12月 262012
 

今年も,クリスマス前に,長男8歳と長女6歳がサンタクロースさんに手紙を書いていた.もちろん,「プレゼントに○○を下さい」というのが主旨ではあるが,かなり長文の手紙で,近況報告やサンタさんへの質問などが便箋にギッシリと書いてある.さらに,封筒には,「疲れたときに食べてね」と,キャンディーも入れてある.サンタさんも喜んでくれることだろう.

欲しいものとして,長男は「ポケモンカードゲームのデッキ」,長女は「おでかけワンちゃん おしゃれセット」を書いていた.しかし,我が家に来てくれるサンタクロースさんは,必ずしも子供の希望通りのプレゼントをくれるわけではないようだ.

子供は子供目線で欲しいものを欲しいと言う.それは親目線ではどうかと首をかしげるようなものかもしれない.それでも,我が家では,誕生日のときには何でも欲しいものを買ってあげると言っている.しかし,サンタクロースさんはそうではない.私が思うに,サンタクロースさんは,子供の世界が少し広がるようにと願って,子供が今欲しいものではなく,もらえば喜ぶものを見事に選んでくれているのだろう.長男の場合,ポケモンカードは既に何百枚と持っているわけで,これ以上のカードをプレゼントするよりは,もっと他のものがよいということだ.

そんなサンタクロースさんが,今年のクリスマスに長男に贈ってくれたプレゼントは,「赤外線ヘリコプター ジャイロメタル ネオファルコン3」という,室内用のラジコンヘリコプターだった.

赤外線ヘリコプター ジャイロメタル ネオファルコン3
赤外線ヘリコプター ジャイロメタル ネオファルコン3

対象年齢は15歳以上となっているが,3chで扱いやすく,飛行も非常に安定しているので,小学校高学年であれば全く問題なく遊ぶことができる.今年の新製品で,実売価格は4000円程度らしい.

本日,ネオファルコン3を使い始めた長男は,私が帰宅する頃には,既にホバリングはできるようになっていた.就寝前には,床に置いた本(ヘリポートを想定)に着陸させることもできた.それが初成功で,凄く喜んでいた.

この赤外線ヘリコプターは結構丈夫なようで,壁に激突させても壊れることはない.当分は,親子そろって大いに楽しめそうだ.サンタクロースさん,ありがとうございました.

12月 242012
 

科学コミュニケーション-理科の< 考え方>をひらく
岸田一隆,平凡社,2011

もう5年も前のことになるが,関テレが「私たちは何を間違えたのか 検証・発掘!あるある大事典」という検証番組を放送した.要するに,テレビ局が視聴率を稼ぐためにデマを流していたというのだが,そこには徹底した科学的態度への軽視があったように思う.この事件が発覚したとき,視聴者の怒りの矛先はもちろんテレビ局に向かったわけだが,「発掘!あるある大事典」の放送翌日にスーパーの店頭から紹介された食材が消えるという社会現象を,苦々しく,あるいは冷めた目で見ていた人も多く,スーパーに走っていた人たちは悪くはないが,科学的態度が身に付いていなかったことも確かだろう.

東日本大震災に伴う原発事故が重大な問題となり,反・脱・何とか原発と各派が入り乱れて世論を大きく分断するような事態となったが,そこで目立ったのも非科学的な言動であったように思う.御用学者といったレッテルとともに,科学に批判的な意見があちこちで目立つようになった.これだけ科学技術の恩恵を受けている人達が,無分別に科学技術を批判するのは奇妙なことではあるが,それだけ,絶対安全と言われ続けた挙げ句に引き起こされた原発事故とその後の対応は,科学技術への強い不信感を抱かせるに十分な出来事であったのだろう.

科学技術が日常生活の中に溢れ,日常生活を支え,これからも支えていく以上,科学技術に無関心であるのはよくないだろう.本書「科学コミュニケーション」で岸田氏はこう強調している.

科学が嫌いな人がいてもいい,おもしろくなくてもいいのです.ただし,無関心だけはダメなのです.

一般市民が科学に対する感性を持つことは,戦いにおける戦術のひとつを理解するようなものです.戦術を理解しなかったからといって反則をとられることはないように,科学に対する関心を持たなくても誰かから罰せられるわけではありません.ですが,チームの構成員の多くが戦術理解と共通認識を欠けば,チームは戦えません.同様に,新しい時代を築くにあたり,科学への無関心は致命傷ともなりかねません.おそらく,科学への無関心は,他人や世界に対する無関心とも結びついています.

科学に無関心な人は,一市民として科学を上手に利用する社会を作り上げていくことに協力できない.だから,本当は誰もが科学に関心を持つ必要があるわけだが,問題は,日本では知的市民の科学への関心が低いことである.こう岸田氏は指摘している.

知的市民は高等教育を経験しています.しかし,日本の学校教育は学生の能力開発よりも試験の成績を重視する傾向が強く,そのため,学校教育では詰め込んで得た知識は,卒業後にみごとに抜け落ちてしまいます.経済協力開発機構(OECD)が二〇〇六年に五十七ヵ国・地域の十五歳を対象に実施した学習到達度の調査では,日本の高校一年生の科学的知識は,やや後退傾向にあるとはいえ,世界の中でも上位に位置しています.それに対し,先ほども簡単に触れたように,成人の科学的知識となると先進国中最低レベルに落ち込んでしまう始末です.

困ったことに,社会を動かしている知的市民の科学への関心は,日本ではあまり高くありません.科学の知識レベルも先に書いたように残念な状態です.社会の未来を決めている人たちがそうであってはいけません.このままでは,人類の適応のための大切な道具を生かしきれずに,未来を歩まなくてはならなくなります.(中略)

私たちが私たち自身の未来を選ぶためには,まず最初に,現状把握と未来予測をしなければいけません.私たち自身が実際の分析を行うのは無理でも,専門家が出した具体策や数字に対して,私たち自身が判断をくだすのです.そのためには,批判的で健全な科学的感性や確率論的感性が,知的市民に備わっていなければなりません.次に,判断して選んだ具体策を,私たちみんなが同意しなくてはいけません.そのためには,危機に陥る原因となったそれまでの価値観を変革し,新しく選んだ価値観を共有しなくてはなりません.解体に向かった人々の間の結合も,何らかの形で再結成しなくてはなりません.すなわち,こういった知的市民の選択と採用に寄与することこそ,共感・共有に基づいた科学コミュニケーションの仕事なのです.

答えるべき問題は2つある.1つは,どのようにすれば科学コミュニケーションが知的市民の選択と採用に寄与することができるのかということ,もう1つは,どのようにすれば批判的で健全な科学的感性や確率論的感性を備えた知的市民を養成できるのかということだ.

科学コミュニケーションの在り方について,本書は科学者側に意識の変換を強く求めている.これまでのような押し付けがましい態度ではいけない,それでは嫌われるだけだと.

本書で繰り返し見てきたように,人間は本質的に社会的であって,科学には向いていません.科学的に考えるという行為は,人間の本来の心理的傾向からすれば,むしろ不自然なことらしいのです.そして,自分自身で多少なりとも科学に触れたくても,蓄積された科学の伽藍は巨大で道のりは果てしなく,多くの人は不安感や絶望感に襲われてしまいます.ですから,スタート地点として,「科学はつまらない」「科学は不自然である」「科学は人を拒絶する」という認識からコミュニケーションを始めた方がよいのです.科学嫌いの人たちに話を聞くと,「一人でも多くの人に科学のおもしろさを実感してもらい,好きになってもらいたい」という態度で,科学者や教師が近づいてくること自体が嫌われているようなのです.

科学コミュニケーションで伝えるべき内容については,徹底して,伝えるべきは知識ではなく方法と世界観であると強調されている.

科学は「方法」なのです.研究対象や得られた知識を指すのではありません.対象や知識の上では科学と同じ姿をしていても,方法の要件を満たしていないものは,科学とは呼べません.そういったものは「擬似科学」と呼ばれます.

科学が方法であり,観察や観測や実験による検証が重要であることは,科学者にとっては当たり前のことです.しかし,一般の人にとってはどうでしょうか.理論を一般市民が自分で検証することは,現代の科学では事実上不可能です.それに,ニュートン以降,物理学の専門書は,呪文のように意味不明なものになってしまいました.その呪文を解読するためには,大学院修了にいたるまでの長い修行が必要です.実験をするにも秘密の技と儀式を会得しなければなりません.科学の方法は厳し過ぎて,一般の人は完全に締め出されています.したがって,科学者の言うことを聞いて,それを信じることしかできません.信じるだけならば,科学でも擬似科学でも神秘思想でも同じことです.

ですから,本物の科学を伝えようと思ったら,それは知識だけでは不十分なのです.真に伝えるべきは方法と世界観なのです.

伝えるべき方法,伝えるべき科学の本質とは,「懐疑主義に基づいた合理的方法」のことである.これこそが科学と科学以外のものとを分けるポイントになると著者は述べている.

現代の科学者はすべて,デカルトの直系の子孫と言っても過言ではありません.本物の科学の精神は彼から始まります.

デカルトは,ギリシア時代や中世から受け継がれてきた「仮説演繹法」を厳密に整備しました.まず,仮説からスタートします.それを論理的に演繹して結論を出します.結論が既知の事実に関することならば「説明」であり,未知の事実に関することならば「予測」です.最後に,結論を厳密な検証にかけます.検証の方法はいくつかあります.よく知られているように,「観察」「観測」「実験」などがありますが,理論同士に矛盾がないという「論理的整合性」をチェックすることも強力な検証の手段です.

つまり,科学は実証性がなくてはいけません.反証することが可能でなくてはいけません.結論を検証する方法が原理的に存在しなければ,それを科学と呼ぶことはできません.ただし,技術的に検証が難しいだけでしたら,科学と呼んでも構いません.(中略)

そして,科学には再現性がなくてはいけません.前提となる条件を同一に整えておけば,同じ現象が(確率的なふるまいであったとしても)再現できなくてはいけないのです.(中略)

さらに,科学は懐疑主義で臨まなくてはいけません.あらゆることを疑い,厳しい検証と批判にさらさなければいけません.そこで生き残ったものこそ,本物の科学です.無批判に受け入れたり,思考停止したりすることは,科学の最大の敵です.

では,伝えるべきもう1つのもの,世界観とは何か.岸田氏は以下のように説明している.

人類は社会性を進化適応の武器として選びました.大きくて柔軟な大脳が,そのために必要でした.その大脳は強い共感力と言葉による論理を人間にもたらしました.共感と理解による世界認識が,人間の大脳の持つ最大の武器となりました.それゆえ,人間は必然的に,ある心理的な傾向を持つことになりました.すなわち,相手の心をわかりたい,社会の仕組みをわかりたい,外界をわかりたい,自然をわかりたい,宇宙をわかりたい.人間にとって「わかること」こそが生き残りの道なのです.したがって,「わからない」という状態はとても不安です.それは,人間にとっては生命の危機を意味するからです.

新しい刺激が入力された時,人は自分の頭のなかにある「わかるための枠組み」に基づいてその刺激を位置づけ,わかろうとします.枠組みは経験によってできあがったものです.もし,何の枠組みも形成されていなければ,そもそも何もわかりません.このような枠組みのことを世界観といいます.

だから,人はわかりたいと思った時,まず欲しいのが世界観の器なのです.それは,身の回りで起きたことだけで構成されている日常的世界観かもしれませんし,現実に起きているあらゆることを世界史の一部として解釈する歴史物語的世界観かもしれません.自然や宇宙を認識する時,人によっては,科学的世界観でとらえていることもあれば,神話的世界観や宗教的世界観でとらえていることもあります.どの世界観が優れていて,どの世界観が劣っている,という問題ではありません.こういった世界観は,外界に適応するために,それぞれの人の経験や学習によって形成されたものなのです.

科学コミュニケーションにおいて大切なのが,知識の伝達ではなく,方法と世界観を伝えることであるならば,それらを多くの人達に伝えるためにはどうすればよいのだろうか.岸田氏は,方法と世界観を具体的なものに置き換えてみることが有効だろうと述べている.

たとえば,方法とは,研究活動そのもののことです.そして,研究活動とは,科学者の人生そのものです.さらに,世界観とは,世界を理解するためのストーリーであり,物語のことです.すなわち,「研究活動」「生の科学者」「物語」.こういったものを伝えることが,何らかのヒントになりそうです.

一方,科学的感性や確率論的感性を備えた知的市民を養成するためには,科学コミュニケーションのみならず,大学が果たすべき役割が大きいと指摘されている.

どういった知的市民を養成すべきかについても,私たち人類は考えなくてはいけません.これは主に大学の役割でしょう.大学が大衆化した今,多くの大学の最も重要な役割は,即戦力や専門技術者の養成以上に,いかに質の高い知的市民を養成するかということにあると私は思います.それが社会のゆくえを左右するからです.必要なのは新しい時代のリベラルアーツです.それは,学問的素養というよりも,共同体運営の素養です.人類が集団として生き延びるための知恵です.おそらく,鍵となるのは「総合化」だと思います.

さて,長くなってきたので,そろそろ締めるとしよう.本書は科学コミュニケーションについて書かれたものであるが,人間とは何か,科学とは何か,という本質的な問いについて考察するところから始まり,科学コミュニケーションが伝えるべきは,知識ではなく,科学の方法と世界観であると看破し,科学コミュニケーションの使命を再定義している.さらに,それにとどまらず,人類が生き残るために我々がなすべきことも指摘している.

視野が狭く,プレーの選択肢が多くない選手は,たとえどんなに特殊な技能を持っていようとも,ゲームを作ることはできません.同様に,たとえどんなに優れた専門家であっても,視野が狭く,世界のあらゆる問題を自分の問題として背負う気構えのない人には,文系・理系を問わず,世界を動かすことはできません.世界を本当に動かすのは,精神の自立と価値観の共有を両立させることに成功した,知的市民の成熟した連帯です.

知的市民が世の中を動かすのだとすれば,質の高い知的市民の養成が未来への鍵となります.必要なのは,知識や情報以上に,人類が集団として生き延びるための総合的な知恵です.これが新しい時代のリベラルアーツです.それは,脳が周囲の環境を総合的に認識するように,対象を全体的包括的にとらえるための教養であり,生きる力そのものです.リベラルアーツとは,世の中を動かすための必須の知恵,すなわち,共同体への責任を担った自由人の政治的素養なのです.

「科学コミュニケーション」について手軽に勉強しようと思って本書を手にしたのだが,その目論見は敗れた.もっとずっと深い内容が書かれていた.大学で工学・情報学系の研究に携わるものとして,どのように社会と繋がっていくかを今一度考えてみたい.

科学コミュニケーションに興味がある人はもちろん,そうではない人にも,お勧めできる本だ.

目次

  • 第1章 科学コミュニケーションとは何か -情報伝達と共感・共有の違い
  • 第2章 物理学が難しい理由 -人間の脳と思考の傾向
  • 第3章 アダムとイブの子孫としての私たち -進化による考え方の形成
  • 第4章 理と神秘の間に揺れてきた歴史 -科学という強力な道具
  • 第5章 科学への向き合い方 -文と理の分裂の地域差
  • 第6章 第三の方法へ向けて -共感・共有のための可能性
  • 第7章 バベルの塔 -人間と科学の責任
12月 022012
 

本の話をする前に,博士課程進学という決断について自分自身を振り返って,まとめておきます.

私自身の場合,もう20年近くも前のことになりますが,修士課程在学中に博士後期課程に進学する決断を下したのは,「この研究室で,このスタッフの下で,あと3年間頑張って勉強や研究をして実力をつけたら,後は自分で何とかなる」と判断したからです.もちろん,友人も含めて,ほとんどの学生は誰でも名前を知っているような大企業に就職していくわけで,給料が貰える彼らと比べれば,給料がないばかりか入学金や授業料すら支払わなければならない進学者は全く経済的に不利なわけです.それでも,どこで何をしないといけないかわからない就職よりも,進学の方がローリスクハイリターンだと判断したわけです.この「リターン」は経済的報酬のみを意味していませんが,長期的に見れば,生涯収入は自分の実力に依存するのだから,経済的にも問題ないと考えていました.甘かったのかもしれませんが,それだけ,レベルの高い研究室スタッフを信頼していたということです.

結局,修士課程を修了した直後に助手として採用していただいたので,博士後期課程の入学試験合格後に辞退届を提出して,進学はしませんでしたが.

大学院修士課程に進学するとき,希望通りの研究室に配属されました.そのときには,博士後期課程進学も含めて,大学に残るつもりは全くありませんでした.親に経済的な負担をかけたくなく,他の学生と同様に,サッサと給料が欲しかったからです.加えて,大学入学以降,京大も全く大したことがないと舐めきっていたこともありました.

そんな私が改心したのは,4回生で研究室に配属され,世の中には凄い人がいるものだと驚嘆してからです.なお,当時は学部と大学院で研究室を変えなければならないという規則がありました.既にこの規則はなくなりましたが,様々な研究分野を経験するという観点から,素晴らしい規則であったと思います.大学院進学後は,上述の通り,研究室のスタッフに非常に良く面倒を見てもらい,この人達に指導してもらえるなら,博士後期課程に進学する価値があると考えたわけです.それが,修士1年の終わりのことでした.

ここで,当時の教授に,どれほど親身に面倒をみていただいたかという話をしておきます.

それまで遊び呆けていた私でしたが,修士2年になるとすぐに,直接指導していただいていた助手の先生が海外の大学に9ヶ月ほど滞在されることになり,「じゃ,後はよろしく!」とだけ言い残して,去って行かれました.そのときから,研究グループを1つ任されることになりました.正直,「いやいや,指導してくれるんじゃなかったんですか!?」と驚きましたが,このときから,教授の指導下で研究を本格的に始めることになりました.

その後しばらくして,教授と他大学の先生と私の3者ゼミが始まりました.マンツーマンどころか,2人の大先生が学生1人のために家庭教師をやってくれているようなものです.その他大学の先生は教授の友人でもあり,物凄く優秀な先生でした.このときから10年以上にわたって,研究で大変お世話になることになりました.私の恩師の1人です.

さて,修士2年の夏,数ヶ月にわたって毎週土曜日に開催されたゼミで私に与えられた課題は,毎週論文1報を手渡されて,1)全文日本語訳する,2)式変形も含めて内容を完全に把握する,3)すべての計算(数値例やケーススタディなど)を追試する,4)ゼミで検討した内容を発表する,といったものでした.繰り返しますが,博士後期課程に進学すると言っているのに,それまで遊び呆けていたので蓄積はほぼゼロでした.このため,論文を読み始めても理解できないことだらけです.そこで,理解できない内容について調べるために専門書を漁りました.ところが,基礎学力がないため,専門書の内容が理解できません.そこで,数学を中心に基礎的な教科書を読みまくりました.すぐに研究室の机は,右に専門書の山,左に数学書の山で埋め尽くされました.土曜日のゼミ終了後から,土曜日のゼミ開始前まで,その2つの山に挟まれながら,死に物狂いで勉強しました.その時期は私が日本一勉強したと思っています.そのおかげで,勉強の仕方が身に付きましたし,その頃勉強した内容が現在の研究の基盤になっています.

そんな濃密なゼミを実施してもらっていた修士2年の夏(博士後期課程入学試験前)のある日,教授室に呼び出されました.教授の「○○先生(留学中の助手の先生)は他大学に移られるので戻ってこられない」という話に「???」となっている私に対して,教授は「助手になる気あるか?」と尋ねられ,「はい」と私は答えました.それだけのことで,実にアッサリと劇的に大学教員として研究の道で生きることが決まりました.

当然,論文0報どころか,国際会議に行ったこともなく,国内の学会発表ですら1回やったかやっていないかという状態です.そのような状態でよくもまあ助手(当時は誰でも任期なし)のポストを1つ埋める決心ができたものだと今でも感心します.それから(修士課程を修了してから)5年をかけて論文博士制度を利用して博士(工学)の学位を取得しました.

学位取得後すぐに,ボスが留学に行けと言ってくれたため,文科省の在外研究と学内の派遣制度に応募しましたが,いずれも不採択でした.そんな私に対して教授は「海外留学は若いうちに行かないと意味がない.必要なだけ研究室のお金を使っていいから,すぐに行け.300万円で足りるか?」と檄を飛ばし,私が「はい」と答えると,それだけで留学することが決まりました.実際に援助していただいた金額は覚えていませんが,米国オハイオ州で10ヶ月間,リッチな海外勤務企業人に紛れて貧乏大学人生活を送りつつ,貴重な経験をさせていただきました.当然ながら,助手である私が不在の間,教育や事務の負担を教授と助教授で分担して下さっていたわけです.何も文句を言わずに快く送り出すどころか,研究室の軍資金まで費やしたという教授の話は他に聞いたことがありません.

このような経緯で今の研究者・教育者としての私があるので,その教授には本当に感謝しています.このため,学生には,「縁を大切にしろ」,「最高の研究室を探せ」と繰り返して言うわけです.たとえ伝わらなさそうであったとしても.

心の底から,学生には良い教員に巡り会って欲しいと思っています.それに尽きます.そして,どのような教員が良いかは学生によって異なると思いますが,学生には,良縁・勝縁を手繰り寄せられる人物になる努力を怠らないで欲しいと思っています.

このような背景があって,学生に読むことを勧めているのが,安岡正篤氏の「青年の大成―青年は是の如く」です.

青年の大成―青年は是の如く
安岡正篤,致知出版社,2002

本書は,如何に生きるべきかということを,多くの実例を交えながら,わかりやすく説いています.きっと,心に響くことが見付かるでしょう.もちろん,何が心に響くかは,人によって,読むときによって,それぞれ異なるに違いありません.「一燈照隅・萬燈遍照: 足下を見つめ直す」にも書いた通り,私も大いに学ぶことがありました.

本書では,人間にとって最も大切なのは「徳」であり,徳性を身に付けるために修練しなければならないと説かれています.

大体,人間内容には,本質的要素と属性と二つある.つまり,本質と属性とに分けることができる.

我々の才智・芸能というものは,もともと属性である.どんなに立派であっても,どんなに有効であっても,要するに付属的性質のもので,決して本質ということができない.

人間たることにおいて,何が最も大切であるか.これを無くしたら人間ではなくなる,というものは何か.これはやっぱり徳だ,徳性だ.徳性さえあれば,才智・芸能はいらない.否,いらないのじゃない,徳性があれば,それらしき才智・芸能は必ずできる.

では,人間として自己を錬成するために必要なものは何か.それは3つあるといいます.寸暇を惜しむこと,私淑する師と良い友人を持つこと,そして,愛読書を持つことです.

第一に,寸陰を惜しむということです.

その次に心得べきことは,やはり「良き師・良き友」を持つということであります.

平生からおよそ善い物・善い人・真理・善い教・善い書物,何でも善いもの・勝れているもの・尊いものには,できるだけ縁を結んでおくことです.これを勝縁といい,善縁といいます.

良い師友と同時に,人間はどうしても愛読書がなければならない.座右に愛読書を置いておきたいものです.

なるべく精神的価値の高い,人間的真理を豊かに持っておるような書がよい.

ということは,たえず心にわが理想像を持つ,私淑する人物を持つ,生きた哲学を抱くということであります.これは,我々が人間として生きてゆく上に最も大切なことです.

現代人の一般的缺陥(けっかん)は,あまりに雑書を読み,雑学になって,愛読書,座右の書,私淑する人を持たない.一様に雑駁・横着になっている.自由だ,民主だということを誤解して,己をもって足れりとして,人に心から学ぼうとしない.これは大成するのに,最も禁物であります.

この他にも本書では様々なことが述べられています.日本の教育の失敗についても厳しく指摘がなされていますが,その中から,次の文章を引用しておきます.世間体の良い大学に通う学生には,肝に銘じて欲しいからです.

大学を出た人は偉いというように理解されまして,なるほど大学を出た者は頭も良く才気もありますが,人間の本質的な修行をしていない秀才という人々が沢山卒業しまして,そういう人々が指導者となって,近代の組織を動かしましたからその支配制度は,諸事にわたってまことにスマートで器用でありますが,人間として最も大切なことをとり残しております.これは日本の深刻な教育の失敗であります.

先に紹介した「人を動かす」(デール・カーネギー)などと比べると,かなり癖のある本なので,好き嫌いはあると思います.

後日談

さて,私の恩師であるその教授が停年退官されてもう随分になります.なにしろ,私が教授になるくらいですから.京都大学教授ともなると,定年退官後は私立大学などの教授として再就職される方も多いのですが,恩師は,

「事業の進歩発展に最も害するものは,青年の過失ではなくして,老人の跋扈である」 (伊庭貞剛)

という,第二代住友総理事を務めた伊庭貞剛の言葉を引用して,研究・学会活動などからは一切身を引くと宣言し,実際にそうされています.あまりにも鮮やかな身の引き方には,卒業生にも驚く人が多いです.国益という観点から,それが良いかどうかという議論は脇に置くとして,そんな身の処し方もあるのだと感心させられます.一般に,自分自身も含めて大学の研究者というのは非常に功名心が旺盛なものだと思うのですが,恩師は世俗的な名誉に執着する様子もありませんでした.退官前,そんな恩師が

「省りみて 栄華の日々を 持たざりし 我が人生を 自画自賛する」 (岡本文弥)

という境地までは達することができないと仰っていました.結局,受賞とか受勲とか,そんなものに意義を見い出すのではなく,人として如何に生きるべきかという問いに自分の人生をかけて自分なりの答えを出す,ということなのでしょう.そんな思いは,

「人を取り除けてなおあとに価値のあるものは,作品を取り除けてなおあとに価値のある人間によって創られるような気がする」 (辻まこと)

を格言とするところに見て取れます.また,印象に残っている言葉として,

Ultimately, we’re all dead men. Sadly we can not choose how. But we can decide how we meet that end in order that we are remembered as men. (Proximo, “Gladiator”)

を挙げられるていたことからも察することができます.

いま,私がこうして大学で教育や研究に携われているのは,偏に恩師のおかげです.遊び呆けて頭の使い方すら忘れていた学生に,教授みずから,論文の読み方,レポートの書き方,論文の書き方,学会発表の仕方を教えて,学生を正気に返らせるだけにとどまらず,研究者への扉を開き,その論文すべてをチェックし,数多くの国際会議に参加させ,一流の研究者と出会う機会を与え,さらには海外留学までも経験させていただきました.

時々,このことを思い出しては憂鬱になります.今の私はその期待に応えられているだろうかと.

進路に迷う

不思議の国で,アリスとチェシャ猫がこんな会話をしています.覚えていますか.

アリス「どちらに行ったらよいか教えていただけませんか」

チェシャ猫「おまえがどこへ行きたいかによるね」

アリス「どこだってかまわないんですけど」

チェシャ猫「それなら,どっちに行ってもいいさ」

アリス「どこかに着きさえすれば」

チェシャ猫「そりゃ,きっと着くさ.着くまで歩けばね」

幸運と健闘を祈ります.