12月 242012
 

科学コミュニケーション-理科の< 考え方>をひらく
岸田一隆,平凡社,2011

もう5年も前のことになるが,関テレが「私たちは何を間違えたのか 検証・発掘!あるある大事典」という検証番組を放送した.要するに,テレビ局が視聴率を稼ぐためにデマを流していたというのだが,そこには徹底した科学的態度への軽視があったように思う.この事件が発覚したとき,視聴者の怒りの矛先はもちろんテレビ局に向かったわけだが,「発掘!あるある大事典」の放送翌日にスーパーの店頭から紹介された食材が消えるという社会現象を,苦々しく,あるいは冷めた目で見ていた人も多く,スーパーに走っていた人たちは悪くはないが,科学的態度が身に付いていなかったことも確かだろう.

東日本大震災に伴う原発事故が重大な問題となり,反・脱・何とか原発と各派が入り乱れて世論を大きく分断するような事態となったが,そこで目立ったのも非科学的な言動であったように思う.御用学者といったレッテルとともに,科学に批判的な意見があちこちで目立つようになった.これだけ科学技術の恩恵を受けている人達が,無分別に科学技術を批判するのは奇妙なことではあるが,それだけ,絶対安全と言われ続けた挙げ句に引き起こされた原発事故とその後の対応は,科学技術への強い不信感を抱かせるに十分な出来事であったのだろう.

科学技術が日常生活の中に溢れ,日常生活を支え,これからも支えていく以上,科学技術に無関心であるのはよくないだろう.本書「科学コミュニケーション」で岸田氏はこう強調している.

科学が嫌いな人がいてもいい,おもしろくなくてもいいのです.ただし,無関心だけはダメなのです.

一般市民が科学に対する感性を持つことは,戦いにおける戦術のひとつを理解するようなものです.戦術を理解しなかったからといって反則をとられることはないように,科学に対する関心を持たなくても誰かから罰せられるわけではありません.ですが,チームの構成員の多くが戦術理解と共通認識を欠けば,チームは戦えません.同様に,新しい時代を築くにあたり,科学への無関心は致命傷ともなりかねません.おそらく,科学への無関心は,他人や世界に対する無関心とも結びついています.

科学に無関心な人は,一市民として科学を上手に利用する社会を作り上げていくことに協力できない.だから,本当は誰もが科学に関心を持つ必要があるわけだが,問題は,日本では知的市民の科学への関心が低いことである.こう岸田氏は指摘している.

知的市民は高等教育を経験しています.しかし,日本の学校教育は学生の能力開発よりも試験の成績を重視する傾向が強く,そのため,学校教育では詰め込んで得た知識は,卒業後にみごとに抜け落ちてしまいます.経済協力開発機構(OECD)が二〇〇六年に五十七ヵ国・地域の十五歳を対象に実施した学習到達度の調査では,日本の高校一年生の科学的知識は,やや後退傾向にあるとはいえ,世界の中でも上位に位置しています.それに対し,先ほども簡単に触れたように,成人の科学的知識となると先進国中最低レベルに落ち込んでしまう始末です.

困ったことに,社会を動かしている知的市民の科学への関心は,日本ではあまり高くありません.科学の知識レベルも先に書いたように残念な状態です.社会の未来を決めている人たちがそうであってはいけません.このままでは,人類の適応のための大切な道具を生かしきれずに,未来を歩まなくてはならなくなります.(中略)

私たちが私たち自身の未来を選ぶためには,まず最初に,現状把握と未来予測をしなければいけません.私たち自身が実際の分析を行うのは無理でも,専門家が出した具体策や数字に対して,私たち自身が判断をくだすのです.そのためには,批判的で健全な科学的感性や確率論的感性が,知的市民に備わっていなければなりません.次に,判断して選んだ具体策を,私たちみんなが同意しなくてはいけません.そのためには,危機に陥る原因となったそれまでの価値観を変革し,新しく選んだ価値観を共有しなくてはなりません.解体に向かった人々の間の結合も,何らかの形で再結成しなくてはなりません.すなわち,こういった知的市民の選択と採用に寄与することこそ,共感・共有に基づいた科学コミュニケーションの仕事なのです.

答えるべき問題は2つある.1つは,どのようにすれば科学コミュニケーションが知的市民の選択と採用に寄与することができるのかということ,もう1つは,どのようにすれば批判的で健全な科学的感性や確率論的感性を備えた知的市民を養成できるのかということだ.

科学コミュニケーションの在り方について,本書は科学者側に意識の変換を強く求めている.これまでのような押し付けがましい態度ではいけない,それでは嫌われるだけだと.

本書で繰り返し見てきたように,人間は本質的に社会的であって,科学には向いていません.科学的に考えるという行為は,人間の本来の心理的傾向からすれば,むしろ不自然なことらしいのです.そして,自分自身で多少なりとも科学に触れたくても,蓄積された科学の伽藍は巨大で道のりは果てしなく,多くの人は不安感や絶望感に襲われてしまいます.ですから,スタート地点として,「科学はつまらない」「科学は不自然である」「科学は人を拒絶する」という認識からコミュニケーションを始めた方がよいのです.科学嫌いの人たちに話を聞くと,「一人でも多くの人に科学のおもしろさを実感してもらい,好きになってもらいたい」という態度で,科学者や教師が近づいてくること自体が嫌われているようなのです.

科学コミュニケーションで伝えるべき内容については,徹底して,伝えるべきは知識ではなく方法と世界観であると強調されている.

科学は「方法」なのです.研究対象や得られた知識を指すのではありません.対象や知識の上では科学と同じ姿をしていても,方法の要件を満たしていないものは,科学とは呼べません.そういったものは「擬似科学」と呼ばれます.

科学が方法であり,観察や観測や実験による検証が重要であることは,科学者にとっては当たり前のことです.しかし,一般の人にとってはどうでしょうか.理論を一般市民が自分で検証することは,現代の科学では事実上不可能です.それに,ニュートン以降,物理学の専門書は,呪文のように意味不明なものになってしまいました.その呪文を解読するためには,大学院修了にいたるまでの長い修行が必要です.実験をするにも秘密の技と儀式を会得しなければなりません.科学の方法は厳し過ぎて,一般の人は完全に締め出されています.したがって,科学者の言うことを聞いて,それを信じることしかできません.信じるだけならば,科学でも擬似科学でも神秘思想でも同じことです.

ですから,本物の科学を伝えようと思ったら,それは知識だけでは不十分なのです.真に伝えるべきは方法と世界観なのです.

伝えるべき方法,伝えるべき科学の本質とは,「懐疑主義に基づいた合理的方法」のことである.これこそが科学と科学以外のものとを分けるポイントになると著者は述べている.

現代の科学者はすべて,デカルトの直系の子孫と言っても過言ではありません.本物の科学の精神は彼から始まります.

デカルトは,ギリシア時代や中世から受け継がれてきた「仮説演繹法」を厳密に整備しました.まず,仮説からスタートします.それを論理的に演繹して結論を出します.結論が既知の事実に関することならば「説明」であり,未知の事実に関することならば「予測」です.最後に,結論を厳密な検証にかけます.検証の方法はいくつかあります.よく知られているように,「観察」「観測」「実験」などがありますが,理論同士に矛盾がないという「論理的整合性」をチェックすることも強力な検証の手段です.

つまり,科学は実証性がなくてはいけません.反証することが可能でなくてはいけません.結論を検証する方法が原理的に存在しなければ,それを科学と呼ぶことはできません.ただし,技術的に検証が難しいだけでしたら,科学と呼んでも構いません.(中略)

そして,科学には再現性がなくてはいけません.前提となる条件を同一に整えておけば,同じ現象が(確率的なふるまいであったとしても)再現できなくてはいけないのです.(中略)

さらに,科学は懐疑主義で臨まなくてはいけません.あらゆることを疑い,厳しい検証と批判にさらさなければいけません.そこで生き残ったものこそ,本物の科学です.無批判に受け入れたり,思考停止したりすることは,科学の最大の敵です.

では,伝えるべきもう1つのもの,世界観とは何か.岸田氏は以下のように説明している.

人類は社会性を進化適応の武器として選びました.大きくて柔軟な大脳が,そのために必要でした.その大脳は強い共感力と言葉による論理を人間にもたらしました.共感と理解による世界認識が,人間の大脳の持つ最大の武器となりました.それゆえ,人間は必然的に,ある心理的な傾向を持つことになりました.すなわち,相手の心をわかりたい,社会の仕組みをわかりたい,外界をわかりたい,自然をわかりたい,宇宙をわかりたい.人間にとって「わかること」こそが生き残りの道なのです.したがって,「わからない」という状態はとても不安です.それは,人間にとっては生命の危機を意味するからです.

新しい刺激が入力された時,人は自分の頭のなかにある「わかるための枠組み」に基づいてその刺激を位置づけ,わかろうとします.枠組みは経験によってできあがったものです.もし,何の枠組みも形成されていなければ,そもそも何もわかりません.このような枠組みのことを世界観といいます.

だから,人はわかりたいと思った時,まず欲しいのが世界観の器なのです.それは,身の回りで起きたことだけで構成されている日常的世界観かもしれませんし,現実に起きているあらゆることを世界史の一部として解釈する歴史物語的世界観かもしれません.自然や宇宙を認識する時,人によっては,科学的世界観でとらえていることもあれば,神話的世界観や宗教的世界観でとらえていることもあります.どの世界観が優れていて,どの世界観が劣っている,という問題ではありません.こういった世界観は,外界に適応するために,それぞれの人の経験や学習によって形成されたものなのです.

科学コミュニケーションにおいて大切なのが,知識の伝達ではなく,方法と世界観を伝えることであるならば,それらを多くの人達に伝えるためにはどうすればよいのだろうか.岸田氏は,方法と世界観を具体的なものに置き換えてみることが有効だろうと述べている.

たとえば,方法とは,研究活動そのもののことです.そして,研究活動とは,科学者の人生そのものです.さらに,世界観とは,世界を理解するためのストーリーであり,物語のことです.すなわち,「研究活動」「生の科学者」「物語」.こういったものを伝えることが,何らかのヒントになりそうです.

一方,科学的感性や確率論的感性を備えた知的市民を養成するためには,科学コミュニケーションのみならず,大学が果たすべき役割が大きいと指摘されている.

どういった知的市民を養成すべきかについても,私たち人類は考えなくてはいけません.これは主に大学の役割でしょう.大学が大衆化した今,多くの大学の最も重要な役割は,即戦力や専門技術者の養成以上に,いかに質の高い知的市民を養成するかということにあると私は思います.それが社会のゆくえを左右するからです.必要なのは新しい時代のリベラルアーツです.それは,学問的素養というよりも,共同体運営の素養です.人類が集団として生き延びるための知恵です.おそらく,鍵となるのは「総合化」だと思います.

さて,長くなってきたので,そろそろ締めるとしよう.本書は科学コミュニケーションについて書かれたものであるが,人間とは何か,科学とは何か,という本質的な問いについて考察するところから始まり,科学コミュニケーションが伝えるべきは,知識ではなく,科学の方法と世界観であると看破し,科学コミュニケーションの使命を再定義している.さらに,それにとどまらず,人類が生き残るために我々がなすべきことも指摘している.

視野が狭く,プレーの選択肢が多くない選手は,たとえどんなに特殊な技能を持っていようとも,ゲームを作ることはできません.同様に,たとえどんなに優れた専門家であっても,視野が狭く,世界のあらゆる問題を自分の問題として背負う気構えのない人には,文系・理系を問わず,世界を動かすことはできません.世界を本当に動かすのは,精神の自立と価値観の共有を両立させることに成功した,知的市民の成熟した連帯です.

知的市民が世の中を動かすのだとすれば,質の高い知的市民の養成が未来への鍵となります.必要なのは,知識や情報以上に,人類が集団として生き延びるための総合的な知恵です.これが新しい時代のリベラルアーツです.それは,脳が周囲の環境を総合的に認識するように,対象を全体的包括的にとらえるための教養であり,生きる力そのものです.リベラルアーツとは,世の中を動かすための必須の知恵,すなわち,共同体への責任を担った自由人の政治的素養なのです.

「科学コミュニケーション」について手軽に勉強しようと思って本書を手にしたのだが,その目論見は敗れた.もっとずっと深い内容が書かれていた.大学で工学・情報学系の研究に携わるものとして,どのように社会と繋がっていくかを今一度考えてみたい.

科学コミュニケーションに興味がある人はもちろん,そうではない人にも,お勧めできる本だ.

目次

  • 第1章 科学コミュニケーションとは何か -情報伝達と共感・共有の違い
  • 第2章 物理学が難しい理由 -人間の脳と思考の傾向
  • 第3章 アダムとイブの子孫としての私たち -進化による考え方の形成
  • 第4章 理と神秘の間に揺れてきた歴史 -科学という強力な道具
  • 第5章 科学への向き合い方 -文と理の分裂の地域差
  • 第6章 第三の方法へ向けて -共感・共有のための可能性
  • 第7章 バベルの塔 -人間と科学の責任

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