12月 112011
 

反貧困―「すべり台社会」からの脱出
湯浅誠,岩波書店,2008

自分が住んでいる日本の社会が抱えている問題について,少しは自覚しておきたいと思い,社会問題関連の本を時々読んでいる.本書「反貧困」の著者である湯浅氏は,反貧困ネットワークやNPO法人自立生活サポートセンター「もやい」の事務局長を務めるなど,貧困問題に最前線で取り組んでいる方だ.

なぜ貧困が大きな問題であるのか.なぜ貧困問題に取り組まなければならないのか.それは多くの社会問題が,結局のところ,貧困に根差しているからだ.湯浅氏は,アメリカの児童虐待研究の蓄積を踏まえたリーロイ・H・ペルトン氏の言葉を引用している.

「20年以上にわたる調査や研究を経ても,児童虐待やネグレクトが強く貧困や低収入に結びついているという事実を超える,児童虐待やネグレクトに関する事実はひとつもない」

(中略)児童虐待を本気でなくそうとするならば,まっすぐに原因に向かわなければならない.それは「児童虐待やネグレクトを減らすためには,少なくとも貧困ラインの上まで家庭の収入を増やす」(ペルトン)ことだ.

幼児・児童虐待のニュースが流れるたびに,コメンテーターが「酷い親ですね」と見下げたように発言するのを聞かされるわけだが,そのような批判者に正義があるかは甚だ疑問である.

戦後の高度経済成長期を経た日本では,少なくともバブルが崩壊するまでは,貧困などというのは遠い異国での話だという認識が共有されていたように思う.しかし,いまやそれは昔話でしかない.最近のOECDの調査によると,先進国で相対的貧困率(等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯員数の平方根で割った値)が,全国民の等価可処分所得の中央値の半分に満たない国民の割合)が高いのはアメリカで,17%を超えている.一方,西欧諸国の相対的貧困率は概ね10%以下であり,スエーデンやデンマークなどの北欧諸国では5%前後と一段と低くなっている.翻って,日本はどうか.日本の相対的貧困率は2009年時点で16%と報告されている.西欧諸国よりも,むしろ貧困大国アメリカに近い.

昨今の日本社会を見ていれば,別に驚くような結果ではないものの,それでもやはりショックな結果ではある.しかし,このような現実があっても,日本政府および厚生労働省の公式見解は,日本に貧困はないというものなのだそうだ.もちろん,日本に絶対的貧困(1日の所得が1米ドル以下)が蔓延しているわけではない.だからといって,日本に貧困問題がないわけでもない.年金にしてもその他にしても,このような意図的な事実誤認によって政策が決定されていくところに,日本の政治的貧困があるように思われる.

この貧困問題の見えにくさが,貧困問題の難しさだと湯浅氏は指摘する.

貧困の実態を社会的に共有することは,しかし貧困問題にとって最も難しい.問題や実態がつかみにくいという「見えにくさ」こそが,貧困の最大の特徴だからだ.

姿が見えない,実態が見えない,そして問題が見えない.そのことが,自己責任論を許し,それゆえにより一層社会から貧困を見えにくくし,それがまた自己責任論を誘発する,という悪循環を生んでいる.貧困問題解決への第一歩は,貧困の姿・実態・問題を見えるようにし(可視化し),この悪循環を断ち切ることに他ならない.本書の執筆動機もまた,それ以外にはない.

本書「反貧困」が最も強く訴えていることは,自己責任論を貧困問題へ適用することの無謀さ・暴力性だ.誰も自ら好んで貧困状態になっているわけではない.貧困から抜け出そうと努力してもいる.それでも,自分の力だけではどうにもならないのが貧困なのである.そのような貧困の実態が見えないために,相変わらず自己責任論で片付ける風潮が蔓延してしまっている.

貧困状態を理解すると,それがいかに自己責任論と相容れないものであるかがわかるだろう.(中略)自己責任論とは「他の選択肢を等しく選べたはず」という前提で成り立つ議論である.他方,貧困とは「他の選択肢を等しくは選べない」,その意味で「基本的な潜在能力を欠如させた」状態,あるいは総合的に”溜め”を奪われた/失った状態である.

健全な社会とは,自己責任論の適用領域について,線引きできる社会のはずである.(中略)貧困問題に対して自己責任論が適用されてしまうのは,(中略)多くの人たちが自分の経験に照らして心当たりがないから,それはきっと自己責任なのだと即断してしまうのだろう.

湯浅氏は「溜め」の重要性を説く.溜めとは,ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン氏がいう「潜在能力」に他ならない.

センは「貧困はたんに所得の低さというよりも,基本的な潜在能力が奪われた状態と見られなければならない」と主張する.(中略)潜在能力とはセン独自の概念である.それは「十分に栄養をとる」「衣料や住居が満たされている」という生活状態に達するための個人的・社会的自由を指している.

この潜在能力に欠けた人は,選択の自由など与えられていないのであるから,およそ自己責任論が適用される余地はない.それにもかかわらず,小泉流自己責任論が大好きな日本人は何にでも自己責任論を適用したがる.そうして,自分で自分の首を絞めていく.

日本政府も厚生労働省も貧困問題の存在を認めたがらない.ようやく貧困問題に関連する数値が明らかにされると,それを貧困問題の解決に活用するのではなく,これだけ困っている人がいるのだからと,国民生活の最低水準を切り下げる根拠に活用する.日本は,まさに底抜け社会である.

貧困の規模・程度・実態を明らかにすることを拒み続けた末に出してきた資料が,貧困問題の公認のための材料になるどころか,最低生活費の切下げ,国民生活の「底下げ」のための材料に使われた.この事実は,2007年段階における,日本政府の貧困問題に対する姿勢を如実に物語るものとして,人々の記憶に刻まれていい.

そればかりでない.国家ぐるみで貧困ビジネスが横行している.

さまざまなサポートセンターを設置するお金,職員配置のお金ばかりが消費されていく.大川興業社長の大川豊氏は,雇用保険の流用金の問題に絡めて,細分化された数々の施策は,結局役人の天下り先確保のために過ぎないのではないかと語っているが,小林美希氏は,同じようなことが再チャレンジ政策でも起こっていることを暴露した.フリーターの就労支援対策として設置された若年向けハローワーク「ジョブカフェ」運営の再委託を受けたリクルートが,日給12万円という人件費(プロジェクトマネージャー.事務スタッフでも5万円)を計上していた一件だ.

“溜め”のない人たちををダシに,政府や企業が私服を肥やしているのだとしたら,国家ぐるみで貧困者を食い物にする「貧困ビジネス」に手を染めていると言われても仕方がない.

その上で,湯浅氏は行政の非効率さや無責任さと,草の根活動の苦境を吐露している.

もし,各自治体が,ほとんど利用されないサービスのために使っている費用を<もやい>の運営に充ててくれるならば,今の数倍の人たちが連帯保証人問題で躓くことなくアパート入居を果たせるはずだが,発足後6年半,行政からの資金は1円たりとも入っておらず,メンバーの大半が無償ボランティアで活動を支えている.

<たすけあいネット>の「たすけあい金」も,<もやい>の連帯保証人提供も,相互扶助の取組みは,真に社会的に必要とされているものほど,行政の補完的役割を担わされやすい.相互扶助(共助)の顕彰(「美しき助け合い」)は,しばしば公的責任(公助)の不在を正当化するために,”活用”されがちだ.しかし私たちの取組みは,決して公的責任の不在を正当化するものではない.私たちは常に問うている.「私たちでさえ可能なことを,なぜ行政がやらないのか」と.

貧困問題が厄介なのは,それが世代間で連鎖していくからだ.

大阪府堺市健康福祉局理事の道中隆氏の調査によれば,(中略)親が生活保護を受けていたら,自分も生活保護世帯になる,という貧困の世代間連鎖が確認された.道中氏は「経済的に困難な家庭に生まれる子どもは,豊かな家庭で成長した子どもと同等の機会や発達条件,将来の可能性から排除される危険の高い生育環境にあることが,この調査結果において数量的に実証された」と述べる.

再び,溜めや潜在能力の話になるが,それらの形成を社会として支えていかなくては,貧困問題は解決しそうにない.ごく一部の不届き者を槍玉に挙げて,生活保護制度そのものを否定しているようでは全く話にならない.しょうもない自己満足のために,社会的な問題を矮小化するべきではない.

どのような社会に住みたいのか.どのような社会にしたいのか.日本をどうするか決めるのは日本人だ.

人間を再生産できない社会に「持続可能性」はない.私たちは,誰に対しても人間らしい労働と生活を保障できる,「強い社会」を目指すべきである.

それでは,どうするべきなのか.

日本における貧困者よりもずっと貧しい人達が世界にはたくさんいる.彼らにも仕事が必要であるし,日本人並みの生活をするなんて百年早いんじゃ!と言う権利は日本人にあるはずもない.グローバル化こそが彼らの貧困問題を解決するものだと主張するのは,フリードマンだ.

ずばりいおう.適切に根気よく利用するなら,グローバリゼーションは無数の人々を貧困から救い出す巨大な潜在力を秘めている.インド,中国,アイルランドなどで,多くの人々が貧困から抜け出すのを見ていると,つい気持ちが昂ぶってしまう.それをわびるつもりはない.

「フラット化する世界〔普及版〕中」(トーマス・フリードマン,日本経済新聞出版社)

確かに一理ある.しかし,グローバル化によって,日本人の高給を正当化するのが難しくなっているのも確かだろう.西欧諸国で深刻化する移民問題と同じことだ.

この流れに巻き込まれないために,いや巻き込まれるのは不可避なので,その潮流の中で下流層へ滑り落ちてしまわないために,今の中高年が精を出しているのが,子や孫への教育投資ということになるだろう.しかし,それは社会的に望ましい解なのか?

目次

貧困問題の現場から

  • ある夫婦の暮らし
  • すべり台社会・日本
  • 貧困は自己責任なのか

「反貧困」の現場から

  • 「すべり台社会」に歯止めを
  • つながり始めた「反貧困」

強い社会をめざして—反貧困のネットワークを

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