3月 262017
 

啓発録
橋本左内(著),伴五十嗣郎(訳),講談社,1982

啓発録

橋本左内(橋本景岳)が満14歳にして書いた「啓発録」に感服する」の続き.

本書「啓発録」には,「藩校明道館における布令原案」が収録されている.そこに学問についての記述があるので,訳文を引用しておく.

学問とは,人として踏み行うべき正しい筋道を修行することであって,技能に習熟するだけのものでは,決してない.ところが,とかく学問とは技能の修行と心得ている者が多くて,自分は学者になる家柄に生まれたのではないし,またそのつもりもないから,そう深く学問をする必要はないなどと,口ぐせのようにいっている人を見かける.これは結局のところ,学問を技能の修行と心得ることから生ずる間違いである.たとえ,どんなに詩文を上手に作れるようになっても,故事などを博く暗記したとしても,それだけでは一種の芸人となり得たに過ぎない.

近年,「二次方程式を解かなくても生きてこられた」「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので,このようなものは追放すべきだ」と発言するような一種の芸人もいるようだが,幕末には既に橋本左内がこのように意見書に記しているわけだ.

目次

 
啓発録
書簡
意見書
漢詩

3月 262017
 

啓発録
橋本左内(著),伴五十嗣郎(訳),講談社,1982

啓発録

橋本左内は福井藩医師の家に生まれたが,その才覚を認められ,京都や大阪,江戸に遊学し,幕末の志士として活躍した.しかし,活躍したと言っても,安政6年(1859年),26歳のときに,大老井伊直弼が仕掛けた安政の大獄で,伝馬町牢屋敷にて斬首された.吉田松陰が処刑されたのが30歳のときであるから,それよりもさらに若くして亡くなっている.それにもかかわらず,後世に与えた影響は大きい.

本書に収録されている書簡「村田氏壽あて(安政4年11月28日)」は,刑死2年前に記された手紙であるが,イギリス,ロシア,アメリカといった大国にどのように対応していくか,内政をどのように舵取りしていくかについての見通しが記されており,当時の国際情勢や地政学を踏まえた大局的な見解に驚きを禁じ得ない.橋本左内は,隣国であるロシアと同盟を結び,イギリスと対峙すべきであり,その体制が整うまではアメリカの援助を受けてイギリスを牽制すべきと主張している.また,ロシアやアメリカから優秀な人材を雇用し,西洋の学問や技術を早急に取り入れるべきと述べている.内政においては,島津斉彬を宰相に取り立てるなど,危機を乗り越えるために,立場を超えて挙国一致して国政を執り行うべきと主張している.さらに,江戸幕府第14代将軍の世継ぎに関して,藩主松平春嶽を助け,一橋慶喜の擁立を目指した.だが,最終的には,この一橋慶喜を擁立する動きは大老井伊直弼によって潰され,橋本左内は処刑されることになる.

また,別の書簡「中根雪江あて(安政3年4月26日)」においては,藩の重鎮である御側御用人の中根雪江に対して,「現在の我が藩は,人体にたとえれば虚弱の容体,それに加えて体内に閉じふさがった部分もあり,その上,その養生法がよくありません.」「第一に大切なことは,この養生法にありまして,これが宜しくないのは,恐れながら殿様のお手許近くに,その原因がございます.」と書き送り,藩主松平春嶽をたてながらも,要職にあるものを容赦なく批判している.さらに,「士気は軟弱軽率である上に派手やかで,全く無駄に俸給を費やし,主君の御趣旨を理解しようともせず,上司に媚びへつらって取り入ることがばかりを考え,その思いが醜く形にあらわれている」「学校は政治の根本であり,人を教化する上で最も基本となる重要なところでありますが,現在の状況は全く名ばかりで,その運営に思い切った御処置もなく,実際に世の中で役立つ才識を身につけさせるという点でも,成功を収め得る御目算もまだ立たず,ただ,実りのない議論ばかりに日を送られておる有様です.」と本当に手厳しい.極めつけは次の文章だ.国是を定めるためにと帰国の命を受けたことに対して,無駄な会議のために帰国はしませんと明言している.

相変わらず例の実りのない議論ばかりに一日を費やし,後はただ嘆息ばかりといった状態になるのでございましたら,わたくしだけは除外いただきたく存じます.そのようなことならば,いかにご命令を受けましょうとも,なかなか帰国などいたしません.

わたくしは目前の御用に役立つようなことは好きでありませず,ここ十年ばかりの間は,じっくりと諸種の学問を研究し,世の中の変遷推移を見定めて才識を練り上げ,少しは物事も分かるようになった上で,それまでの御恩遇に一挙に報いたいものと存じております.そのため,今の段階では無駄に時間を消費したくないのであります.

誠に勇気のある態度であり,橋本左内の忠孝がよく伝わってくる.

さて,「啓発録」は橋本左内(橋本景岳)が満14歳にして記した文章である.学問を志そうとする自分自身がまずもって確立せねばならない重要な問題として,「稚心を去る(去稚心)」,「気を振るう(振気)」,「志を立つ(立志)」,「学に勉む(勉学)」,「交友を択ぶ(択交友)」の5つの項目が記されている.これが満14歳の文章かと,これが満14歳の心得かと,感服するほかない.

この「啓発録」には,後に橋本左内の友人である矢嶋皡が序文を書いている.橋本左内が福井藩の藩校「明道館」の幹事に抜擢され,その運営を任された後,矢嶋皡に序文の執筆を依頼したことによる.その序文には,橋本左内(橋本景岳)について次のように記されている.この序文を読むだけでも,橋本左内の凄さが伝わってくる.

(橋本景岳が京都や大阪の遊学から福井に戻ってきたとき)その態度は落ち着いていて考え深く,誠にくわしく正確な学識を身に付けており,文を書いても議論をしても,筋道が明らかで師承があり,一つとして自分一人の思いつきの論などなかったのであります.

そもそも学問の根本は忠孝の精神にあります.景岳は,その根本を十余年以前からしっかりと自覚していたのですから,その学問が驚くほど急速に進歩したことに,なんの不思議もなかったのであります.この「啓発録」を読んで,景岳に抱いていたわたくしの疑問ははじめて氷塊いたしました.思えばそのころのわたくしどもは,せっかくの気概の盛り上がりを,激論することによって一時の快感に換え,発散させてしまったのに,景岳はそうした気概を言葉や表情に出さず,長い間じっと身体の中に蓄積しておいて,一気に学問素養の上に発揮した爆発させたのであります.

「啓発録」から,いくつかの文章を引用しておく.

稚心とは所謂をさな心のことで、俗に子供つぽいといふことである。(中略)何物によらず、この稚を離れない内は発展するものではない。(中略)故に自分は武士道第一歩の心得として、稚心を去ることを主張する。

確認しておくが,これは橋本左内が満14歳にして書いた文である.

志のない人間は魂のない虫と同じで、何時までたつても発展することは絶無である。(中略)我々はこゝに於て志の大小が、その儘人間の大小を決定する最大の要素であることを知る。

学とはならふと読み、凡て自己よりも優れた人々の善事、善行を模倣して、自分もその地位にまで達することを意味する。(中略)然るに後世に至ると、この学の意味を全然誤解若しくは制限して、単に詩文を創作し、読書することだけを学の全体と考へるやうになつて来た。学の本質から見るとこれほど妙な変化はないのである。

友人の中にも損友と益友とがある。こゝに選択の必要を感ずるのだ。損友には自分の得た道でその欠点を矯正してやるのが正しく、益友には自分から進んで交りを厚くし、万事を相談して常に兄事しなければならない。自分は世の中に益友ほど大切なものはないと思ふ。又益友ほど得るのに困難なものない。故に一人でもそれを持つてゐたら、この上もなく大切にしなければならない。

聖人の書かれたものに「士に争友あれば、無道なりと雖も、令名を失はず」とある。この争友とは益友のことだ。自分の欠点を遠慮なく告げ、自分をより正しい道に導いてこそ、自分で知らない欠点にも気付き、矯正するやうになるのではないか。

「啓発録」を読んだことがない人には,是非,全文を読んでもらいたいと思うので,以下に口語訳全文(「大日本思想全集」第十八巻)を引用する.

目次

 
啓発録
書簡
意見書
漢詩

啓発録

稚心を去る

稚心とは所謂をさな心のことで、俗に子供つぽいといふことである。何も人間のみに使用されるものでなく、譬へば果実、野菜などでも未だ十分に熟しない間を稚と称する。それは凡て水くさく、成熟した本来の味を具へない間を言ふ。何物によらず、この稚を離れない内は発展するものではない。

人間も勿論これの例外ではなく、竹馬、紙鳶、打毬の遊びなどを好み、石を投げたり虫を捕へたりする事に夢中となり、或は何の種類に関せず口当りの甘いものを貪り、勤勉する気なく父母の目を盗んで自己の修業を怠り、又は父母への依頼心が強く、厳格な父兄を恐れて、穏和な母の膝下から離れない類は、皆少年の水くさい心が原因となつてゐる。これも余りに年齢が幼なければ止むを得ないと許されもしよう。然し十三四歳にもなり、学問に志した後にもこの心が僅かでも残つてゐるならば、何事も上達せず、とても天下の大豪傑などになれる筈はないのである。

源平が東西に分かれて覇を争つた時、また近くは元亀、天正の頃までは、十二三歳で父母から離別して初陣し、多大の功名を顕はして天下に名を挙げた人物も少なくはない。この人々は既にその頃には全く稚心を去つてゐたからであつた。若し稚心が残つてゐれば、親の下から一寸も離れられないので、到底戦場の功名などは思ひもよらない。更に稚心の害を挙げると、これを除かなければ絶対に士気が振はないので、永久に腰抜武士として人々から軽蔑されなければならない。故に自分は武士道第一歩の心得として、稚心を去ることを主張する。

振気

気とは何事も他人に負けてはならないとする気持で、人の下位に在ることをこの上もなく残念に考へるところから発する。所謂意地張りに外ならない。振とは確定した目的の下に一刻も油断なく、心の緊張を失はないことである。この気は生きとし生きるものの全部が所有し、禽獣ですらも相当に持つてゐる。非常に気の立つた禽獣は人を害し、苦しめる場合がある。まして人間は気の持方一つで、その人を如何なる地位にも達せしめることが出来る。

人間の中でも武士程気の強いものはない。故に世間では普通士気と称してゐる。一般の人々が、如何に若年であつても両刀を帯びた者に無礼な行動をしないのは、全くこの士気を畏れるからで、その人の武芸、力量、地位などを考慮した結果ではない。然るに長く泰平が続くに従つて士風は軟弱となり、武士の家に生れながら、第一に練習しなくてはならない武芸一般の修業を怠り、徒らに地位を望み、女色に耽り、利に走り、権力者に附く事のみに汲々として、前述した人に負けない魂、恥辱を死より重大視する、雄々しい武士精神が全然失はれてしまつた。現在の武士は腰に大小こそ帯びてゐるものの、大風呂敷を坦つた商人、樽を売買する賤しい人々より遥かに気力の点では劣り、聞えるか聞えない程の雷声にも恐れ、甚だしいのになると、犬の吠えるのを聞いても跡ずさりするやうにまでなつてしまつた。実に甚だしい変化で、而も悪い方面に変つたものではないか。

それにも関はらず町人、農夫などは今でも武士を貴んで御武士様と称してゐる。これは武士の本質を認めて貴んでゐるのではなく、全く我君の御威光に畏服してゐるので、止むを得ず、表面上の武士といふものに頭を下げてゐるに過ぎない。昔の武士は平時には農民と変らず、鋤鍬を手にして畠で働いてゐた。畠で労働する点は農民と少しも変りはないが、心の持方に於て全然それとは異り、常に恥辱の何たるかを知り、人の下位に立つことを欲せず、如何なる事情でも節を曲げて権力に盲従することはなかつた。この故に一朝事が起つた場合には、朝廷或は将軍家から御召しがあり次第、直ちに鋤鍬を打捨てて武具に身を堅め、千人、百人の隊長となつて、虎狼に似た勇士どもを手先きとして、生命のあらん限り斬つて斬つて斬りまくり、成功すれば歴史上に不朽の名を増し、武運つたなく一戦に破れゝば、屍を原野に曝すことを少しも恐れなかつた。これ程の勇猛心は富貴にも曲げず、死の前にも躊躇しなかつたので、世間の人々がその心に感じ、義勇に畏れて心服し、武士を尊敬したのである。

今の武士をこれと比較すると余りの相違に一驚を喫しない者はあるまい。勇気がなく、義理には薄く、智略も不足してゐるとすれば、千軍万馬の中に斬り入つて、四辺に人のないやうに縦横に馬を乗り廻せと言ふ方が無理なのでもあらう。まして身は本陣に在つて遠慮大計の下に敵を鏖にする程の才能は決して望めるものではない。故に結局、現在の武士は町人、農夫に両刀を帯びさせたものと少しも違はず、寧ろ武士から両刀を奪へば、かの町人、農夫にも劣る者がどれ程居るかわからないと言つても宜しい。農夫は平常から労働に慣れてゐて、筋肉は大いに発達してゐる。町人も汚はしい商売であるが、利の方面に並々ならぬ苦労を積んでゐるので、智力がそれに相当する者でなければ渡世は出来ない。今若し天下に事が起つたならば、種々の功名を行ふ者は却つて農夫、町人から出て、第二の福島左衛門大夫、片桐助作、井伊直政、本多忠勝と言つた人々は、現在の武士から或は出ないのではないかと、心細くて仕方がない。これと言ふのも今の武士が余り士気に欠けてゐるからに外ならない。

これ程その本質に欠けてゐる者にすら、平常から高位、高禄を賜はり、何の不安もなく経済的の安定を得てゐられるのは、限りない君恩の為めだから、今更に我々は感謝しなければなるまい。これだけの御高恩を蒙りながらも臆病の武士のみで危険な場合に我君に御恥辱を蒙らせるとしたら、実に何とも申訳ない次第だと言はなければなるまい。これを考へると、心ある武士は床についても目が合はず、物を食しても味を知らないのが当然である。

現在我々が今書いた通りの御恩に浴してゐるとすれは、我々の先祖は君に対して幾分でも功労があつたものと見なければなるまい。その後代々無為徒食で居られることを思へば、僅かでも学問を心掛け、忠義の一斑をも小耳に挟んでゐる我我は、如何にしても一生涯の間には、露ほどの忠義を尽し、御恩に報ゆる目的で一切の艱難を忍ばなければならない。この忠義の心を常に引立たゝせて逆行しない為めには、前述した士気を忘れず、人の下位に立たない気位が絶対に必要である。但しこゝに注意を要するのは、如何ほど士気が立つても、自己の志が立たない以上は、春になつて結氷が解け、酒の酔のさめるやうに、本人の努力にも関はらず、士気は失はれ勝ちになるものである。故に気一度正確に持てば、次に志を立てるのが甚だ大切となる。

立志

志とは心の赴く方向を意味するので、自分の心の向つて行く点について言つたものである。武士と生れて忠孝の心がない者は一人もない。忠孝の心があり、君と親ほど大切なものはないと合点が行つたならば、必ず自重して如何にしても弓馬、文学の道で名を揚げ、古来の聖賢、君子、英雄、豪傑と言はれる人々の仲間入りをして、君の御為めに一命を犠牲にし、天下、国家の利益になる大業を起して、親の名までを揚げ、この一生を無駄に費すまいと考へるのが当然で、こゝに至つて志は一定したと言ひ得る。一度志を立てた以上は、何よりも先づ目的を定め、一刻も徒費せず、確実な道を歩んでそれにまで達しるやうに努力するのが宜しい。

志は如何なる場合に立つか。大体それを次の四種に分類することが出来る。先づ第一は読書に依つて古来の人物の経歴を知つて自分もそのやうにならうと思ふこと。第二に師友から直接、間接に種々のことを聞いた結果発憤すること、第三には自己が何等かの理由で非常な逆境に陥つた時、反射的に大勇猛心を起すこと、そして第四には或事物に感激したことが原因となつて志を立てるもので、平常何の不足も感激もなく平々凡々に暮して、心の緊張を失つてゐるやうな時には志の立つものではない。

志のない人間は魂のない虫と同じで、何時までたつても発展することは絶無である。然るに一度何物にも妨害されないほどの志が立てば、それ以後は日夜生成して行くもので、丁度芽を出したばかりの草に栄養味の多い土を与へるのと同じとなる。古来天下に名を揚げた人物も、別に目が四箇あつたのでもなければ、口を二つ所有してゐたのでもない。皆その大志と、堅固な意志とに依つて途に芳名を天下後世に垂れたのである。大多数の世間の人々がそれと反対に、平凡な一生を終るのは、これも矢張り志が小さく、意志が弱いからだつた。我々はこゝに於て志の大小が、その儘人間の大小を決定する最大の要素であることを知る。

又志を立てた者は、一定の目的から江戸を旅立つて行く者に譬へることが出来る。今朝城下を立てば今夜は越前の今荘、明夜は近江の木の本といふやうに、日毎に目的に近寄ることが可能となる。更に聖賢、豪傑の地位は日本全国に対する江戸のそれだと言ふことも出来やう。今日只今から聖賢、豪傑を志した者が、明日、明後日と順次にそれに合しない性質を少しづつ去つて行けば、如何程最初は才智の欠乏した者でも、遂には聖賢、豪傑の地位にまで達し得る道理ではないか。丁度これは足弱な者でも、江戸に行かうとする目的が堅ければ、何時かは到著し得るのと同様である。

次に志を立てた以上は、その目的を達しなければ意味をなさない。目的を達するには一途にその方面のみを志して他方は一切犠牲にする必要がある。自分の心を一途に向けなければ、戸閉りのない家にも似て、盗人や野犬などが勝手に入り込み、迚も自分一人で番は出来ないものである。又家の番人には他の人々を当てることも出来やうが、心の番人を一体誰が引受けるであらうか。結局自分の心を一筋に持ち、自身で十分に監視する以外はない。

目的に沿うて脇目もふらず一心に進むのは、特に少年には困難とされてゐる。兎角少年の間は人々の行ふことに目が散り、心が迷ひ易いもので、人が詩を作れば詩、文章を作れば自分もその方面に従ひたがり、武芸とても友人に懸命となつて鎗を練習する者があれば、今日まで習つてゐた太刀の業を中止して鎗を習ひ始める。これこそ決心の定まらない、少年にとつて第一の病根だと言へる。故に自分の知識が僅かでも開けたならば、万事遺漏なく深く考へ、自分の将来の方針を決定し、その後師についたり友人に計つたりして不足点を補ひ、方針を動かさないやうにして多岐に亙ることのないだけの用意と、覚悟とを怠つてはならない。凡て心が迷ふのは幾筋にも分かれてゐる証拠で、幾筋にも分かれることは自己の目的と方針とが一致しないことに外ならない。心が一定せず、常に動揺して昔から聖賢となり、豪傑となつた者は一人もないことを忘れてはならぬ。

志を立てる動機に関しては前述した四箇の種類が数へ上げられるが、自らその目的を達する手段の上には近路と遠廻りとがある。自分がその中で最も近路だと思ふのは、聖賢の書物又は種々の歴史本の中で、自分が特に刺激を受けた部分を別紙に書き抜いて壁に貼つて置くか、又は扇面などに記して置き、日夜、朝夕それを眺め、常に反省しつゝ及ばない点について勉め、進歩を楽しむのが宜しい。志は立つても、学問に忠実でないと、何時の間にか立てた志も忘れ勝ちとなり、次第に時と共に愚鈍となり、道徳も低下することがある。故に次には学問に対する自分の考へを述べて見よう。

勉学

学とはならふと読み、凡て自己よりも優れた人々の善事、善行を模倣して、自分もその地位にまで達することを意味する。故に一例を挙ぐれば、忠義、孝行の人及び事を見ては、直ちにその人の平常の行動、又はその事などを倣ひ、自分も必ずその人に負けない程の忠孝の武士にならうと、堅く志すのが学問の第一義である。然るに後世に至ると、この学の意味を全然誤解若しくは制限して、単に詩文を創作し、読書することだけを学の全体と考へるやうになつて来た。学の本質から見るとこれほど妙な変化はないのである。

詩文の創作や読書は本来学問の一方法に過ぎぬ。云はゞ刀の柄や鞘、又は二階に昇る階段と等しいのである。それらを学問の本質と考へる人は、丁度柄や鞘を刀と考へ、階段を二階と思ふ人と愚かさに於ては少しも変りはない。実に浅薄な荒削りな思想ではないか。

学問の方針としては忠孝の筋と文武の業とより以外に何もあり得ない。一点の不純心なく君に忠、親に孝を尽して文武二道を励み、泰平の世に御側を召使はれた際には、君の御過失を矯正し奉る、御徳を益々盛んにし、若し何等かの役に命ぜられた場合には、自己の責任を十分に尽し、依怙贔屓なく、賄賂などを絶対に受けず、何処から見ても非難点が少しもなく、その役所内の同輩の尊敬の中心となることを、平常から心掛けるべきだ。不幸にして乱世に逢つたならば、自己の専門となつた方面から全力を費して賊を亡ぼし、国家を平穏の地に置くのが第一で、或は太刀、鎗の功名、組打の手柄、又は陣中に在つて謀略を出して敵を苦しめ、更に兵糧係及び手道具係となつたならば、迅速に事を整理し、味方に飢渇の思ひをさせず、兵力の減じないやうに平常から練習して置かなければならない。但し今述べたことを行ふにも、或程度の予備知識が根本となる。古今の様子を残らず知り、如何に急激の変化に出逢つても、断然処置に迷はないだけの決心が必要である。この予備知識を満たす為めに、常に学問を専務とし、自己の心胆を練ることが第一の要件である。

然るに少年の間は一生涯の目的が決定してゐない為めに、自己の責任にも冷淡で、従つて万事に忍耐が欠けてゐる。今本を読んでゐたと思へば二三日で止め、直ちに武術の方に熱中すると言つた風に、一事を根気よく長時間続けることは困難なのである。如何に困難だと言つても、この習慣だけは守りたいもので、勉とはそれに打勝つだけの忍耐力の養成を意味する。何事でも長時間の努力の結果でなければ、効果が見えるものではない。まして学問の本質が物の理を究明し、人としての道を明かにすることにある以上、短時間で仕上げようとしたり、方々に移つたりしては、真の道が発見出来ず、従つて実際的の効果を見得なくなる。更に世間には凡俗が多いので、少しばかり学問をすると、兎角慢心が起り、慎重な態度を失ひ富貴、功名の念に動かされたり、余りに度を過ごした得意になる人々も見かけるが、それを矯正する最も宜しい手段は良友の感化以外にはない。この故に友人を選択し自己の欠点を補ふことは、武士にとつて特に大切だと考へる。

朋友を択ぶ

交友とは自分が平素接してゐる友人のことで、択ぶとは多数の中から少数に注意してそれを引出す意味である。元来人間に交際が必要なのは今更言ふまでもないので、同門、同郷、或は同年輩の人々が、自分に交際を求めたならば、出来る限り大切にするのが宜しい。但し友人の中にも損友と益友とがある。こゝに選択の必要を感ずるのだ。損友には自分の得た道でその欠点を矯正してやるのが正しく、益友には自分から進んで交りを厚くし、万事を相談して常に兄事しなければならない。自分は世の中に益友ほど大切なものはないと思ふ。又益友ほど得るのに困難なものない。故に一人でもそれを持つてゐたら、この上もなく大切にしなければならない。

友と交際するにも一定の心得がある。昔の人は飲食、娯楽での他の遊び事の上の交際は不可であり、学問の研究、武事の練習、精神上の鍛錬から一致したものでなければ友人に持つなと言つたが、自分もそれには大賛成である。飲食及び遊山などの友人関係は、平常こと/゛\に肩を並べ腕を組んで、「貴公こそ自分を全部理解してゐる」などと言ひ合ふが、平生から自分の徳を補ふものではなく、万一の場合に自己の危難を救つてくれるものでもない。この種の人々に対しては特に自己を警戒し、余りに狎れ親しむことなく、自分の道が少しでも曲げられないやうに注意し、その上で相手を正道に導き、武道なり学問なりに懸命となるよう感化するのが真の友情といふものである。次に益友から受ける印象は確かに損友から受けるよりも悪いことがあるに相違ない。或は時には自分の感情を害する言行があらうが、これは前以て覚悟する必要がある。益友の益は全くその点に在るのだ。聖人の書かれたものに「士に争友あれば、無道なりと雖も、令名を失はず」とある。この争友とは益友のことだ。自分の欠点を遠慮なく告げ、自分をより正しい道に導いてこそ、自分で知らない欠点にも気付き、矯正するやうになるのではないか。若しこの種の益友の異見を嫌つてゐたのであれば、丁度諌臣を疎まれる天子、諸侯と同じく、結局は悪臣の為めに禍ひを蒙り、意外な災難にも遭ふのである。

然らば何を基準として我々は損友、益友を区別するか。先づ益友とは如何なる性質を持つてゐるかの問題から考察して見よう。益友の性質は次の五類に限られてゐる。第一は態度が公明正大で勇気ある人、第二は温良篤実な人、第三は絶大な元気があり、事物を躊躇なく断行出来る人、第四は非常に頭脳が優れてゐて平常の様子が朗かな人、そして第五は清濁を併せて呑み得る濶達な人である。但しこの第五の場合の清濁とは決して世の悪人までをも許す意味ではなく、多少の欠点が目立つ人でも平気で交際出来るほど感化力の強い人のことだ。これらの大部分は何れも平常からの態度、一拳一動を慎むので、世の俗人どもからは余り歓迎されない一般性を有してゐる。又損友の通有性は一定した節操がなく、権力者には御世辞を言つて気に入られようとし、平生の態度が全然軽率そのものである。慎重な態度を採らないから人々と何事でも話を合はせる。話を合はせるから、一方に於ては実に識見のあるやうに過大視され、他方では婦女子、小人などはその本質を知らず、表面に顕はれたものを中心として盛んに賞讃するが、将来聖賢、豪傑を志した者は、この種の本質を看破しなければならない。

以上の五筒条は入門の少年にとつて最も必要だと思ひ、条書きと説明とを加へたものである。

自分は厳父の教に従つて常に書史に接してゐるが、性来余りに一本気で怠慢な為めか、少しも進歩しないやうに思はれて仕方がなかつた。「何故これほど懸命となつても進歩しないのか」と考へると、種々それに連関した悲観説のみが頭に浮び、夜になつて床に入つても寝られない時が多い。「これではならない。こんなことでは駄目だ。何とかして天晴れな名誉を立てて父母の名を顕はし、将来は君の御用にも立ち、祖先の功に報じたいものだ」と常に考へ、枕に落ちる涙にぬれつゝ固く誓つてゐたものだが、次第にその効が顕はれて来たやうにも思はれる節があるので、後日の遺忘の為めに以上の心得書を草したのである。勿論、当時人々に示さうなどとは思つてゐなかつた。

顧みるに自分の家は代々医を専門としてゐる。若し自分がこの方面に専心に従事したならば、最初からの目的を達する機会はないであらう。この点が自分にとつて最大の苦悩であつたのだ。然したとひ医を業としてゐても、目的さへ変化しなければ決して誰にも恥ぢる要はない。自分は自分の苦悩をかうして解決した積りでゐるが、果して妥当であるか否かは言表の限りではない。若し後世の人々が自分の心の悩みを理解して呉れたならば、自己の進んだ方面に対して同情を持つてくれるであらうと信じる。かう思ふのは余りに僭越だらうか。

嘉永二年戊申季夏

橋本左内誌す

この啓発録は約十年以前に自分が手記したものである。内容は浅薄だと評し得るが、当時、時代への反抗性及び自分の気概は寧ろ今日以上のものがあつたと言はざるを得ない。長年間本箱の片隅に置かれて顧みなかつたが、偶然に最近それを取出す機会を得たので一本を浄書し愛友の子秉及び弟持卿に示して、自分の過去に於ける気持を明かにして参考にさせたのだつた。自分の十年前はこの中に明瞭に現はれてゐる。十年後の今日は君等の御承知の通りな境遇である。今後十年を経た後に、一体自分の心境及び境遇は如何になつてゐやうか。その時更にこれを読み返して、赤面せずに済むならば幸福である。

安政四年丁巳五月

二十四歳の景岳記す