9月 052011
 

なぜ人はニセ科学を信じるのか Ⅰ 奇妙な論理が蔓延するとき
マイクル・シャーマー(Michael Shermer),岡田靖史(訳),早川書房,2003

懐疑主義者として大学で教鞭を執り,テレビ番組にも多数出演する著者が,なぜ人はニセ科学や迷信やトンデモ話を信じてしまうのかを,具体例を挙げながら解説するのが本書「なぜ人はニセ科学を信じるのか」.取り上げられている事例はニセ科学に限らず,超常現象,臨死体験,異星人との遭遇,魔女狩りの現代版である記憶回復運動,客観主義,創造科学,ホロコースト否定論など多岐にわたる.

なぜ人はニセ科学や迷信やトンデモ話を信じてしまうのか.本書で紹介されている身近な例をみてみよう.

同じ部屋にいる30人の中に,誕生日が同じ者がふたりいれば,何か神秘的な力がはたらいていると考えてしまう.(中略)同室に会した30人のうち,ふたりの誕生日が重なる確率は71パーセントである.

友だちのボブに電話しようとしたやさき,当のボブから電話がかかってくる.そのとき「うわー,なんて偶然だい? こんな偶然は滅多にない.ボブとぼくはもしかしたらテレパシーみたいなものでつながっているのかもしれない」と考えてしまう.(中略)ボブに電話をかけようとして向こうからかかってこなかった,あるいはそのときほかの人間からかかってきた,または考えてもいないときにかかってきた,そのそれぞれの回数に関しては全く考慮されていない.

いずれも,ありそうな話だ.では,これらの例が明らかにしている問題は何だろうか.それは,確率や統計への無理解である.何も難しいことを言っているわけではない.普通のサイコロを振ると,1の目が出る確率は1/6だというだけのことだ.これがわからないような人は,このブログを読んではいないだろう.ところが,ちょっとした応用問題になると,途端に正しい筋道で考えることができなくなる.というか,そもそも考えようともしなくなる.そればかりか,考えていないことを棚に上げて,あてにならない直感だけに頼ろうとする.そういうことが日常茶飯事なわけだ.

嘘には3種類ある.「嘘,どうしようもない嘘,統計」である.これは統計ビジネスの分野では,ディズレーリの分類(またの名をマーク・トウェインの解釈)として知られる古い寸言である.もちろん,現実の問題は統計の濫用にあるわけだが,これをもっと平たくいえば,ほとんどの人々が統計と確率を誤解したまま,現実の世界にあてはめているということになる.

職業柄,私もあちこちで講演させていただく機会があるのだが,データ解析屋として,確率や統計の誤用がいかに日常的に行われているかをクイズ形式で示すことにしている.簡単なクイズなのだが,多くの人が間違え,数問目には訳がわからなくなる.自分の判断に全く自信がなくなってしまうのだ.

この現実に気付いてもらうことが重要だと考えている.我々は一社会人として,日常的に様々な意志決定(何らかの選択)をしている.その際,ある出来事が起こる確率と,その出来事が起こったときの影響の大きさを考慮して,適切な判断をしているわけだ.プロフェッショナルによる危機管理もこうして行われる.理想的には.

しかし,クイズで明らかになるのは,我々が頭に思い浮かべる,ある出来事が起こる確率というのが,全く信用ならないということだ.つまり,意志決定の根拠が間違っていることが多いということだ.事態を打開するには,まず,このことに気付く必要がある.

原子力発電所は絶対に安全だという思い込みが,どのような意志決定に繋がり,どのような事態を引き起こすかも,全く関係のない話ではない.

さて,本書の内容に戻ろう.まず,懐疑主義の立場を確認しておく.

懐疑主義には,過去に起こったことで,すでに荒唐無稽だとされているものを好んで暴きたてようとする,実に人間くさい傾向がある.他人の考えちがいを確認するのはたしかに愉快だが,それだけの理由ではない.われわれは,懐疑的で批判的な思想家と同じように,感情に流されないようにしなければならないのだ.これまでに人々がどれだけの過ちをおかしてきたか,科学がどれだけ社会の圧力や文化的影響を受けやすいかを理解することこそが,世界のしくみを理解する大きな助けになるのだから.科学とニセ科学双方の歩みを学ぶ重要性はそこにある.高い視点からこのふたつの流れがどう展開しているのかを見つめなおし,そしていかにして方向をまちがえたかを見抜くことができれば,きっと同じ過ちはおかさずにすむはずだ.17世紀オランダの哲学者バルーク・スピノザがまさにぴったりの言葉を残している.「わたしが惜しみない努力を注いできたのは,なにも人間の行為を馬鹿にしたり,嘆いたり,軽蔑したりするためではなく,そういった行為を理解するためである」と.

このような立場から,著者は,様々な怪しげな話がどのように非科学的であるかを論じていく.このため,科学とは何か,科学的であるとはどういうことかを明確にしておく必要がある.本書でも,各論に入る前に,科学と懐疑主義についての説明がなされている.

物事のしくみに対する好奇心こそ,科学のすべてなのだ.ファイマンもこう分析している.「言ってみれば”はまった”というやつだろう-子供のころにとてもすばらしいものをもらった人が,それからずっとそれを探しつづけるようなものだ.わたしもずっと探しつづけているんだ,まるで子供みたいにね.その驚異をいつか見つけられるとわかっているから-いつでもというわけにはいかないけれど,何度かに一度は見つかるはずだよ」.となれば,教育において「子供たちが世界を探求し,楽しみ,理解するのに役立つものは何か?」ということが最重要課題になる.学校ではさまざまなことが教えられているが,中でも科学と,どんな主張にも疑いをいだく心の育成には,何よりも重点が置かれるべきである.

科学を人間のほかのあらゆる活動から区別しているのは,すべての結果を一時的なものと考える約束ごとである.科学に究極の答えはなく,あるのはめまぐるしく変化する蓋然性だけなのだ.科学的「事実」と呼ばれるものさえ,一時的に妥当だと思われる範囲で認められている結果にすぎず,その承認も不動のものではない.科学の意義は,ひとくくりになった意見を肯定するのではなく,いつでも反証を受けいれる間口の広さをもち,検証可能な知識の集合体の構築を目的とした確認作業にこそある.科学においては,知識は流動的で確実だと思ってもすぐに過ぎさってしまう.その限界の中心部に科学の意味がある.そして何よりも偉大な強さも.

科学の理論は絶対ではない.あくまでも検証され続ける仮説である.このため,科学者はもちろん,科学を心得ている者であれば,「絶対正しい」などとは安易に口にしないし,「絶対正しい」などという言説を信用したりもしない.まず疑ってかかるという態度を身に付けている.

しかし,そうは言うものの,科学者にとっても,社会に広く受け入れられているパラダイムを捨てるのは容易ではない.容易ではないが,それでも,いかに広く受け入れられている理論であっても,検証がなされ,反証されれば新しい理論に置き換えられていくのが科学の営みである.たとえ,どれほどの時間がかかろうとも.

もちろん,多くの理論が間違っていたからといって,科学が役に立たないということにはならない.そうやって一歩一歩,世界を理解していくのだから.

科学だけではなく,日々の暮らしの中でも,われわれは根本的なパラダイムの変化をなかなか受け入れようとしない.社会科学者ジェイ・スチュアート・スネルスンはこれを<思想の免疫システム>と呼んだ.「教養があり理性的で,いまの生活に満足している成人なら,基本的な前提を変えるようなことは滅多にしない」.スネルスンによれば,個々の知識が蓄積されればされるほど,そして自説がゆるぎないものになればなるほど,人は自分の思想に強い確信をいだくのだという.しかしこの結論では,われわれは前からある考えを補強しない,新しい考えに対する「免疫」をつくっていることになる.科学史家はこれを,物理学者マックス・プランクにちなんで<プランクの問題>と呼んでいる.彼の観察によれば,科学における革新に対しては必ずふりかかる問題だという.「重大な科学の革新が,少しずつその反対者を説得し転向させ,主流となるなどということは滅多にない.サウロが突然パウロに変わることがないのと同じように,ほとんどの場合,反対者側が少しずつ死んで数を減らし,生まれたときから新しい考えに慣れ親しんだ世代が育ってはじめて交代が起きるのである」.

本書の第Ⅰ巻では,超常現象,エドガー・ケイシー,臨死体験,異星人(UFO)との遭遇,魔女狩りの現代版である記憶回復運動,そしてエイン・ランドの客観主義が取り上げられている.

ここでは,記憶回復運動についてのみ紹介しておこう.かなり恐ろしい話だ.

「記憶回復運動」として知られるようになった活動は,おぞましさという点で中世の魔女騒ぎに勝るとも劣らない.回復されるのは,犠牲者本人によって封じられた子供時代の性的虐待の記憶とされているが,思いだすのは何十年も経ったあとであり,しかも特殊な治療法,たとえば誘導的な質問,催眠術,催眠術による年齢の退行,透視術,アモバルビタール(自白剤)の注射,そして夢判断などを使用する.そしてこの現象の情報交換の加速率は,フィードバック・ループにあてはまる.セラピストたちが相手にするのは,記憶の回復に関する書物を読み,トーク番組のビデオを見聞きし,また記憶を取りもどしたほかの女性たちとともに,集団カウンセリングに参加したような客ばかりである.セラピーの最初の段階を抜くと,数週間から数カ月で,子供のころに受けた性的虐待の記憶が特殊な治療方法を駆使してでっちあげられる.そこであげられる名前は-父親,母親,祖父,叔父,兄,父親の友人らのものなのだ.そして法廷での対決となるわけだが,当然のように被疑者はそんな告発は否定するし,また彼らとの関係は完全に絶えてしまう.家庭の崩壊という結末が待っているのだ.

こんなもので有罪にされたらかなわないが,実際にアメリカでは相当数の人が刑務所にぶち込まれたらしい.もちろん,弁護人を雇えないような貧乏な人達ばかりだったそうだが...それはまたニセ科学とは別の話だ.

目次

科学と懐疑主義

  • 「われ在り,ゆえにわれ思う」
  • 人間にとって何よりも大切なもの
  • 思いちがいのメカニズム

ニセ科学と迷信

  • 逸脱
  • 霊の世界を通じて
  • 誘拐
  • 告発の流行
  • ありそうにないカルト