11月 212013
 

生きる意味
上田紀行,岩波書店,2005

本書の出発点,現在の日本社会に関する問題意識は「生きる意味」の喪失にある.

「人生の意味」「幸福」に関しても,私たちはいつの間にか「他の人が欲しがるような人生をあなたも欲しがりなさい」という人生観を植え付けられてしまったのではないか.

実際,自分が何をしたいか明確でないけれども,とりあえず,なるべく有名な大学に進学して,なるべく有名な企業に就職したいと思うのは,他人が欲しがるような人生を自分も欲しがっておけば無難だろうという,言ってしまえば思考停止状態に他ならない.確かに,自分で考えなくて済むのだから,楽ではある.ただし,そういう人生を送ることが非常に難しくなってきているのが現実だろう.

本書では,様々な例を挙げながら,効率ばかりを追い求める現代社会の風潮や世間からの無言の圧力を憂い,特に「数字信仰」の問題を指摘し,自分なりの「生きる意味」を持つことの重要性を説いている.例えば,ガンと診断された場合,医者に勧められるままに延命のための治療を受けるのかどうか.仮に,ある治療によって寿命が1年延びるとして,死ぬまでの2年を副作用に苦しみながら病院で過ごすのだとしたら,それは本人にとって幸せなことだろうか.残された時間をどのように生きたいかが大切なはずだ.

病気を叩くために,数字を改善するために,患者の人間としての側面が犠牲にされる.患者の「生命力」にダメージが与えられる.患者の「生活の質」「人生の質」が低下する.こうした,医療における侵襲性の問題は,しかし医療だけの問題だと言えるだろうか.それは実は私たちの社会全体に蔓延している構造なのではないか.

大学人としては,教育の問題が気になるところだ.実際,入学試験でも単位認定でも「数字」が重視される.このことは当然だと思うが,それが人生のすべてではありえない.

「誰でも数学は八〇点を取らなければならない.一〇〇点を目指さなければならない」という教育は,非常に侵襲性の高い教育だと言えるだろう.とにかく点数を取らせるために,生徒がひとりの人間であることが無視される.その子がいまどんなことにワクワクし,どんなときに一番その若者の「生命力」が輝くのかを全く無視して,「高い点数を取る」という「数字」に邁進する.

(中略)

彼女は毎日絵を描きたいところを断念して,来る日も来る日も塾と予備校に通いだす.もちろんそれは多大な費用がかかるから,それは彼女の親に大きな負担をもたらす.そして,そうやって努力して,何とか八〇点とは言わないまでも,六五点まで数学の点数は上がり,私たち教師は「指導の効果があった!」と喜び,親たちも「高いお金を払って塾に行かせて良かったわねえ」と喜ぶ.しかし,その生徒はそうやって「まあまあの優等生」になった代償に,いのちの輝きを失ってしまう.出来上がったのは,どこにでもいそうな「ちょっと勉強ができる子」である.しかし,彼女の目は以前のように輝いてはいない.そして「私なんかどこにでもいそうな女の子ですから」と醒めた表情で語るのだ.

著者はさらにこう続ける.

生徒ひとりひとりの「生きる意味」を無視して,とにかく良い成績を取れればいいといった場からは,人生を生きる意味も感性も育むことはできない.「ワクワクすること」を抑圧する侵襲性の高い教育からの転換が必要だ.

生徒ひとりひとりを固有の「生きる意味」を生きている存在として見る.教師にしても生徒相互にしても,そうした感受性へのシフトが必要である.しかし「内的成長」を育む教育とは,いわゆる「道徳教育」とは全く異なるものだ.人間としての「正しい生き方」をすべての若者に注入するといった教育が「心の教育」だと思っている人は多い.しかしそういった,ひとりひとりの姿を見ない,画一的な教育の対極にこそ,「内的成長」を育む教育はあるのだ.

昨今の「道徳教育」に関する議論に通ずる指摘だが,政策はあくまで画一的な教育を志向しているようにも思える.事故を起こした原子力発電所の汚染水問題などでもそうだが,現場に権限を与えることをしないのが,様々な階層の組織に共通した特性だろうか.私に身近なところで言えば,大学では,むしろ,現場から権限を取り上げて学長の権限を強化しようという流れになっている.しかしそれも「数字(大学ランキングなど)」を良くするためにはそうした方が良さそうだからという発想ではないだろうか.「そもそもどうあるべきか」を顧みることのない狂騒は避けたいものだ.

本書が刊行されてから随分と経つ.その間,さらに生きづらい社会になっているようにも見えるが,まずは自分を大切にするところが出発点だろうか.自分を大切にしないで,他人や社会を大切にできるとも思えない.自分なりの「生きる意味」を見いだし,その意味を大切にしよう.本当に,かけがえのない自分の人生なのだから.

私たちの出発点は,自分自身が「交換可能」な存在であり,「かけがえのない存在」であると感じることができないという「生きる意味の病」であった.そして私たちの到達点は,自分自身で自らの「生きる意味」を創造していく社会である.それはひとりひとりがオリジナリティーのある生き方を獲得する社会だと言ってもいい.

目次

  • 「生きる意味」の病
  • 「かけがえのなさ」の喪失
  • グローバリズムと私たちの「喪失」
  • 「数字信仰」から「人生の質」へ
  • 「苦悩」がきりひらく「内的成長」
  • 「内的成長」社会へ
  • かけがえのない「私」たち

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