ミラノ
DUOMOの近くにある高級食材店PECK@ミラノ

一階は主に生鮮食品,二階は主に菓子や茶葉,地階は主にワインを扱っている.

一階と二階を行ったり来たりして,散々悩んだ挙げ句,イタリアと言えばパスタだろうということで,パスタソースとパスタを購入した.躊躇した原因は,その重さだ.今回,ナントカ茸(名前を忘れた)の瓶詰めパスタソースとパスタを6セット,それに大瓶のトマトソースなどを購入したが,とんでもなく重い.スーツケースとは別に,お土産用鞄を持参しているとはいっても,あまりに重たい荷物は辛い.ちなみに,いずれもPECKブランドだ.

その他には,これもPECKブランドのクッキーとマカロンを購入した.これで,お土産ミッションクリアだ.

ところで,この高級食材店PECKでの買い物の仕方が面白い.まず,カゴやカートがない.商品を選んで注文すると,金額を書いた紙を渡してくれるので,それを持ってレジに行き,そこで精算する.再び売り場に戻ると,綺麗に包装した商品を渡してくれる.

高級食材店PECKの過剰包装?@ミラノ
高級食材店PECKの過剰包装?@ミラノ

高級食材店の味がどのようなものか興味があるので,パンと惣菜を買って,ホテルで食べてみることにした.購入したのは,モッツァレラのコロッケ?と,グリルしたトマトとナス.それに,パンを3つ.全部で10ユーロほどだった.それほど高くない.

モッツァレラのコロッケとグリルしたトマトとナス@ミラノの高級食材店PECK
モッツァレラのコロッケとグリルしたトマトとナス@ミラノの高級食材店PECK

高級食材店PECKのパン@ミラノ
高級食材店PECKのパン@ミラノ

コロッケが想像以上におもたい感じだったが,野菜は美味しかった.リストランテやオステリアで美味しい料理というのも素晴らしいが,たまには惣菜を買って食べるのも良いなと思った.安いし,色々と試せる.

9月 032011
 

今回,ミラノでの7泊に利用したのは,中央駅に近いHotel Berna Milanoというホテルだ.ミラノ・マルペンサ国際空港から中央駅へは頻繁に運行されているバスが利用できる.また,IFAC World Congressの会場であるUniversita Cattolica del Sacro Cuore(UCSC)へは地下鉄(緑)で乗り換えなしで行ける.

中央駅に近いHotel Berna Milano@ミラノ
中央駅に近いHotel Berna Milano@ミラノ

4泊以上かつキャンセル不可という条件で予約できるSUPERSAVERというプランを申し込んだところ,Superior Twinという広めの部屋で,税込み668.50EURだった.1泊100ユーロ未満で,朝食込み,ミニバー内のソフトドリンクは飲み放題,もちろん無線LAN無料という内容なので,良かった.

Hotel Berna Milanoの客室@ミラノ
Hotel Berna Milanoの客室@ミラノ

朝食は,パン,チーズ,ハムなどは基本的に毎日同じだが,野菜などが日替わりになっていた.クロワッサンが,ノーマル,チョコレート,クリーム,ジャムと4種類もあり,オレンジとグレープフルーツのジュース,コーヒー,紅茶の他,ホットチョコレートやカプチーノもあった.他には,各種フルーツとヨーグルトなど.残念だったのは,チーズの種類が少なかったことだ.

Hotel Berna Milanoの朝食@ミラノ
Hotel Berna Milanoの朝食@ミラノ

Hotel Berna Milanoの朝食@ミラノ
Hotel Berna Milanoの朝食@ミラノ

他のホテルのことはわからないが,ミラノで宿泊するなら悪くはない選択だろう.

9月 012011
 

ミラノと言えば,レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が有名だ.もちろん,ゴシック様式のドゥオーモ(Duomo)も必見だが,「最後の晩餐」ほどではない.

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」@ミラノ
レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」@ミラノ

現在参加中のIFAC World Congressの会場であるUniversità Cattolica del Sacro Cuore(UCSC)は,世界遺産に登録されている「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」から徒歩5分ほどのところにある.

「最後の晩餐」の見学には予約が必要だが,今回は,学会参加者専用の枠が設けられており,それに申し込んでおいた.一般の見学時間は朝から夕方までだが,学会参加者はセッション終了後の19:30以降に見学できる.時間制限は一般と同じで,1回25人までで15分の見学だ.

19:30に予約していたので,およそ15分前にドメニコ会修道院への入口に集合する.

「最後の晩餐」があるドメニコ会修道院への入口@ミラノ
「最後の晩餐」があるドメニコ会修道院への入口@ミラノ

何重にもなったドアを抜け,「最後の晩餐」があるドメニコ会修道院の食堂へと向かう.カメラでの撮影は禁止されている.

実物を見ると感慨深い.同じレオナルド・ダ・ヴィンチの代表作と言っても,モナリザの良さがわからない私には,背後のストーリーが明確な「最後の晩餐」の方に興味をひかれる.

「最後の晩餐」の謎は,ダ・ヴィンチ・コードで一躍脚光を浴びたが,確かに,イエスの右隣(向かって左側)にいる人物は女性にも見える.少なくとも,他の親父臭い使徒とは風貌が異なる.その人物をマグダラのマリアだとする説には魅力がある.

それにしても,よく第二次世界大戦の戦禍をくぐりぬけたものだ.

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会@ミラノ
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会@ミラノ

ギフトショップでマグネットを購入し,夕食へ.